寝る前に、ペニッシュコーク
あたしたちの高校は海の底にあるので(と、言ってもそんなに沖でもないのだが)たどり着くためには潜水艇に乗らなければならなかった。
そして、そのための潜水艇波止場は、看板がある曲がり角から少し歩いた先の右手にある。どうして海のほうにないのかといつも思うけど、そっちにあるんだから仕方ない。
半ドーム型の、古代の闘技場のような形をした建物だった。
「どーして、自転車通学が禁止なんだろうね」
エッッちゃんがボヤく。間髪入れず、あたしは答えた。
「だから、仕方ないじゃん。この波止場に駐輪場が無いんだもん」
「なんで作らないかなぁ……てか、自転車に乗ってくるなって立看あるし」
「逆に漕いだら後進できる自転車なんか、特にダメらしいよ」
「なんでー?」
「さあ……でもバスになら乗ってこれるし」
「パンイチって、あたしより月々2000円も多く親からちょろまかしてんだよな」
あたしの自宅とエッッちゃん宅ではバス停3つ分の違いがあり、運賃の差や学割などを考慮に入れて1日あたりの差額を算出すると、だいたい100円くらいになる。
こんな取り留めもない会話をかわしながら、あたしたちは列に並んでいた。
ドームの中には大きなプールがあり、底は海と繋がっている。そこから桟橋を伝って潜水艇に乗るのだが、あたしたちはまだ入口をくぐってすらなかった。
この波止場に1度に入ってこられる潜水艇は2隻しかなく、乗ろうとしている人はあたしたちの学校の関係者以外にもたくさんいた。5、6隻のシャトル潜水艇が引っ切り無しに往復してもそれなりに時間がかかる。
海底に校舎がある公立校は、我が校を入れて国内に2校のみ。こんな学校だと事前に知ってれば、入学しなかったのになぁ……今更言ってもしょうがないけど。
諦めて深海女になるしかない、か。
深海女は最新の科学技術が詰まった潜水スーツを身に纏い、大海原の底に眠る高価なレアメタルを採掘したり、巨大イカと戦ったりする職業だった。あんまり人気のある仕事先ではない。
はぁ、かったるーーぅ。
エッッちゃんは成績優秀だからいいけど、あたしはそこそこ。でも、ふたり揃って一人前の深海女になろうねって約束したんだ。
「ところでさ……」
列がゆっくり進んでゆき、ようやく建物に入れたあたりで、あたしは切り出した。
「あのジュースって、美味しいの?」
聞くと、あたしのすぐ後ろに並んでるエッッちゃんは平然と答えた。
「いや、マジふつーの味。もっとそれっぽい味かと思った」
「そ、それっぽい……て?」
「いや、もっと容器みたく、変わった口当たりかなって」
「ふうん……」
あたしは、内心の激しい動揺を隠しながら、一度言葉を止めた。そして、心を決めて再度問いかける。
「あ、あの、エッッちゃん」
「は?」
「の、のの……飲んだこと……」
「なになに? 聞こえなかった」
「だから…………あるのかなって……」
「おい、はっきり言えよ」
「…………あたしたち、絶対、立派な深海女になろうね」
あたしは少し顔を赤らめながら前を見据え、キラキラした目をしてみせた――エッッちゃんの方は見ないようにして。
「ああ……」
そんなあたしに、エッッちゃんは返事をしてくれた。
w w w w
数日後――
『はい! この大人気商品・ペニッシュコークなんですが、正加藤社長は毎日、どれくらいの本数を口にされてるんですか?』
朝、あたしが着替えをしていると、テレビでは冷小倉井リポーターが、またグビットン飲料の社長に絡んでいた。
『いえー、それほどには。と言うより私は自分が飲むときには、このタイプのペットボトルを使用してますので』
社長は自分の足元に置いてあったらしい2.0Lサイズのペットボトルを、自分の前に置かれたテーブルの上に取り出した。
『これ! 詰め替え用ですね?』
冷小倉井さんが鋭く指さしながら指摘する。
『まあ、こちらにございます専用の漏斗をご使用になると、詰め替えることも可能ですね』
社長さんはマイペース。
『じゃあ、社長さんもコレで飲んでくださいよぉ』
『いえいえ、私は』
『そんなー、まさか、この瓶で飲んだこと、1度もないって言いませんよね?』
『いやぁ…………』
『社長ぉー!』
そこで、カメラは強引にスタジオへと戻った。「CMのあとは、お笑い芸人ダブル☆ボランチのリーダー逮捕」というテロップとともに、さらにCMがはじまった。
真夏の砂浜、真っ赤なビキニの美女が麦わら帽子のオバケみたいなヤツを頭に乗せて、波打ち際を走りながら、軽快なBGMとともに、わっほいわっほいと踊り狂う。
そして、一段落ついてから何者かに用意されていた白いビーチチェアにゆったりと腰掛け、どこかから取り出したペニッシュコークの瓶を口に突っ込むようにして、勢いよく飲み干していった。
『ペニッ…シュ』
ビキニ美女は、今をときめく新人アイドル(19歳)の紺城逸香。彼女はペニッシュコークの瓶に頬ずりしながらニコッと笑った。
「……これかー!」
あたしは叫んでいた。ご近所迷惑も省みず、朝っぱらから……
『しかし北々東野のほうがリーダーだったんですねえ。私はてっきり炭田坂さんのほうかと』
『日頃のトークを見ても、そんな感じですからねえ』
『それがですね、こちらで入手した情報によると、どうやら警察が炭田坂さんに聴取した際、「リーダーはあなたなんですね?」と問いかけたようなんです。で、炭田坂さんは「いや、あいつです」と答えたという――』
テレビでは再びニュースの続きをやっていたが、あたしの目にも耳にも、その情報はまったく届いていなかった。
支度を終えて家を出ると、学校とは反対方向にある駅のほうからけたたましい音が鳴り響く。見ると――見てから、あたしは後悔した。ムカデ列車がちょうど交差するところだったのだ。
今の政府が推し進めている大改革の一環に、列車の貨物特化というものがあって、全国の主要な路線および都内のほとんどの路線(私鉄も含める)が貨物専用になるか廃線となった。都内で人が乗れる列車が通るのは環状線のみ。他はすべて、極端に扁平型の貨物列車ばかりが通っている。
平べったいのには意味があって、実はこの列車の屋根部分にはレールが取り付けられていて、列車の上に列車が通れる仕組みになっている。この特性を活かして、たとえ単線の路線でも、列車の上を逆進路の列車が乗り越えてすれ違うことが出来るので効率よく素早い運搬が行えるということなのだ。
だが、とにかく見た目がムカデっぽくてキモい。特に上下にすれ違う瞬間がたまらなく嫌で、できるだけ駅のほうには目を向けないようにしていた。
さあ、気を取り直して、本日の登校を開始する、あたし。いつもの道を歩いてゆくと、早速あのCMを真似する連中が出没していた。
「ペニーッシュ」
「あら、ペニッッシュですわ」
「いえいえ、ペニーッシュゥ…ですのよ」
バス停では女子児童たちがあの瓶片手に、誰が一番モノマネ上手かを競っている。
他にも、スラッと背が高くて出るトコ出て引っ込んでるトコは引っ込んでるカンジの、ちょっと素行不良な格好の、我が校の先輩が手にしていた、ペニッシュコークを。さらに彼女はその場で瓶の蓋を取ると、中から出て来たピンク色のブツを軽く口に咥え――一気に噛み千切った。
「飲みにくいんだよ……」
とか身も蓋もないことを吐き捨てて、瓶を上へ傾け飲み干してゆく。
「う……!」
「ぐぅ……う……」
なぜか、同じようにバス待ちしてた男たちが次々と苦しげに膝から崩れていったが、素行良好なあたしは知らぬ素振りでその場を通り過ぎていった。
エッッちゃんと合流すると、早速聞かれた。
「見た? なかなか似てたっしょ」
「見た見た」
あたしたちの会話は、こんなカンジでだいたい成立する。エッッちゃんはどうも、例のモニターの件などであのCMのことを事前に知っていたらしい。
「あたし決めたよ、エッッちゃん」
「何を?」
「あたし……アイドルになる」
「エッッ!?」
そう、あたしはずっと考えていた。このありふれた、刺激の足らない毎日を打ち破るものは、未来への展望。あのCMを見て、それが何か分かった。あたしは、自分で決めた将来へ切り開いていくんだ。
困難に満ち満ちた、茨の道を。
w w w w
学業を終えて、その日の夜――21時以降。
あたしは居間が静かになるのを見計らい、隣のキッチン、冷蔵庫の奥の奥、誰にも見つからない場所に隠していた例のブツを回収した。
ペニッシュコーク。
それが、ブツの名前だった。急いで階段を駆け上がり、自室へと逃げ帰る。あたしはそれを、できるだけ平静を装いながら勉強机に置き、部屋着をおもむろに脱ぎ捨てた。
なんとなく、下着姿で、ベッドの上で飲もうと思った。予想通りの大人気で、どこに行っても売り切れ。品薄で新しくは手に入らない貴重なペニッシュコークをどのように頂いてやるか……この数日間、ずっとあたしが考えていたことだった。
そして悩みに悩んだ成果をもって、あたしは今、実践する。
ベッドの上に乗り、胡座をかいた。手には、ペニッシュコーク。身につけた下着は、薄茶色の上下で、高校生になった身としては少し子供っぽいデザインな気がした。エッッちゃんみたいにもっとスポーティなのがいいのかな……
だが、それは今考えることではない。あたしは瓶の封を剥ぎ取り、そこから現れるピンク色の飲み口をじっと見つめた。
あたかも夏空の入道雲のごとく、モコモコせり出してきた。そして、出て来た瓶の口よりも大きく広がる、大輪のように。それの真ん中には、小さく細いスリットがあった。あたしは舌先でそこに触れた。
もしかしたら、ゴムみたいな不快な味がするのでは、などと思ったりしたけどそんなことはなく、無味無臭だった。さらにあたしはピンクの部分を口に含んだ。強く吸ってみるが、飲めない。
やっぱ、傾けないと無理か、と悟り、瓶全体を持ち上げた。ちゅく…ちゅく…と吸うと、やっと中味の味が舌に広がり、内容液が口腔に、喉に、届きだした。
なに……これ……うま……
普通の炭酸飲料のようにも思えた。しかし、甘美だった、間違いなく美味しい。あたしはさらに瓶底を高くあげ、喉を鳴らしながら瞬く間に飲み干してゆく。それなりの量の、炭酸水なのに。
やば、これ……止まらない! こんなの、発売しちゃいかんヤツやぁ!
瓶を口の中に深く突っ込み、ピンクの先っちょで喉奥を擦るようにしながら……ガラス瓶の硬い、ザラついた表面を舌全体で味わいながら……あたしは至福の時を愉しむ。
その時は、すぐに終わった。
「はあ、はあ……駄目……これ、全然、足らな……」
決めゼリフを言うのも忘れ、余韻に浸るあたし。
そこで、やけに風を感じるので、あたしはドアのほうに目を向けた。
ドアは、大きく開け放たれていた。そして、そこに立つ弟と、あたしは目が合った。
「…………ちょ、何見てんの!?」
「ごめん、分からないトコ教えてもらおうと思って」
あたしが睨みつけると、弟は抱えていたノートや教科書を見せた。そして、後退る。
「いや、あの…………ママ、ママぁ!」
「チクろうとすんな、このクソガキ!」
1階へと駆け下りる弟を、あたしは猛然と追いかけた。
下着姿なのも忘れて。




