夜の訪問者
魔王との遭遇――半信半疑みたいだったけど――の興奮が収まってから、職人さんたちは汚れ物をカウンターに戻し、宿舎へ戻って行った。騎士たちも代金を払って、それぞれ馬に乗り、騎士団の宿舎へ帰っていく。
私は賄いのゴハンを食べ、洗い物と掃除をしてから、鍵を掛け、食堂を出た。
洗い物と掃除は、私がヨハンナさんの代理をするようになってから、ギルさんだけでなく、ギデオンさんとアリサさんも手伝ってくれる。だから、二人の食事代はただ、ってことでヨハンナさんからも了承をもらっている。
そして、ギルさんがカンテラを持ち、ギデオンさんが馬を曳いて、四人でシャトーへの夜道を歩く。これが最近の習慣になっている。
ギデオンさんとアリサさんが来るのは、護衛のためだ。アリサさんは結婚するまで女性騎士だったので、けっこう腕が立つ。一番下のお子さんがもう少し大きくなったら、教官として仕事に復帰するそうだ。この警護も、ギルさんがまだ公子様だから。それと、私が聖女じゃないけど召喚者だから。
結婚したら、ギルさんは平民になり、私は正式に公国の市民となって法的に守られるので、とりあえず、護衛はそのときまで、って聞いている。
「こんな短い距離、ご近所で襲う奴なんて、いませんよ」
悪いなあ、と思いながら、私が言った。
冬の夜空は星がくっきりと見えて綺麗だ。星座を描けば、私のいたところとは違う形をしているけど。
コートを着ていても寒く、息が白い。
「いや、何がいつなんどき、あるか分からないからな」
ギデオンさんが馬の手綱を曳きながら答えた。
まっさかあ、と心の中で思ったんだけど、起こりました。まさかが。それも外でなく、屋内で。
ギデオンさんたちが馬に二人乗りして帰っていき、私とギルさんはイザベルさんに迎えられて中へ入った。シャトーに行事がないとき、執事のセバスさんはお城へ帰っていないので、鍵かけなどの執事の役割はイザベルさんがすることになっているのだ。
私たちは身支度など自分で出来るので、二階にあるそれぞれの寝室へ入り、お風呂を使って寝る用意をした。私とギルさんの寝室は隣同士。間にはドアがあって――でも、鍵が掛かっている。
ギルさんが、「結婚するまで」って言って、そうしているの。この純情め。
ということで、私が白い寝巻に着替えて寝ようとベッドへ入ったら、隣の部屋でガタンという大きな音がする。おまけに、ギルさんじゃない人の声も。
何事? と自分の部屋を出て、廊下からギルさんの寝室の前へ回った。
「ギルさん!」
呼びながらドアを開けたら、ベランダの窓が開いていて、脇のところで壁ドンされているギルさんが。
「誰よ!」
私がつかつかと近寄ると、長い黒髪でマント姿のソレが振り向いた。
片眼鏡男のアンゲルスだった。でも、片眼鏡を掛けてなくて、青白い顔に紅い唇のアンゲルスは艶っぽく、なんだか女として負けた気がする。
女がダメだったから、男で誘惑ってか? こんにゃろう。
「う……せ、聖女マリー」
やつが狼狽えた隙に、ギルさんは壁ドンから抜け出して身を翻し、私の方へ来た。
「彼、僕の血が欲しいって言うんです」
「やっぱりアンタ、吸血鬼ね。退治しなきゃ!」
と、私は周囲を見回して、小テーブルの上に銀の燭台を見つけると、ギルさんを背に庇いながら、ささっと移動し、手に持って構えた。
「ま、待ってくれ。本当は研究のために聖女の血が欲しかったんだが、魔王様に『手を出すな』と言われたので、伴侶になる者の血から調べようとしただけだ」
「勝手に研究対象にしないでよ。ギルさんの血をとるな。それに、私は聖女じゃないわ。聖女に用があるなら、隣の国に行くのね」
「隣国ラーデンには、いつだって行ける。それに聖女が一人って決めつけているけど、本当にそうかな?」
アンゲルスが魅惑的に笑う。すると、ふわふわっと彼の虜になった。笑顔がまぶしい……って、これ、魅了されてんじゃない!
「マリーさん!」
ギルさんが叫んでいるけど、金縛りにあって動けないようだ。
私は燭台を取り落とし、自分の意志に関係なく、ふらふらとアンゲルスに近寄って行った。
「いい子だ……」
うっとりと言い、アンゲルスが、にいと笑う。口元からは、牙がのぞいていた。
彼が近寄り、私の左の首筋へ、つぷりと牙を突き立てた――と、そのとき、断末魔の悲鳴のような物凄い咆哮がアンゲルスの喉から湧き上がった。
「うおおおおおっ。なんだ、これは!」
はっと正気に戻り、アンゲルスを見ると、顔と首元の皮がずるりと剥け、人体模型みたいになっている。
「くそう、聖女め! かかわるんじゃなかった!」
身を翻したと思ったら、アンゲルスは蝙蝠になって、ベランダから飛んで行ってしまった。
「アホだな。自滅してやんの」
助かったと思うと同時に、私はつぶやいた。でも、今の現象はなんだったのだろう。
はあああ、と私の隣で息を吐いたギルさんが言う。
「ベネットさんに結界を張ってもらいましょう。これ以上、魔族たちに関わりたくありません」
「ギルさんには、強力な御守りが必要ね」
朝イチでそうしようと、私たちの意見は一致した。
それでもこの出来事のあと、ということから眠れないので、しばらくおしゃべりすることにした。
ギルさんが棚からブランデーの瓶とグラスを二つ、持ってくる。
「ほんの少しですよ」
ギルさんが片目をつぶった。
気が利くわあ。気付けのブランデー、大歓迎よ。
私はグラスに注がれた琥珀色のブランデーをちびちびやりながら、ギルさんにこばした。
「この世界の魔王って、どんな存在? 私には、マオちゃんが全然、怖くないんだけど」
「そうですね……」
同じくブランデーを飲みながら、ギルさんが考え込む。
「五十年前、祖父は帝国の魔術師たちに勇者と共に召喚されました。そのとき、大地は枯れ果て、川の水も汚れ、人びとはわずかな食べ物を奪い合っていたそうです。魔族たちがいる北の地域から瘴気が世界に広がり、そんな有様になっていたとか。異世界から呼ばれた勇者と、この世界で選ばれた仲間たちの手によって魔王が倒され、世界は元通りになったと聞いています」
「魔王って、どんな姿をしていたの?」
「勇者と仲間たちしか見ていなくて、その話では、小山のように大きくて恐ろしい顔をしていたそうです。マオちゃんさんが、『第五十六代魔王』と名乗っているということは、それだけ代替わりしていて、マオちゃんさんが子どもなのは、代替わりしてあまり時間が経っていないということなのでしょう。もっとも、最後に勇者が魔王を斃したのが五十年前ですが。この世界では、魔王は『絶対悪』で倒さねばならない存在だと教えられています。だから、マリーさんに懐いている子が魔王とは、僕にはとても思えなくって。でも……側近の、ああいう魔族がいるってことは、そうなんだろうなあ」
ギルさんの中でも納得できていないのか、彼は頭を掻いた。
「マオちゃんは魔王なのに、なんで私に懐いてるんだろう」
私には、かわいい子にしか見えないんだけど、ベネットさんたちは警戒していて、態度が違うんだよなあ。
「うーん」
と、うなったギルさんは答える。
「これは僕の感じたことですが――マオちゃんさんは、寂しいんじゃないんですかね。魔王として魔族の頂点に立っていても、親はいない。世話してくれて何不自由はなくとも、対等な者がいない。そんなとき、マリーさんと出会って、お説教を喰らって、子ども扱いされて、嬉しかった――のではないかと思います」
「なるほど。でも、やっぱり私には普通の子どもにしか見えないよ。人外だって、分かってはいるんだけど。何百年かあと、あの子が大人になって、ニンゲンを滅ぼすような存在になるなんて想像もつかないんだけどねえ」
しみじみと語り合い、私たちは心地よく酔っぱらって、同じベッドで爆睡した。
なんにも無かったよ。残念!