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P.T.O. -悪魔が続きを語るなら-  作者: あした野郎
7/13

 


 ⒎


 来たる五月九日。日曜日。

 改めて、わざわざ休日まで費やさなくてはならない展開に煩わしさも覚えつつ――遅い昼食を済ませた頃には生活態度も整え、適当な身支度に移った。

 待ち合わせは十七時三十分、多和田(たわた)駅改札前、生徒手帳を持参。

 到着時間から逆算したうえで、とりあえず一時間前に出発すれば差し支えないだろうと最寄りの小鹿駅に向かいはしたものの――恥ずかしながら僕は、これまでただの一度も電車という公共交通機関を利用した経験がなかった。個人で利用するようなケースはなかったし、高校受験の際の交通手段もバスで十分だった。

 とは言え。

 駅前駐輪場に自転車を停め、多和田駅までの距離と運賃を確認したうえできっぷを購入し、改札を抜ける。そこまで一連の流れに問題が生じようはずもない。小鹿駅から下り方面、九つ先の駅が多和田駅、途中の三つ目の駅に汐見駅。時間として、それなりに余裕はあるはずだった。

 しかし、いざホームに降りてみると――到着した電車には、区間快速だのどこの地名かもわからない駅名だのが表示されている。果たして、この電車は本当に多和田駅に停車するのだろうか。不安に駆られた僕は車内に足を踏みだせず、次の普通電車を待つという無難な選択に委ねた。

 それから普通電車に揺られ揺られ、四十分弱。

 目的地の多和田駅に到着し、まず驚いた。

 多和田と言えば県内における都心部として認識していたつもりではあるけれど――実際に訪れてみたところとして、まず駅の規模が小鹿駅や汐見駅のそれとは比べものにならない。車線や利用者の数も多く、ホームから見える駅周辺の建造物も何やらシティな外観。見上げる気分はまさに上京したての田舎者である。

 当然ながら駅構造を把握できているはずもなく、何となく利用客の流れに続き、何となく改札まで辿り着く。構造としては駅ビルと言うのだろうか、改札を抜けた先にあれやこれやと商業施設の案内があり、見れば見るほど、自分がどの位置にいるのか、わからなくなる。

 完全にアウェイの空気。そこにあって。

 あてどなく彷徨っていると、不意に沓南つかさを視界に捉えた。案内プレートに従うなら北側出口。広告看板を背にして俯き加減に佇んでいる。

 言うまでもなく訊くまでもなく、私服姿。学校でのそれとは違っている。残念ながら僕では女性の服装に関する仔細な描写こそ叶わないけれど、待ち合わせ場所を詳しく指定する必要はなかったと思った。

 携帯電話で時刻を確認すると、十七時三十八分の表示。はっきり遅刻である。結果として電車を見送ったことが裏目に出てしまったわけだが、まさかそれを沓南つかさに伝えたりはしない。

 歩み寄り、まずそれとなく。


「お待たせして」


 沓南つかさが顔を上げるやら、僕の足は思いだしたように距離を保った。こうなると決まりが悪い。


「気にしないで――」


 言いながら芝居がかった動作で腕時計を見やる。


「言っても、十五分くらいのものだから」

「…………」


 意外と根に持つタイプなのかもしれない。


 沓南つかさとの待ち合わせには遅れてしまったものの――コンパ御一行の待ち合わせ予定は十八時とまだいくらか余裕がある。何でも参加女性側の部活動が終わり次第の変動性スケジュールとの情報らしく、イレギュラーが生じてもいけないという判断からの三十分前行動であった。

 とりあえずは僕も沓南つかさも改札が見える位置で控え、一行の到着に備えた。周囲のひとの流れから浮かないようにだけ意識しているうち、指定の時間が迫る。

 そして――


「きた」


 沓南つかさの視線を追えば、同年代と思しき少年ないしは青年四人組を確認。しかし、その誰とも面識がない以上、どれが持丸慧志なのかを判別できない。すると、僕の内心を察したようなタイミングで沓南つかさが言った。


「あのチェックのパーカーがそう」


 チェックのパーカー。

 加えて、四人のうちで最も小柄。髪を逆立てている。僕はこの三点を特徴として、容疑者を認識した。遠巻きに悪い印象も何もない。

 さらに十八時を少し回った頃には女性陣――こちらも四人――が合流し、コンパ御一行は男女合わせて計八人の大所帯となった。沓南つかさに聞くところ、この日は中学時代の友人関係を頼ってカラオケに興じるということらしく――女子校の菊池女学園、男子校の柏陵大学付属高校それぞれの需要が一致しての合コンであるとか。

 僕の知らないところで世の人間関係は合理的に展開しているらしい。

 そこから挨拶とも紹介ともつかない時間を長引かせず、御一行は移動を開始する。傍目にはまだいくらかの距離がある。僕と沓南つかさも足並みを揃え、対象の尾行調査に移った。ベクトルの向きがひとつやふたつじゃない道行き。それはハードルでもありブラインドでもあり、金曜日のケースよりずっとそれらしく思える。気づかれてはいけない。少なからず高揚するところはあった。


「…………」


 雑多な仕切りにあって野暮ったい。情報量に反して淡泊。それでいて、迷い込むのは上っ面ばかりとも言い切れず。

 シティなビルに見下ろされながら群衆のあいだを抜け、御一行は連峰の一角にあるカラオケ店に入店した。電飾看板が煌びやかに主張する大手チェーン。名前くらいは知っている。僕と沓南つかさも不自然じゃないタイミングで続き、受付カウンターにて御一行の後ろにつけた。

 受付のやりとりに聞き耳を立てながら――まず流れとしては、持丸慧志の動向が確認できるカラオケボックスを確保しなくてはならない。個室内には干渉できずとも、大音響の密室にあっては無言電話も不可能だろうと仮定したうえで、持丸慧志がトイレやフリードリンクに立つ際はあとをつけ、その行き先で不審な動きがないかに注意する。

 それはすべて僕の役目になるそうで。


「行武君はわたしに男子トイレに入れって言うの?」


 そう言われてしまうと、あとは続かない。

 ストーカーの動きが予想される時間帯でなくても、監視を続けなければならないのか。トイレの個室に籠った場合はどうすれば。膨らむ分には限りがないけれど、最終的にはなるようにしかならないだろう。

 促されるまま受付の店員に生徒手帳を示すと、高校生のみでの利用時間は二十二時までに限られると告げられた。そこまでの長丁場(ながちょうば)は想定したくない。

 沓南つかさ任せに受付の手続きを済ませ、沓南つかさ先導でエレベーターに向かう。所在ない時間も容疑者の動向に注意して。擦れ違いざまの視線もそれとなく受け流す。気づかれてはいけない。

 当面の潜伏拠点となるカラオケボックスは、御一行の一室から正面に位置していた。入室してみたところでは、曇ったドアガラスによって外部からの視線が遮断される一方、向かいのドアの出入りはシルエットだけでも十分に確認できる。物見にはこれ以上ない、絶好のロケーション。

 まさしく渡りに船を得たといった具合ではあるけれど――しかし、いくら事前に予約を入れていたとは言っても、こうまで首尾よく展開していいものだろうかとの疑問は生じる。日曜日、それも都心のカラオケ店。組み合わせで考えれば、決して分母は小さくないはずだが。


「歌わないの?」


 その声に振り向くと、既に馴染んだ様子でソファに腰掛け、持参していたらしい文庫本に目を落とす沓南つかさの姿があった。どうやら持丸慧志に関して、本当に僕に丸投げというスタンスであるらしい。巻き込まれた僕のほうがずっと乗り気であるかのように思える不思議。不本意だ。

 無みして視線を戻した背後でぽつりと。


「残念」


 かくいう沓南つかさにこそマイクを手にとる気配はないけれど――せめて心当たりのある立場としては、その鮮やかな表紙の文庫本がいつかの誰かに大衆的と評されたタイトルであることについて触れておくべきだっただろうか。


「ねえ。行武君はストーカーってどう思う?」

「どうって言われても」

「ストーカーって単語から、その対象について、どんなことを考える?」

「……とりあえず、いいようには思わない」

「どうして?」

「たぶん――自覚していないだろうから」

「それは?」

「別に。ストーカーを脅威だと思ったこともないし」

「聞かせてもらえる?」

「そういう内容じゃない」

「それでも」

「……何ていうか。ストーカーの存在が身近じゃなくても、実際にストーカー行為をはたらくようなやつがいるっていうのは想像できる。自分に怯える誰かを想像して悦に入ったり、執着することで誰かを自分の特別に仕立て上げたり。そっち側に限って言えば――満たせるものもあれば、晴らせるものだってあるのかもしれない」

「うん」

「でも、そういうのって――そもそも肯定されるはずがなくて。大多数にとっては、卑劣で危うい迷惑行為、犯罪行為。実際問題、あたりまえにそうあるべきで、そうあることが望ましい。少なくとも、そうじゃない誰かにとっては。だからこそ、わざわざストーカーなんて名前が必要になる」

「名前、ね」

「それを踏まえたうえで――ストーカー本人がそういう自覚を伴っているかと言えば、なかなか。そういうふうには考えにくい。日頃のニュースでもフィクションの世界でも、ストーカー事件の顛末として語られるところは知れている。家宅捜索をすれば盗撮写真がわんさか見つかったり、知人に話を聞けばそれらしい狂気の痕跡が見えたり。憶測ついででまとめるとすれば――およそ手段としてのストーカー行為とするよりは、異常なまでに誰かに執着した結果がストーカーってことなんじゃないのかな。自分にとっての不都合を視界の隅に追いやるっていうか、焦点を絞るっていうか。結局のところ、ストーカーをストーカー足らしめている最大の要因は――ストーカー自身が自分の行動をストーカーのそれとは認識していないってことに尽きるんじゃないか」

「それは、何より都合がいい?」

「たぶん」

「つまり、行武君は――ストーキングという手段こそ否定しないけれど、ストーカー本人に関して思うところはあるって、そういうこと?」

「……まあ、個人的にストーカーと因縁があるわけじゃないから」

「なるほど」

「ストーカーでもないけど」

「どっちにしても、高妻さんには聞かせられない」


 持丸慧志がトイレやフリードリンクに向かう度に中断する必要はあったけれど、ふたりきりのカラオケルームでそんな会話があった。取り立てて実のある内容とも思えない。時間つぶしの暇つぶし。訊ねられたから応えただけであって、僕から沓南つかさに意見を求めることもなかった。

 肝心の張り込みについても、目立った進展はなく――ただただドアガラスの向こうに呆けた視線を送り、ただただ繰り返しのルーティンワークに腰を上げる。気づけば時間と回数だけが積み重なり、入店から二時間が経過した時点でトイレに三回、フリードリンクに五回。どうにも落ち着いてくれない持丸慧志に内心では呆れつつ、個室に入っていないことだけはせめてもの救いと言えた。

 しかし続く四回目のトイレを尾行し、小便器のまえに立った矢先。


「ういっす」


 ――と。

 ほかでもない持丸慧志が声を発した。顔はこちらを向いている。トイレには僕と持丸慧志しかいない。


「…………」


 小さく会釈だけ返す。

 退屈から段々とお座なりに構えていた事実は否定できないけれど、偶然も短い時間でこれだけ続くと苦しい。

 ひと懐っこい笑顔が続ける。


「さっきからよく一緒になりますね」

「そう――ですか?」

「結構、トイレ近いほうだったりして」


 おどけた口調とともに、持丸慧志は笑みを深めた。


「それとも、彼女と初デートで緊張のあまり、みたいな?」

「……?」

「受付でばっちり見ましたよ。何かこう、探り探りの距離感が初々しいって感じで。羨ましい」


 スニーキングの甲斐なく、こちらの存在が筒抜けだったという事実。そこにあって、不幸中の幸いと言うべきなのか――持丸慧志は僕と沓南つかさの関係を鵜呑みにしてくれている。警戒されていないということであれば、それはそれでよしとするべきなのかもしれないけれど。


「…………」


 まだ時間が残っているうえに高妻奈菜美から連絡を受けていない。こうして声までかけられた以上、どうしたって残りの時間の偶然が不自然になる。それならいっそ、ここで何かしら探りを入れておくというのも。脈絡がないというほどではないだろう。

 思い立つと同時にポーズとしてのそれも終え、洗面台に移動する。持丸慧志は鏡に映る自分を覗き込むようにして、ヘアスタイルの調整に余念がない。

 手を洗いながらのそれとなく。


「そちらは――お友達と、ですか?」

「ううん……友達っていうか、先輩っていうか――」


 警戒する様子はまったくなかった。


「まあ合コンっすね」

「ゴウコン」


 惚けた鸚鵡返し。関心を示しているふうに聞こえたかどうか。


「言っても、真似事みたいな感じですけど」

「――でも、大丈夫ですか? さっきから結構な頻度で席を外されているようにも」


 僕の指摘に持丸慧志は薄く笑った。


「いや、ほら。分母があると、キャラ設定なんかも重要だったりして」

「……トイレ近いキャラ?」

「度々、水を差します、なんつって」

「ああ、ええと――」


 使い込まれているだろう洒落は受け流して。


「高校生、ですか?」


 強引な転換にも持丸慧志に訝る様子はなく、それからお互いに簡単な自己紹介を済ませた。持丸慧志。私立柏稜大学附属高校一年生、出身中学は(はし)()第一中学校。事前情報と相違なし。

 向こうも僕を同年代と見越して話しかけてきた部分はあったのだろう。はっきり同学年であるとわかると、それまで以上に相好を崩した。

 志叡館高校は学区じゃトップの進学校、やっぱり頭がよさそう云々。自分も受験はしたが不合格、もし合格していればクラスメイトだったかもしれない云々。

 思い返せば、過去の挫折も笑い話か。屈託なく話す容疑者に対して、僕は当たり障りない相槌を打つにとどまる。


「――正月から塾の勉強合宿まで行ったのに、一緒に受けた友達もほぼ不合格で。もう残念っていうか、散々でした」

「はあ」

「あ、クヌギサヤカってわかります?」


 クヌギサヤカ。すなわち椚紗弥佳。ということであれば。


「同じクラス、かな」

「おっ、マジすか」


 予期しない偶然に持丸慧志の声がうわずった。僕にとっては偶然ついでに、椚紗弥佳とは席が隣という間柄でもあって、顔と名前が一致する数少ない同級生だったりもする。


「椚とは塾が同じで。受かった友達って言えば、あいつぐらいかな。ほかに誰かいたっけ……」


 持丸慧志は考え込むが、結局は思い浮かばなかったらしく。


「まあ、いいやつなんで。仲良くしてやってください」


 とお愛想。さらに言い足す。


「ついでに、はやく合コン組んでくれって伝えておいてもらえると」


 知人によろしく云々は会話を切り上げる際の常套句。一度は踏みだした手前、どうにか引き延ばさなくてはという意識が作用する。


「その単語に馴染みがないな」

「共学と男子校の違いっすかねえ」


 深く頷きながら。


「合コン、ゲーセン、カラオケ、ボーリング、ダーツ」


 指折り数えて、また笑顔。


「男子校帰宅部のパターンっす」

「今日も、その?」

「ううん」


 そこで顔をしかめる。


「今日は接待かな」

「接待?」


 首肯が返る。


「高校の先輩から女の子紹介しろって言われちゃって。だから色々気ィ遣わないわけにもいかないっていう」

「ああ」


 察するところ、今日の持丸慧志は合コンを斡旋した立場にあり、そこでの上下関係が何かにつけて面倒だと――こうして無駄話にも付き合ってくれる、と。

 僕の心象が伝わったのか、いかにもな苦笑いが向けられた。


「とりあえず出ますか」


 そう言って、持丸慧志は背後を指し示す。


「喫煙所、付き合いません?」


 これ以上、トイレで会話を続ける理由もない。

 しかし、そうして向かった喫煙所は、フロアの片隅――それも非常口の近くにソファと灰皿スタンドが設置されているだけの粗末なものだった。仕切りもなければ、隔離されているようにも思えない。濁った空気のなかで、換気扇が大きな音を立てているのがどこか不気味だった。

 勝手知ったる様子の持丸慧志はソファに腰を据えると、パーカーのポケットから煙草の箱を取りだした。そこから器用に一本を咥え、その箱を僕のほうに向ける。


「よかったら」


 僕は向かいのソファに腰を下ろしながら手振りで断った。


「じゃ、失礼して」


 言いながら持丸慧志は煙草に火をつける。みるみるうちに臭いが広がり、嗅覚を刺激する。いやな感じはあった。

 漂う煙の元凶が訊いてくる。


「彼女さんとは高校で初めて会って?」

「まあ」


 僕の曖昧な返答を受けて、持丸慧志は力なく笑った。


「いいなあ、共学。わかりやすく青春ってカンジで。俺も館高受かってればなあ。少なくとも、むさ苦しいだけの環境にはいなかった」


 その目は僕に向いていない。


「部活とか勉強とか。何もかも中途半端で打ち込めるような趣味もなけりゃ、あとは何となく消化していくだけで。あのコに会えるから学校に行くのが楽しみ――なんて、もう遠い昔になっちゃったし」

「そういうの――結構、引きずっていたり?」

「いや、もうがっつり」


 濁った煙を燻らせながら続ける。


「何ていうか、受験の失敗って思っていた以上にデカくて。そういう――競争? みたいなのも初めてだったし、それまである程度は勉強できるつもりでいたから不合格って結果も応えたし。もし合格していたらって考えちゃうと、いまの環境もあんまりね」

「なるほど」

「言っても、館高は学区一の進学校で――もともと俺にはきついハードルではあったんですけど。模試の判定だって合格ラインに届いたこともなかったし。塾の先生にもランク落とせって言われたのに、ダメもとで特攻して玉砕っていう」

「志望校は変えたくなかった」 

「まあ、こだわる理由はあったりして」


 煙草の灰を落としたあと、持丸慧志ははにかんだような表情になった。


「さっき、その――正月から塾の勉強合宿に参加したって話したじゃないですか。その勉強合宿っていうのが夏休みと冬休みと正月? かな? 全部で三回くらいあって。地域の全教室合同で特訓合宿、みたいな」

「――へえ」


 面食らったと言えば、そうだろう。当たらず障らず、おまけにさして労せず。行き着くところに行き着いたとしても、それはなりゆきの結果論以外の何でもない。

 何も知らない持丸慧志は続ける。


「そこで志望校別のクラスに分かれて、連日朝から晩まで勉強漬けってカンジだったんですけど――一応、俺も志叡館志望のクラスに参加してまして。別の中学校の生徒と同じクラスになったり……っていうよりむしろもう知らないひとのほうが圧倒的に多いような環境で」


 身を屈め、声を潜める。


「そうなると、ほら。何ていうか、その、ねえ。色々あるじゃないですか」

「色々って、たとえば――」


 僕は訊いた。


「他校生にひと目惚れをしたり?」

「それ」


 にやけ顔で僕を指差す。


「わかりやすいっすよねえ」

「それじゃ受験勉強そっちのけで?」

「まさか」


 持丸慧志は屈託なく笑った。


「そこじゃひと言も話しかけられなかったし、一方的に名前を知っているってくらいで。そもそも、教室がそういう空気じゃなかったし」


 いよいよという段になり、持丸慧志の舌も回る。


「でもまあ、正月の合宿が終わっちゃえば、もう受験当日まで会える機会もなくなっちゃうわけで。会えない時間が――じゃないですけど、合格すれば同じ高校に通えるって考えたら自然と勉強にも熱が入るっていうか。最後のほうは追い込みのモチベーションみたいな感じになってて」


 不意に視線を落として。


「でも、俺自身の結果が結果だったんで」

「同級生にはなれなかった」


 おおげさな動きで頷く。


「しかも、そのコも菊女に進学っていうね」


 どうしたってそこに縁はなかった、と。

 僕は神妙な表情をつくったつもりで訊ねる。


「それじゃ、そのあとは何もなく?」


 持丸慧志は少しあいだを置いてから応えた。


「そうっすねえ。結果だけ言えば、何があったわけでもないんですけど――一応、続きがありまして。その、春休みにね、会えることになったわけですよ。そのコと」

「それは――」

「まあ。合宿のときは確かに連絡先どころか、ひと言も話せなかったんですけど、そのコと同じ中学のやつとは仲良くなったりしていて。――っていうか、それが、だから椚だったんですよ」


 椚――椚紗弥佳。ここで。


「椚とはその合宿で仲良くなってから、入試のまえにもちょこちょこ連絡とったり――みたいな。それで、俺がそのコに気があるっていうのも話してあったんで、春休みにこう、キューピッド的な」

「仲介をしてくれた」

「そうそう」


 ここまで事前に聞いていた内容と矛盾するところはない。高妻奈菜美に持丸慧志を紹介したという中学校の同級生――すなわち椚紗弥佳。

 しかし高妻奈菜美、持丸慧志と続いて椚紗弥佳。

 まったく知らないはずの状況にいくらか見知った顔がはまっていくだけで、相関図のような絵面が出来上がる。構図としてはわかりやすいけれど、僕もそこに関わっているような気分にさせられる。

 よくない。たぶん、よくない。


「それで――そのコも菊女に進学しちゃったから、俺としてはそこでどうにかなっておかないとあとがないわけですよ。そうなるともう、なりふり構っていられないっていうか、積極的にもなるじゃないですか。連絡先交換してからは、もうガンガンいこうぜってカンジで」


 高妻奈菜美の弁によれば、ただしつこかったとだけだったけれど。

 発信側と受信側。立ち位置と意識ひとつでこうまで食い違う。


「かなり頑張ったつもりだったんですけど、こう、打っても打っても手応えがない、みたいな。もう完全にお察しってカンジでした」

「オサッシ」

「いや、ホントに。迷惑ですって、バッサリ」


 煙草を灰皿に押しつけると、持丸慧志はどこか改まった調子で言った。


「まあ、でも――向こうからしてみれば、やっぱ戸惑った部分もあったと思うんで。そういうの慣れてなかったっぽいし、迷惑って言われたのだって別に邪険にされたとかじゃなくて、こっちが気ィ遣わせてたところもあるっていうか……」


 つかえたところに訊いてみる。


「まだ未練があったり?」

「未練……未練か」


 呟き、持丸慧志は自嘲気味に笑った。


「実は、その――今日の合コンって、中学ンときの同級生にセッティングしてもらったカンジなんですけど、その同級生っていうのが菊女に通ってて。適当に同級生でも誘っといてなんて言いながら――それとなく、ね。何かの間違いでそのコが来たりしないかなあ、なんて期待もあったりして」


 訊きたい内容だけ訊いて、はいさようならというわけにもいかず、その後も持丸慧志の独演会は続いた。それは続・男子校の実態であったり、理不尽な縦社会についてであったり。僕は変わらず差し障りない程度の相槌を打つだけだったけれど、すっかり勢いづいた語り手からは、


「よく聞き上手って言われません?」


 と評された。二度とない機会だったのかもしれない。

 最終的には連絡先を交換しようという流れにまでなり、僕は容疑者の個人情報の一部を把握するに至った。

 そして別れ際。


「今度、誰か紹介してくださいね」


 それから容疑者がカラオケボックスに戻るところまで確認して、ひと段落。視線を受けるも向けるもなしに、ただ息を吐ける時間が久しく思えた。

 そこで――例によって、お気楽調子の悪魔様。


『割に上手くやったじゃないか』

「勝手に喋った」

『まあ、聞きだしたとは言わないほうがいいね』


 その横柄な物言いに鼻を鳴らして応じる。


「浮いた話を誰かに聞いてもらって、惚れた腫れたにお熱の自分を仕立てあげて。ああいうのが恋に恋するってやつらしい。耳を傾けてくれれば。否定さえしないでくれれば。相手は誰だってよかった」


 嘲笑うような声が被さる。


『そしてキミはそれを高いところから見下ろしているつもりでいるわけだ』

「……別に」


 そうじゃないと言えてしまうのも、なかなかおめでたい。

 僕は言った。


「それまであたりまえにあったものは、別の何かで置き換えないといけない」


 ただの生物摂理でも、無意識のそれでも。


「そういうお年頃っていうことであれば」

『そうして適応させていくのだろうさ』

「適応、ね」


 不意にカラオケボックスでひとり佇む沓南つかさの存在が浮上する。道草と言われてしまえばそれまで。これ以上は長引かせたくないと思った。


「それを精神的な自立とするか、あるいは」


 溜め息らしきもの混じりに悪魔様が応える。


『つまりは――僕にそんな理由は必要ない、か』



「おかえりなさい」


 潜伏拠点のカラオケボックスに戻ると、まず抑揚のない声に迎えられた。沓南つかさは既に読書の姿勢を崩していたらしく、それまで読み耽っていたはずの文庫本もテーブルの上に放りだされたかのごとく。

 僕はソファに腰かけ、沓南つかさに一部始終を報告した。義務というほどでもないけれど、そこを共有できなければ、目的が曖昧になってしまう。


「ふうん――」


 僕の報告を受けて、沓南つかさは冷ややかに笑った。


「探偵ごっこは楽しんでもらえた?」

「…………」

「それで?」


 それで――


「見える部分に限って言えば、おかしなところはなかった。最後に連絡先を交換するまで携帯電話を取りだすこともなかった」

「なるほど」


 その相槌は不自然なほど淡泊に聞こえた。


「そういうことなら持丸慧志君の容疑は晴れたと言っていいかも」


 沓南つかさはそれだけ言うと、テーブルのうえの携帯電話を僕のほうに示した。促されるまま、そのディスプレイを確認する。

 表示は受信メール画面。差出人の欄には高妻奈菜美。

 件名の表示を見るに、どうやら転送メールであるらしい。本文には絵文字や顔文字もなく、三行の文章だけが無機質に並んでいる。


 ――明日からまた学校だね

 ――着信 二十時二十五分

 ――メール 二十時二十七分


「これは……」


 高妻奈菜美の携帯電話に届いた迷惑メール。

 文面と展開からして、まずそう考える。

 二行目は無言電話の着信時刻、三行目はそれに続くメールの着信時刻。つまり、この時間帯のアリバイが把握できていれば。


「さっき――」


 カラオケのリモコン端末を操作しながら沓南つかさが言った。


「行武君が部屋を出たのが二十時十五分。それからいまのいままで、持丸慧志君は行武君の監視下にあって、不審な挙動も見られなかった」

「見えるところに限って言えば、だけど」

「高妻さんに残念な報告をしないと」

「いや……」


 沓南つかさは顔を上げない。


「何かある?」


 こちらが返答できずにいるうちにテレビの画面がぱっと切り替わる。やけにアナログな映像はそれ特有のものらしい。

 マイクが僕に向けられていた。


「せっかくだし」

 

どこかで聞いたようなメロディに悪魔様の押し殺した笑い声――のような何かが重なった。


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