最終章 彼女と彼の始まり
ベッドの中で布団に包まり、眉間に皺を寄せ、苦しそうに呻き声をあげる栞は、夢を見ている。
どす黒さを帯びた茜色の夕暮れに侵食された教室で佇む二人の生徒。グレーのブレザーを着ている二人は、片方は見慣れたクリーム色の髪の毛をしており、片方は自分であることが分かった。夢の中の栞は端に寄せられた、机の上にある工具箱に、散らばったカッターナイフをしまっている。言葉は聞こえないが、隼に何かを話しかけているのは見て取れた。口角を上げてはにかむ彼女を隼はひたすら見つめている。その手には、歯が出されたカッターナイフがあった。
一歩、栞の方に近づいた隼に、彼女はとぼけた顔をした。そして、何度か目を瞬く。ゆっくりと自分の腹を見て、隼の顔を確認した彼女は、怪訝な顔をしていた。それも束の間、目を向けた腹に手を当て、床に崩れる。痛みで顔を歪める彼女に顔を向け、隼はふんわりと微笑んだ。
十一月二十九日。
朝早く起きた栞は、白い息を吐きながら鼻を赤くさせ、学校へ行く前に神社に寄ろうとしていた。お気に入りのアイドルの曲をアラーム音にしていた彼女は、ループが終わって以来、無機質な機械音に変えた。その音すら聞かずに起きた今朝は、起きなくてはいけない時間の一時間も早い目覚めだった。最近は自転車に乗らなくていいように早めに起きてはいる。それでも普段よりは早い。ループが終わってから何度か見ている夢のせいだろうと結論づけて、紺色のダッフルコートで防寒し、とぼどぼと夜のうちに積もった雪の道を歩いていく。
十一月八日から三週間。結果としてループは終わっていた。春樹が刺された傷害事件は瞬く間に学校中に広がり、相手が同じクラスメイトだったことで更なる混乱を与えた。隼はあの後、警察に連れて行かれたらしい。どうして彼が栞を狙ったのか、詳しいことを周りに聞いてはみたものの、誰もその詳細は教えてくれなかった。狙われ、幼馴染みが刺された彼女のことを気遣ってのことだろう。結局、彼女が知り得たのは、隼は執行猶予が付かずに刑務所に送られてしまうだろうということだった。
栞を庇った春樹はというと、刺さったカッターナイフが通常より太めのもので負った傷が深く、手術することになった。救急車に付き添ったのは担任の先生で、知らせは遅いながらも、事情聴取中に助かったことだけ栞は聞いた。今は後遺症もなく、学校に復帰している。もっとも、復帰してからの春樹には避けられていて、話すことが出来ずにいた。
栞が春樹と話したのは事件の二日後だった。両親伝に聞いた病院に急いで駆け込み、病院の廊下のネームプレートに春樹の名前を確認してから、思いっきり引き戸を開いた。窓が些か開き、白のレースカーテンが風に靡いている。個室にいた春樹は、ベッドの背もたれを上げて、薄い単行本を開いていた。春樹はその本を難しい顔をして読んでいるようだった。遠目に見えた表紙の『サロメ』の文字に隼が浮かんで、心に痛みが刺す。それを振り払って、春樹に近づけば、彼も栞に気づいて、澄んだ黒い瞳を栞に向けた。
視線が交差する瞬間、今まで耐えていた涙腺が崩壊した。どうしようもなく流れるそれを拭うこともせず、春樹を見つめる。安堵感や表には出さないようにしていた罪悪感、解放感がぐちゃぐちゃに合わさっていた。なによりも、春樹のあんな辛い顔を見なくて済む。そう思えば頬を伝う水滴が、床に水溜りを作っていった。
ぼやける視界の中、やっとのことで春樹を捉える。彼もまた、切なそうに涙を流していた。そして、呟く。
――終わったんだな。
その言葉は、栞が繰返しの中で立てた仮説を裏付けていた。だが、その場でその言葉の真意を彼女は確かめられなかった。彼が放った、冷たい言葉によって。
『もう、近づかないでくれ』
驚愕して目を見張る。彼の背けられた体は、全身で栞の存在を拒否していた。栞は喉に引っかかりを感じて、何も言えなかった。その後、愕然としたまま、帰路についたことだけは覚えている。あれから時間が経った今も、春樹の言葉は頭の中で反響していた。
茶色い手袋をつけた手で手摺りをしっかりと持ち、滑りやすい階段を上っていく。露店があった場所は綺麗さっぱり何もなくなっていて、境内まで綿菓子のような木々が案内する。白と黒ずんだ赤の二の鳥居を潜ると、巫女姿をして雪かきをしている楓がいた。
「え、楓?」
「あー、栞だ。朝早くからどうしたの?」
「いや、どうしたもこうしたも、その格好……」
清さを表した白と穢れを払う緋色の袴姿に、黒のダウンコートを着ている楓。栞はどうしてそんな格好でここにいるのかも気になりつつ、長い袖がどうなっているのかも気になった。
栞のそんな疑問が伝わったのか、両手を横に広げた楓のダウンコートの中から、細長く垂れた白い袖が現れる。袖を肩側に寄せて、腕だけダウンコートに通しているようだ。もこもことして動きにくそうに見えた。
「もうね、寒すぎてやってらんない。普通は下に着込むんだけど、学校前だし、一々脱ぐのもめんどくさいからさ」
「それもそうだね……って違う。なんでそんな格好でここにいるの?」
「あれ、言ってなかったっけ。私ここの娘なんだよね」
楓は栞に親指を突き立て見せつけてくる。栞は繰り返しの最中、楓が祭りの日に登校してこなかったり、次の日は片付けがあるからと、早めに帰ったりしていたのを思い浮かべた。それは彼女がこの神社の関係者だからなのか、と納得した。
「でも……私も小さい頃はよくここに来てたけど、楓を見たことがない……小、中も違ったでしょ?」
「あー、それはさ、私が中学三年のときに戻ってきたからだね。先生とお父さんの計らいで転校はなかったし」
親が離婚しちゃってねー、と軽く言う楓は明るく振る舞っていた。思春期の親の離婚はきっと簡単に割り切れるものではなかったはずだ。当時は身が削れる思いもしたことだろう。本人ではない栞にその気持ちを理解ことはできなくとも、今の楓を受け入れることはできる。それ以上は無理に聞き出すこともせず、そっか、と暗くならないように言った。
「それでー? なんでこんな朝っぱらから神社に? お参り?」
神社繋がりで赤いのか、アルミのシャベルをずずずっと動かして、雪かきをする楓に目で追いつつ、その質問の答えを考える。正直なところ、これと言ってここに来た理由はなかった。あるとすれば、悩みの種になっている幼馴染みのことで、神様にでも縋ってみようとしたことぐらいか。隼のことは良くない結果に終わってしまったとはいえ、二人が生きて乗り越えられるようにという願いはちゃんと聞き届けてくれた神様だ。また何かしら恩恵を授かれるかもしれない。
「神様に縋ってみようかなと思ってさ」
「それって篝のことでしょ。露骨に避けられてるもんねー」
栞は直球で傷を抉りにくる楓に苦笑した。
雪が剥られた下には石の道が現れる。楓は掬った雪を横にぽいっと投げた。道さえ見えるようになれば、他はとりあえずいいらしい。せっせと雪かきをする楓が言った。
「うちの神様は恋愛成就系じゃないから、期待はしない方がいいね」
「れ……別にそう言う願いごとじゃないんだけど……。ならどういう神様なの?」
楓はふぅ、と一息ついてシャベルを地面に突き刺した。雪が積もっていると言っても、豪雪地みたいにそこまで深いわけではない。休憩と言わんばかりに、シャベルの取手に肘を置いて支えている。反対側の手のひらを天に向け、人差し指だけで栞を指した。
「さーてねぇ。でも、栞が経験したことが全てなんじゃないかな」
その瞬間、強い風がざわりと周辺の木々を揺らした。栞も驚きで無自覚に口が開いていた。
楓の口角が僅かに引き上げられた。見透かすような深淵の瞳が中で光の輪を描いている。手袋をつけた手のひらで口を覆い、楓を凝視した。
「かえで……?」
楓の名前を紡いだ栞に、彼女は何も答えない。ただ、笑みを深めるばかりである。
栞は楓に向ける視線を逸らすことができなかった。暫くの間、彼女たちはお互いを見つめ続ける。囚われたように静止する状況に終止符を打ったのは楓だった。
「さっ、続き続き」
地面に刺していたスコップをすぽっと抜き、彼女は雪かきを再開する。そのまま拝殿の方に向かっていく彼女の後ろ姿から、栞は目が離せない。彼女の髪の毛は相変わらず艶やかであった。
栞は楓と別れ、一足先に学校へと向かった。廊下でお喋りをする生徒たちの横を通り抜けて、場所が変わってしまった自分の教室に足を進める。あの事件後、現場になった元の教室から、空き教室へと移動させられていた。現場保存の為と、事件があったところで授業は受けられないだろうという、学校側の配慮だった。現在は元の教室にも入られるようになっているらしい。栞がかつて、踏み入ることすら戸惑った教室は、今は他の生徒にトラウマを与えていた。
学校の造り上、新教室も前の教室とさほど変わらない。黒板横に貼られていた掲示物が一新されたくらいである。栞が新教室の中に入ると、入り口近くで春樹が男子生徒たちに囲まれていた。自分の席に向かいながら、彼らの隙間から春樹を盗み見る。思い掛けず交差してしまった視線は、春樹によってすぐに逸らされた。今日もか、と一人ごちる。病室で拒絶されたことが相当堪えたのか、胸の痛みすら感じなくなっていた。
大人しく席に着くと、何気に右側の席に目を向けた。隼の席だったそこは、今は後ろの生徒が前に詰めて座っている。片耳にイヤホンを挿し、本を読んでいた彼は、もう学校に帰ってくることはできない。栞には隼が事を起こした理由は分からなかったが、夢を見ていると、そうなるべくしてなったのだろうと考えていた。
始業のチャイムが鳴る直前に滑り込んできた楓が、肩を揉みながら席に着いた。朝から雪かきをして疲れているようで、栞は労いの気持ちを込めて、軽く肩を揉んであげた。気持ちよさそうに顔を緩める楓は、普段通りの彼女だった。楓の雰囲気がおかしかったのは今朝の一瞬だけ。別人になったわけではないと安堵しつつも、彼女が言った言葉の意味を考えていた。
授業が始まると、一限目だというのに栞は船を漕ぎ始めた。最近眠りが浅いことは自覚していた。そのまま意識は渦に引き摺り込まれていく。彼女に抗う力は残っていなかった。
気づいたときには嫌な思い出しかない住宅街にいた。赤い空に放課後であることが窺える。第三者の目線で、行き交う人々を見つめていた栞は、様々な住宅が左右に並び立つ道を歩いている、もう一人の自分を目に入れた。周りに認知されない彼女の隣を、もう一人の彼女が通り過ぎていく。これは夢だと認識して、後を追いかけるために足を踏み出した。この先には栞と楓がよく行くカフェがある。もう一人の彼女は、そこに行こうとしているらしかった。
もう一人の栞の目の前から、黒いフードを被った男性がどんどんと近づいてくる。その手にはナイフが握られており、スマホを見ている彼女は、それに気づいてはいない。
「これも、か」
後ろから眺める栞が静かに呟いた。ループが終わってからというもの、春樹と隼を助けるため奮闘した際に、印象に残っている場所の夢を見ていた。それには全て共通点があり、この後起こってしまうことが、容易に推測できてしまう。
スマホを触る彼女が、男性とぶつかりそうになったところで、顔を上げた。時すでに遅し。男性が持っていたナイフが彼女の腹に深く突き刺さる。痛さに歪む彼女の顔は、何が起こったのかも理解できていない。自分は通り魔にも殺されたのかと、自分が刺されたのを冷めた目で見ていた栞は、片手で顔を覆った。
学校中に反響する機械音に、意識は一気に引きずり上げられた。思いっきり目を開いた栞は、呼吸が乱れていることに気づく。あれほど冷静に状況を見ていたというのに、体は拒否反応を起こしていた。どれだけ夢を冷静に見ていても、殺される夢が体に良いわけがなかった。机につけていた頬が汗ばんでいる。体を起き上がらせると、一限の授業は終わっていた。
短い休憩に入り、騒がしくなった教室から、栞は高い空を直視する。楓が話しかけてこなかったのは、考えを巡らせるためにも都合が良かった。
何かを訴えてくる夢を、栞は『所詮は夢だ』と片付けることができなかった。彼女が経験したループの中のどれにも当てはまらない夢。知らない光景のはずなのに、どれも知っている感覚があった。
あれはきっと、春樹が経験してきた二日間だ。
どうしてそう思うのか、理由は幾つかあった。一つ目は、栞のループ中の春樹の不可解な言動だ。彼は栞と買い出しに行った際、知るはずのない夜景のことを言い当てていた。栞が見てもいない夜景のことを、彼が知るのは不可能なはずなのに、あれは確信を得ていた。つまり、彼は以前にも見たことがあったのだ。栞と隼が夜景を眺めている光景を。そして、知っていた。その後に何が起こるのかも。
二つ目は春樹が文化祭準備で、栞と隼を近づけないようにしていたことだ。春樹は絶対に彼がいない場で、隼と栞に二人になる機会を与えなかった。必ず隼が春樹と同じ班になるように仕向けていた。隼と祭りに行って、彼がバイトに行った日は、先回りして通り魔と接触していたし、夢のように栞が殺されてしまうかもしれない状況を作らせなかった。例外として、栞と春樹が買い出し班になったときに、春樹と隼が離れたことはあった。それも、祭りに行ったと勘違いをして、栞を通り魔に遭わせないようにしたのだとしたら、辻褄が合う。
三つ目は栞自身だった。時間が巻き戻るという、非現実的なループを経験した彼女は、こんなことが他の人にも起こるはずがないと、どこか思っていた。だが、明確に指し示されなかったとはいえ、楓の今朝の言葉がなぜか栞を確信させた。自分に起こり得たのだから、誰かが同じことをしていても不思議ではないと。
そうして辿り着いた答えは、春樹が栞と同じく、あの二日間を繰り返していたのではないか、ということだった。三つのことが理由になるというよりは、そう考えれば筋が通ると言った方が正しい。病室で春樹が呟いた『終わったのか』という言葉も、根拠の一つだ。現在、彼に避けられている理由も、そこに起因しているのだろう。彼もまた、繰り返していたのなら、その原因は簡単だった。
栞はずっと、春樹を助けるために、自分があの二日間を繰り返しているのだと思っていた。本当は違ったのだ。あのループで助けられたのは、栞だった。右手で左腕の服の裾を掴む。頭のどこかでは分かっていたことを、自分に真正面から突きつけたのは初めてで、知りたくなかったと純粋に思った。これでは彼との関係をどうにかしたくとも、できるわけがない。元凶が自分だと分かれば、そんな資格があるとは思えなかった。
彼に辛い顔をさせていたのは、他でもない、彼女自身だった。
十二月二十三日。
駿河高校の終業式だった今日は、昼までの授業だった。これから冬休みに入るということもあり、終礼が終わると、何組かの生徒たちは集まって遊びに行こうとしているようだった。事件のせいで文化祭も中止になり、受験シーズンでもあるこの時期、憂さ晴らしに一日くらい遊んでもばちは当たらない。楓も同様で、鞄に持ち帰る荷物を入れながら、声をかけてくる。カフェにでも行こうか、という誘いに、栞は首を振って断った。
「あれ、なんかあるの?」
「そういうわけじゃ、ないんだけどさ」
なんとなく、行く気になれなかったというだけ。それをどう言葉にしていいかも分からず、曖昧に笑って誤魔化せば、楓は栞の肩をぽんぽんと叩いた。
「あんまり考えすぎないようにね」
心配をかけてしまったかと彼女の顔を見れば、見たこともないくらい優しかった。彼女に頷いて教室から送り出す。様子がおかしくても、何も聞かずに慰めてくれる彼女に、栞は良い友達持ったと心の底から思った。
次々と教室から人がいなくなっていく。あっという間に誰もいなくなってしまうと、世界にたった一人取り残されたようだった。二つ前の席は、全ての痕跡を消し去ったかのように空っぽだ。そこに座る主も、もう帰ってしまったのだろう。
栞は春樹に負い目を感じてしまってから、話しかける勇気もなく、関わりを絶っていた。一度繋がりが絶たれてしまえば、一歩を踏み出すのは容易なことではない。下手なことをして嫌われたくない。更に嫌われるくらいなら、このままの方がいい。逃げ腰になっている自覚はあった。その場で地団駄を踏んでも、何も変わりはしないというのに。
教室で何時間過ごしていたのだろう。物思いに耽ると、時間の感覚が麻痺してしまう。机に写る窓枠の影が茜色を纏っていた。窓の向こうの夕焼けに、何度となく絶望したというのに、綺麗と思ってしまうのは、人でなしだろうか。自然と浮かんだ嘲笑は滑稽だった。
帰宅するために机の中に入っていたノートや教科書をリュックに詰めて、立ち上がって背中に負った。静まり返った学校を、ゆっくりと歩いていく。この学校で栞は様々な経験をした。無事にループから抜け出し時間が経つと、その思い出がどれだけ辛ろうが、感慨深い。ただの廊下にだって思い入れがある。彼女は白く塗られた壁を指先でなぞり、立ち止まった。そして、学生用の玄関に向かっていた足が、踵を返す。
向かったのは、忘れられない、始まりの場所だった。悪い意味で頭から離れない場所だ。あんなことがなければ、今も春樹と笑っていられたかもしれない。あんな場所がなければ、隼は今もあの席で本を読んでいたのかもしれない。消し去りたいほど憎い場所だったが、起こったことをなかったことにはできない。残り少ない学校生活、行く機会もなくなってしまう。それが分かっているから、今のうちに向き合っておこうと思った。
懐かしい教室が見えてくると、後ろの扉が開いていた。おずおずと内を覗けば、予想もしなかった人がいて、息を呑む。あのときのまま寄せられた机に、薄く血が染み込んだ木材の床。惨状を呼び起こす夕焼けの中、椅子に座っていたのは、よく知る黒髪の青年だった。思わず不確かな足取りで、教室の中に入ってしまう。
春樹がかたりと音を立てて、椅子から立ち上がる。扉に向かって足を動かした彼は、そこに立つ栞を捉えてその足を止めた。開いた目が、すぐにすっと細められる。冷たいその瞳に、栞は足元が崩れていく感覚を持った。
「近づくなって言ったはずだけどな」
変わらない拒絶は栞の心に重くのしかかる。自分が邪魔者だと再認識するくらいなら、立ち去ればよかったのかもしれない。だが、それは正しいことなのだろうか。また前のように側にいたいと思う自分の心を、偽るだけではないか。
逃げ出したくなる気持ちを抑えて、真っ直ぐに春樹を見据える。どんなに資格がなくとも、素直になりたい。それがたとえ、自分の我儘だったとしても。
「そんなの、納得できない」
やっとの思いで口にした栞の声は、分かりやすく震えていた。換気のためか、開けられていた窓からひんやりとした風が入り込んだ。
「そうかよ。でも俺は、お前と話すことなんかない」
顔を背けた春樹が呆れてため息をつく。止めていた足を動かし、扉近くに立つ彼女の横を通り過ぎようとする。ここで彼を逃がせば、二度とこんな機会は巡ってこないと直感で感じた。咄嗟に彼の手首を掴む。動きを封じ込められた春樹は、振り解くこともせず、そのまま立ち止まった。
「離せよ」
「……謝りたいことが、ある」
だから離せない。至近距離で重なった視線に戸惑いながら、栞は手に力を込めた。
「謝られることなんて俺にはないけど」
心なしか彼の表情は柔らかくなっていた。本当に心当たりがなさそうな感じだ。栞を避けている理由はそれではないのかもしれない。
「私が篝を殺したから、避けてるんじゃないの……?」
「殺した……? 俺は生きてるだろ」
「とぼけないで。篝も繰り返してたんでしょう? あの二日間を」
春樹を掴んでいる手から彼の動揺が伝わる。それを彼も分かったのか、栞の手を振り解いた。
「ごめん、私のせいだ。篝が何度も繰り返したのも、自殺したのも、人を、殺したのも」
栞の喉が狭まって、上手く声が出なくなる。面と向かって春樹には謝らなければと思うのに、居た堪れなくなって俯いてしまった。滑らかな彼女の髪の毛が顔を隠す。抑えきれなくなった雫が、足元のタイルに染みを作った。
引き潮のような静寂が二人を包み込む。先に耐えられなくなったのは春樹の方で、紡がれた言葉に栞は醜くなった顔を上げた。
「……違う、違うんだ。坂城は何も、悪くない」
彼が目を向ける先には、赤い空を塗り替えていく濃紺が顔を出している。独り言のように紡がれる言葉は、確かに彼女に向けて放たれたもので。栞は真剣に耳を傾けた。
「……坂城が死んで、絶望して、お前のとこに行きたくて首を切ったのはいつだったか。もう、覚えてない」
遠い眼差しで春樹が語り出したのは、いつかの栞が死んでから彼自身の自殺をきっかけに繰り返してきた、あの二日間だった。とある十一月八日に栞が隼に殺されて以来、栞を助けるため足掻いていたという。その辺りは、栞が夢を根拠に立てた仮説そのものだった。栞が繰り返しを始める前から、何度も何度も死の痛みと引き換えに、彼は繰り返していた。
栞はループの中、助けられない自分への失望感と人の死に直面するしんどさに、狂ってしまうと感じたことがあった。そんな彼女とは比べ物にならない、長い時間を繰り返した春樹の心胸を、彼女が推し量れるはずもなかった。
「最初はお前を助けようと必死だった。人を殺そうなんて考えもしなかった。けどな、繰り返すために何度も何度も自分を殺すのがどんどん辛くなっていった。終わらない二日間に疲れて、早く終われよって何度も呪って。そしたらいつの間にか、お前を助ける方法じゃなくて、自分がループから抜け出す方法を考えてた」
悲痛な春樹の声が教室に浸透していく。あっけなく姿を消す彼の一つ一つの言葉が、切ない。
「自分で自分を数え切れないくらい殺せば、誰だって耐えられないよ」
行動次第で変わる惨劇を予測して動き、それでも思い通りにいかない状況に打ちひしがれるのも、無理はないと思った。繰り返していた栞だからこそ、やるせなさも春樹が辿り着いてしまった気持ちも、理解することはできた。慰めではなく本心で言った言葉に、春樹は首を振る。
「だからって人を殺せばいいなんて考えは、許されていいものじゃない」
「篝……」
「やっちゃいけないことだった。分かってたのに、俺は殺したんだ。そのせいで、坂城も繰り返す羽目になった。そうだろ?」
春樹は栞が繰り返しをしていた理由も察していた。彼女の繰り返しを、己の罰のように受け取っているらしい。否定しようとした彼女の口が、開いて、閉じる。彼女が奮闘していたのは、あくまでも彼女の意思だった。散ってしまった幼馴染を可哀そうに思ったわけでは、決してない。けれども、それを伝えたところで、彼がすんなり受け取るとも思えなかった。
乱暴に涙を拭うしかできない自分に腹が立つ。春樹の握り締められた手が小刻みに動いていた。どんな言葉をかければ、彼は扉を閉じた心を開いてくれるのだろうか。
「でも、あの二日間は終わったんだ。日下部くんは……辛い結果に終わってしまったけど、私も篝も生きてる。そうでしょ?」
栞は朱く腫らした瞼で、春樹が安心するような言葉を投げかける。あの二日間が終わって本来なら喜ぶところなのに、彼はそんな素振りを一切見せなかった。それどころか、今もこうして何かと戦っている。栞には何に怯え、立ち向かっているのか、不可解でしかなかった。
「終わってないんだよ、何も」
ばっと勢いに任せて振り返った春樹が、瞳を揺らす。そしてすぐに顔を背け、喉の奥から絞り出したような声を出し、そう言った。
「何が、終わってないの? 私が助かることが目的だったんなら、もう何も怖がることないでしょ……?」
「それは、俺がお前を殺すかもしれなくてもか?」
春樹が思い詰めた声で自嘲気味に笑う。栞の中でばらばらだった欠片が当てはまり、判然としなかった春樹の様子にはたと納得した。
彼は心を病んでしまう途方もない繰り返しの中、正しくないことを分かっていながら、人の命を奪い続けた。殺したくない、死にたくない、死なせたくない。栞の死だけでなく、自分に追い詰められていった春樹は、自分の行いを後悔し、何回も自分の首を切った。その甲斐あって、最後は誰も殺さずにループを抜け出せはした。しかし、聞いてしまった悪魔の囁きに負けたことで、箍が外れた自分を知ってしまった。それは彼に新たな重荷を背負わせた。だからこそ、ようやくループから解放されてもなお、また取り憑かれてしまうかもしれない自分を恐れている。
もし、自分が春樹の立場だったなら、と彼女は考える。助けたい人を自分の手で殺してしまうかもしれない恐怖に、足がすくんだ。それでも、そんな自分を支えてくれる人がいるなら、それはこの人がいいと思う。春樹にとってそうでなくとも、その距離に、いたいと思った。
「そうなったら、私が『春樹』を殺すよ」
ぴくりと反応した春樹がゆっくりと栞の方を向き、穏やかな彼女の表情を視野に入れる。その瞬間、彼の抑えていたものが崩壊した。眉間に皺を寄せ、口元に力が入っている。閉じた瞼からは耐えきれなかった涙が、頬を伝った。栞の言葉が彼を解放したのかは分からない。ただ、何かしらの影響を与えたことは確かだった。
床にしゃがみ込んだ春樹に栞も跪いた。嗚咽を抑え込んで泣きじゃくる彼を優しく抱きしめる。
「大丈夫。もう、人殺しになんてさせないから」
栞の肩に顔を埋める春樹がこくりと頷く。彼女の背中に回った彼の腕が離れていた距離を詰めるように、強く掻き抱いた。
赤と紺の境界線が徐々に取り払われていく。消えかけた夕焼けが、彼らの行く末を見守っていた。
最後までお付き合いしてくださり、ありがとうございました。
辛いお話ではありましたが、作者としましては最後まで書ききることが出来て、本当によかったです。
また何かの作品でお会いしましょう。