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第三章 彼女の帰結

 澄んでいる空の下、栞は顎に手を当て黙り込み、自転車整理をする隼を、ずっと目で追いかけている。その視線にもちろん気づいている彼は、作業の手を止めずにいながらも、やりにくさを感じていた。朝の挨拶を交わしてから変わらぬ栞の様子に、疑問を浮かべている。

 栞の頭は前回の、七度目のループのことでいっぱいだった。前回、技術室でごぽりと春樹から溢れ出す血にやるせなさを感じながらも、先生たちが来るまでに二人の亡骸に近寄れば、今まで経験したことのない違いがあった。それは、隼が血に染まっていないカッターナイフを持っていたことだ。惨状の舞台が技術室だったのもあり、春樹はともかく、隼が使うために取りにきたのであれば、刃物を持っていても不思議はなかった。だが、栞にはそれが糸口に思えた。今まで春樹が隼を殺す動機を探してきた彼女は、実は隼の方に原因があったのでは、と考えたのである。こうして栞は目の前の隼を見つめながら、その原因を思案していた。

 隼は駐輪場の一角を、自転車がそれ以上置けない状態にまで詰めると、一仕事を終える。自転車整理に集中することで栞の視線を振り払うのは限界だった。あ、と閃いた顔をした隼が栞に話しかけてくる。その内容は、今晩の祭りの話だった。


「そういえば、今日って確か、ここの地域でお祭りがあるんだよね」


 以前と殆ど変わらない台詞を聞いた栞がぴくりと目の色を取り戻す。しっかりと隼の瞳を捉えた。


「うん、奉剞祭のことだね。それがどうかした?」


 この流れだと、経験上、祭りに誘われる。春樹に誘われても隼に誘われても毎度行く気にはなれない。今回も断ろうと、誘いの言葉を待つことにした。


「よかったら今日一緒に行かない?」


 ほらきた、と栞は思うも、知られれば面倒なのでおくびにも出さない。断ろうとして口を開いたが、不承の言葉が発せられることはなかった。代わりに出てきた肯定の言葉。


「いいよ、行こう」


 隼はそれを聞いて、珍しく子どものような幼い笑顔を浮かべた。了承されるとは思っていなかったのかもしれない。祭りに行けることがよほど嬉しいのだろう。

 栞が隼の誘いを受けたのには狙いがあった。言わずもがな、隼に春樹のことで探りを入れるためだった。二人を助けるためにも、止めるための手立てに繋がる情報が欲しかった。あれほど嬉しそうにするとは思わず、打算的な了承をしたことに、若干の罪悪感が芽生えた。

 一度家に帰ってからくるという隼に、二つ返事で頷いた。神社の最寄り駅に迎えに行く頃には、月夜の灯りが街を照らしていた。改札前の駅構内は去年に改装され、所々錆びて老朽化が進んでいた建物が一新されている。券売機でキャッシュレス決済が出来るようになったり、転落防止のホームドアがついたり。栞が凭れている柱いっぱいに液晶パネルが嵌め込まれたのもその一つだ。基本的には広告のためのパネルで、大手有名メーカーのお菓子の宣伝や、鉄道会社が主催するイベントを映し出している。

 栞は隼からの『後数分で着く』という連絡をスマホで確認して、だらりとスマホを持った手を下ろすと、視線の先に別の柱のパネルを捉える。そのパネルは他のものとは違い、リアルタイムでニュースを映し出していて、さながらテレビのようだった。もうすぐ行われる国会の解散総選挙のことや、巷を騒がせている殺人犯のことが流れる。速報で流れたアイドルの覚醒剤疑惑には、アラーム音にしているアイドルグループの一人だったのもあり、思わずスマホで調べ直すほどだった。


「お待たせ」


 ゆったりとした落ち着いた声にスマホから顔を上げると、白いパーカーの上に、ブラウンにチェック柄が入った大きめのコートを着た隼が立っていた。細身の足は黒のジーンズに覆われている。学校では見ない大人びた格好が様になっていた。隼の視線が栞の頭の天辺から足元までさらりと撫でる。栞は何も考えず、春樹と祭りに行ったときと変わらない服装で来た自分が恥ずかしくなった。

 居た堪れなくなって、栞は隼に声をかけ、祭りの方向へと歩き出す。隼も彼女の隣に並び、二人は構内を出て行った。


「スヌード、つけてないんだね」


 神社まではそう遠くはない。隣に立つ隼を横目で見ると、今朝はあった黒のスヌードが隼の首から消えていた。男性にしては白めな首元が寒そうにしている。


「うん。パーカーにスヌードだと苦しくて。そのうちマフラー買うつもりなんだ」

「寒くない?」


 二人分がやっとの白い線枠の歩道を進んでいると、車道に車が通るたび、風が肌の体温を奪っていく。


「寒いよ。でもあったかいからいいんだ」


 隼はそう言うと、車道側を歩いていた栞の腕を引っ張り、場所を入れ替わった。


「危ないからね、そっちにいて」


 彼が見せる紳士的な振舞いと柔らかい瞳の微笑みは栞の心をくすぐる。こんなにも優しいというのに、それでも栞の脳裏に映るのは祭りに行ったときの春樹の笑顔で。無意識に比べてしまう自分が嫌になった。


「……暗い顔してる」


 覗き込む隼にはっとして苦笑する。隼が祭りを楽しみにしていることは知っていたはずなのに、こんなことでは隼に気を使わせてしまう。


「本当は他の人と行きたかった、とか?」


 行きたかったわけではないにしろ、幼馴染みとの祭りを思い浮かべて比べたのは事実で。隼の言葉はある意味、的を得ていた。

 ありのままを伝えるのは失礼だ。貴方より幼馴染みの方が良かったと言っているものだし、自分がそんなことを言われれば、なら行けばよかったじゃないかと思ってしまう。だからと言って、下手に否定してもきっと隼は気づいてしまいそうだ。どうしたらいいだろうか。

 咄嗟に思いついたのは、駅の柱のニュースだった。


「そうじゃないよ。さっき日下部くんを待ってるときに見たニュースがなんか暗くてさ、多分引き摺られただけ」


 それっぽい嘘を栞は並べた。住宅街を抜けて、徐々に騒がしくなっていく音と、正面に露店の灯りがほんのりと見え、神社が近いことを察する。その方向に真っ直ぐ向きながら、隼は言った。


「……そっか。じゃあ祭りを楽しんで嫌なことは忘れようよ」


 栞は隼を見ずに頷く。


「そうだね。美味しいものいっぱい食べて楽しもっか」


 露店に近づくにつれ、焼き鳥や焼きそばの香ばしい匂いが強くなる。隼にどうやって春樹のことを聞き出そうかと考えながら、光の道に入っていった。

 隼は祭りに興味津々だった。海外出張が多いご両親だったこともあって、小さい頃からこういったイベントごとに触れることが殆どなかったという。気になった露店に行っては、焼きそばやりんご飴を買ったり、ヨーヨー掬いをしたり。買ったものを半分に分けたり、奢ってくれたりするところは、女子としてはポイントが高い。こんな状況でなければ、もっと素直に楽しめたことだろう。

 りんご飴を舐めながら歩いていると、右手に射的を見つけた。豪華景品の列にある大きなくまのぬいぐるみがちょこんと座って、愛らしい目で栞を見つめる。彼女と同じように隼もぬいぐるみを見て、店主にお金を渡し、射的の弾を貰った。隼が持っていたりんご飴を預かり、後ろから栞は眺めている。彼の銃の構えはもはや素人ではない。きちんと狙いを定めて撃った弾は、簡単にぬいぐるみの頭に当たる。ぐらりと何度か揺れたそれは、最後は呆気なく落ちたのだった。


「はい、あげる」


 店主がぬいぐるみを入れた袋を隼に渡し、そのまま栞に差し出す。


「いいの?」


 欲しがっているように見えたのかもしれない。ふんわりと笑って頷く彼に、大人しく受け取っておく。好意でくれたものを拒否してしまうのは、失礼だと思った。

 射的の弾はまだ残っている。次々と絶妙な角度から景品を撃ち落とす姿は、人間技ではない。落ちた景品を拾い袋に詰めた店主は、隼に渡しながら泣いていた。本人が言うには、射的の経験は無いらしい。バトルロイヤルゲームを日頃からやっているからかもしれないと言っていた。画面上で敵を撃ち殺すことと、射的で物に弾を当てることは、勝手が違うのではないか、と内心栞は思った。

 隼は境内に出ると手水舎や大きく立ち塞がる拝殿に目を輝かせていた。栞が教えるまでもなく手を洗い出すので、ついてきた意味がないような気がした。元より、詳しかったのは春樹であって、自分ではない。隼のやることを保護者のように見守りながら、後をついて行く。参拝の列に並ぶと、隼は栞を飽きさせないように色んな話をしてくれた。最近読んだ本の話、面白かった映画や、気に入った音楽のこと。人と話すのが苦手な栞だが、不思議と、隼の話を聞くのは苦ではなかった。彼がこんなにも話すことをどれくらいの人が知っているのだろう。僅かな優越感が芽生えた。

 拝殿を目の前にすると、春樹の仕草を思い出して作法を真似する。何を見ても春樹がちらつく祭りへの嫌悪感は拭えない。それでも、来たからには願うことはあった。

――二人が十一月八日を生きて乗り越えられますように。

 曲がった刀が叶えてくれることを、祈った。


 吐いた息が白く変わる。月夜の下を歩けば、栞と隼の足元に影が生まれた。祭りを楽しんだ二人は神社から離れ、帰路に着こうとする。栞は純粋に祭りへ触れていた彼に、何も探りを入れられなかった自分の不甲斐なさを感じていた。

 車道側を歩いていた隼がふと足を止める。反応が遅くなり、追い越してしまった栞が彼の方を振り向く。下を向いていた彼が顔を上げると、口を開いては閉じてを繰り返した。軽く握られた拳が震えているように見える。意を決して言葉を紡いだ彼の目は、緊張で揺れていた。


「もう一箇所だけ、いいかな」


 そう言われて連れて行かれたのは、栞も行ったことがない穴場スポットだった。多少草むらを歩き、抜けた先にあるのは、落ちないように地面に差された柵だけ。必要最低限の電灯はあるものの、足元は見えないに等しい。そんな場所に人などいるはずもなく、彼らだけがその空間を支配していた。

 そこは街を一望できる場所で、彼女の下で街の灯りがネオンとなって広がっている。意図的に暗がりが造られたかのような場所は、イルミネーションのように輝く街を一層際立たせた。絶景と言えるその光景に、恍惚とする。


「きれー……」


 感嘆の声が漏れる。この世のものとは思えない眩耀は、彼女の心を掴んで離さない。一瞬でも全てのことを忘れられた自分がいた。栞の様子に隼が満足そうに頬を緩めた。


「偶然見つけた場所で、嫌なことがあると来るんだ。この光景を見てると、色々と忘れられる気がして」

「そうだね。こんな場所が地元にあるなんて知らなかった」


 見下ろした先には、紅い光の直線が見える。おそらく露店が並んでいる場所なのだろう。こうして見ると神様が通る道のようだ。


「坂城さんにも見せたくてさ。喜んでもらえて良かった」


 柵に手を置いた隼の前髪が靡いて、電灯の僅かな灯りが瞳を照らす。この場所が彼の為に用意されたと錯覚するほどに、絵になっていた。

 視線を夜景に戻した隼が話し出した。


「坂城さんと出会ってもう一年半、かな。図書室であったときはこんなに仲良くなるなんて、思ってもみなかったな」


 栞が隼と初めて顔を合わせたのは、去年彼女が図書委員をしていたときだった。昼休みと放課後、図書室に本を借りにくる人たちを対応したり、騒がしくする人たちを監視したりする役目が図書委員にはある。とはいっても、高校の図書室に来る人は大抵限られており、常連も少ない。そんな中、しょっちゅう出入りをしていたのが、特殊な外見で一際目立つ、隼だった。


「日下部くんはよく窓際に座って本を読んでたよね。えっと、なんだっけ、よく読んでた本があったような……」

「『サロメ』のこと?」

「そう、それ! 何度も何度も図書室で読んでたから、本屋で買えばいいのにって実は思ってたよね」


 当時を思い出して顔が綻ぶ。クラスで男女が一人ずつ、一つの委員会に入る。栞と共に入っていた男子はサボることが多く、彼女のクラスが担当の時期は必然的に彼女が図書室に篭っていた。漫画を読みながら時間を潰すのも飽きてきた頃に、同じ本ばかり借りている隼に話しかけたのが始まりだった気がする。

 二人とも落ち着いたタイプだったので、波長が合ったのかもしれない。


「あの頃から、さ。どうやったら坂城さんと仲良くなれるかなって考えてた」


 懐かしい思い出に浸っていたら、隼の雰囲気が変わったのが分かった。咄嗟に、何を言われるのだろうかと、身構える。


「人と関わるのは得意じゃないけど、坂城さんとは無理せず話せたんだ」


 続く言葉に、隼の方を向くことができない。何となく、この先を察してしまう自分が憎い。


「坂城さんと話すのが楽しくて、いつの間にかこんな関係がずっと続けばいいと思ってた」


 栞にとっても、何気ない彼との時間は楽しかった。ただ、心地いい関係にいたからこそ、その先を聞きたくないと思う。この関係が壊れてしまうようで、怖かった。


「俺、坂城さんが好きなんだ」


 風が彼らの髪を攫っていく。顔にかからないよう抑えた彼女が目にしたのは、真っ直ぐに彼女を射抜く、隼の熱を含んだ瞳だった。伝えられた声が震えていたのは聞き間違いなどではなかった。

 隼をそういった対象では見たことがない。そして見ることもできない。あくまでも、栞にとって彼は良き友人だった。


「……ごめんなさい、私」


 応えられない想いに胸が痛くなって、その先を紡げない。断るときはしっかり断らないと、想いを告げてくれた彼に失礼だと分かっているのに、思うように口は動いてはくれない。

 隼から貰ったぬいぐるみを抱き、力を込める。彼らの間に沈黙が流れると、隼はふっと笑った。


「いいよ、無理しなくて。断られるのは分かってたから」

「……ごめん」

「謝らないで。寂しくなるから」


 栞は惚れた腫れたの話題には縁がなく、人を好きだという自覚を持ったこともない。それでも、想いが実らないことが辛いことぐらいは、想像は出来た。それは春樹に拒絶されたときの気持ちに似ていた。

 再び夜景に体を向けた隼の表情は見えない。ただ、横顔が哀愁を纏っている。


「友達では、いてくれるかな」


 煮え切らない、断る勇気もない栞に、まだ友達でいたいと言ってくれた隼はどこまでも優しかった。栞が求めている関係を、隼は気づいているのだろう。気持ちを精算しながら、関わることは、自分が辛いだろうに。

 そんな隼の気持ちを無碍にはできない。


「こんな私でも、いてくれるなら」


 精一杯声を絞り出し、伝える。伝えられた自分がこんなにも声の震えを感じるのだから、彼の緊張は計り知れなかった。


「ありがとう」


 感謝をするのはこちらだと言いかけて、それは無粋だと気づく。折角の彼の優しさを潰すのは、本望ではない。

 かさりと後ろの草むらから足音がする。ゆっくりと振り返るも、そこには月明かりで出来た自分の影が、佇むだけであった。


 十一月八日。

 教室の窓際にある栞の席には、冬の始まりを感じさせる、澄んだ暖かい日差しが降り注ぐ。授業中も黒板と窓から見える外の風景に集中し、できるだけ右側を見ないようにしていた。それはもちろん、隣の席に座っているのが、隼であるからに他ならない。昨日、彼から告白を受け、断ってしまった手前、気まずさがある。友達でいて欲しい、という気持ちはあっても、何もなかったかのように接することは、なかなか難しかった。それを隼も分かっているのか、休み時間になればどこかへ行ってしまう。楓は学校に来て、二人の様子がおかしいことにいち早く気づいており、呆れた顔で机を人差し指で叩いていた。

 隼がいなくなるのは昼休みも例外ではなく、購買に行ってメロンパンとあげパンを購入した栞が戻ってきたときには、姿がなかった。痺れを切らした楓が栞を問い詰める。


「ねぇ、あんたたち様子が変だよ? 何があったの」


 買ってきたはいいものの、相変わらず手をつけられないメロンパンを机の端に置き、あげパンを一齧りした栞は、ぼそぼそと話し始める。人の恋路を話すのは気が引けたが、この状態ではばれてしまうのも時間の問題だった。

 昨日の出来事を一通り話し終えると、楓は言っちゃったかー、と呟き、人のいない机へと目を向ける。驚愕している様子がなかったことからも、殆ど予想通りだったようで、深いため息をついていた。


「まぁ、すぐに話せないのも分かるけどさ、あんまり露骨だとあいつも可哀想だと思うよ」

「そう、だよね」


 この後起きる悲劇を回避するためにも、隼に近づけないのは良くない。たとえお互いの思いのベクトルが違うものだったとしても、彼に生きて欲しいと思う心は本物だ。少なくとも、想いに応えられない罪悪感や、話しかけることもできない透明な壁は、繰り返しの原動力になっている『助けたい』という思いを、邪魔するものでしかなかった。


「出来るだけ、頑張ってみるよ」


 食べられないメロンパンを突く。手を差し出してくる楓に、メロンパンを丸々渡すと、そんなつもりはなかったと慌てて返された。

 放課後になると、文化祭準備のために残ろうとする生徒たちの、見慣れた風景が広がる。もう何年もこの光景を見ているような気がするのは、実際に気のせいであった。これで八度目の十一月八日を迎えており、時間にするとたったの半月ほどである。しかし、何度も何度も幼馴染みと友人の死に立ち向かい、打ちのめされてきた彼女にとっては尋常ではない長い時間に思えてならない。こんなことがいつまでも続けば、大切な人を失い続ける辛さと罪悪感で、いつかは狂ってしまうと本気で思っている。

 自分の席で頬杖をついて、仲のいい男子達と連む春樹を眺めた。一つ、前回のループで引っかかったことが、今回の出来事と重なっていたことに栞は気づいた。それは、春樹が言った『夜景』のことだった。あのときの栞には全く身に覚えがなく、首を傾げるしかなかったが、昨日隼との出来事で腑に落ちた。おそらく、春樹が言っていたのは、隼との栞が行ったあの場所のことだったのだろう。前回の繰り返しでは、起こり得ていない夜景デートを、春樹は知っていた。つまり、春樹は知るわけがない情報を、あの時掴んでいたことになる。それが何を意味するのか、栞は頭の中で一つの仮説を立ててはみるものの、確証がなく心の底にしまった。

 そんなことを考えているうちに、お手洗いから帰ってきた隼が自分の席に真っ直ぐ向かって、鞄に荷物を入れ始めた。普段なら後ろの壁にもたれて音楽を聴いているはずである。


「日下部くん、帰るの?」


 てっきり今回も文化祭の準備で残ると思っていた栞は、驚きを隠せずに普通に話しかけていた。そんな彼女に隼も反応し、瞼をぱちぱちさせる。


「う、ん。バイト先の店長に、昨日か今日入って欲しいって言われてて。昨日は入れなかったから今日代わりに入りますって言っちゃったんだよね」


 先に帰って行った楓と同じく、両手を合わせて謝罪を表す隼に、気にしないよう手を振っておく。春樹が買い出し班になったときもいつもとは違う状況に戸惑ったが、今回も初めての状況だ。隼が学校にいないのであれば、何も怒らないのではないか、と淡い期待が燻る。ぎこちなく手を振る隼を見送り、春樹へと視線を戻せば、彼も同じように帰り支度をしていた。呑気に眺めているほど栞も馬鹿ではない。机の中にあった小さめの筆箱や食べられなかったメロンパンをリュックに押し込み、スヌードをすぽっと首に巻いて、教室を後にする春樹を追いかけた。

 二人して学校に残らない状況は経験したことがない。この先が全く予想できないことに不安を覚えながら、駐輪場に辿り着くと、自転車の鍵を解除して校門に歩いていくのが見える。自分の自転車を押して向かえば、春樹が跨って走り出そうとしているところだった。慌てて乗れば校門を越えていない栞は先生に怒られる。そんなことに構っている余裕もなく、距離を開いて春樹を見失わぬよう、自転車を漕いだ。途中、バイト先に向かっているのだろう、歩いている隼の横を通り過ぎても、春樹が止まることはない。隼が目的ではないのか。なら一体どこに。何分初めてが多すぎて、皆目見当がつかないまま、彼の背中を見つめる。

 春樹を見失うのは一瞬だった。彼が自宅の方向に向かっていないと分かった時点で、大通りの方に出ていた。一定の距離を保ちつつ走っていた栞は、交差点の信号に引っかかり、春樹との距離が更に開いてしまった。その信号は一度変わると青になるまで時間がかかる。再び走り出したときには、春樹はどこにもいなかった。


「街中じゃ、探しようがない……」


 苦肉の策として、春樹に電話をかけてみることにした。学校中を探したときにも何度かかけたことはあったが、それに出てくれたことは一度もなかった。彼女が立てた仮説が正しいのであれば、今回も出てはくれないだろう。それに、探していることを春樹に知られるのも避けたかった。そのせいで隼に矛先が向くことがあってはならない。

 繋がらない電話に舌打ちをしそうになる。意図的に無視されたのであれば、春樹は何かをしようとしているということだ。そうこうしている間にも時間は過ぎていく。時刻は十六時二十三分。地元の人たちに春樹の背格好や人相を伝え、ごく僅かな情報を頼りに走り回った挙句、辿りついたのは、神社の近くの住宅街だった。その先には栞の行きつけのカフェがある。


「サイレン?」


 帰宅する歩行者の往来が多いそこは、機械な警戒音が鳴り響いている。パトカーと救急車のサイレンが四方八方から聞こえてきた。道を挟むように家々が並び、ずらりと続いていて、その騒がしさから露店が並んでいる様を思い出させた。パトカーと救急車が止まっている場所に徐々に人の群れができ始めている。自転車から降り、そこに一歩一歩、歩み寄れば、丁度一台の救急車が、栞の来た道を走り去っていくところだった。不自然に呼吸が乱れ始める。予感も確証も全くないというのに、この底知れない不快感を、彼女は幾度となく経験していた。自転車を手放して倒れる音を耳の片隅で拾いながら、人を掻き分けて開けた場所にまで出る。先を行こうとする彼女を遮ったのは、簡易に引かれた黄色の障壁テープで、ブルーシートをかける余裕もないのか、見える範囲で何人もの人が血を流して倒れていた。壁に凭れて、傷口を押さえる人もいれば、首や腹を掻き切られ、既に動かない人もいる。

 今まで見てきた中で、一番の惨状にひゅっと喉が詰まる。むせ返る死臭に両手で口元を覆い、なんとか込み上げてくるものを抑え込むことができた。虚ろな目を道の中央に向ける。そこに横たわる二人の人物を確認できたとき、双瞼を見開いた。片方にはナイフが握られ、遠目に顔を見ても分からない。しかし、もう片方は自分と同じグレーのブレザーに茶色のマフラー、その上見覚えのあるきりっとした顔立ちにコシのある黒髪とくれば、嫌でも誰か分かってしまった。どちらも体から血が流れていて、固定されたように動かない。又も込み上げてくる気持ち悪さに、足の力が抜けてへたり込んだ。

 十六時三十一分。

 広がる血溜まりは夕焼けと同化して、溶け込んでいった。










 微睡む中、栞の手は無意識に端末を探し出し、画面に指を滑らせる。ベッドの上に乗っているスマホが指し示す日付は、もう見ずとも分かっている。またこの二日間が始まることが怖いと思いながらも、抜け出すためには二人を助ける、それしか方法はない。そのために、乗り越えられない不安や助けられない自分への嫌悪、無念に押し潰されそうになろうとも、立ち向かうしかないのである。

 春樹が初めて違う死に方をした繰り返しから、もう、七、八回は過ぎただろうか。地べたに座り込んで動けなくなった栞を、側にいた皺をくしゃりと寄せた老人が、あの悲惨な現場が見えないところまで連れて行ってくれた。安心させるために微笑み、杖をつく彼は、何も言わない栞をただ見守ってくれた。

 家に帰って暫くすると、春樹のご両親が訪ねてきた。二人の両親は地元なのもあり、交流があった。栞の母親に支えられて泣き崩れる春樹の母親。顔を背けて苦い顔をする春樹の父親に、栞の父親が肩を叩いた。彼らが言うには、警察の話だと春樹の近くに倒れていたのが、世の中を騒がせていた通り魔だったそうだ。襲われた際に反撃した春樹が、その通り魔の持っていたナイフで殺してしまったのではないか、ということだった。不自然なところもあるらしかったが、正当防衛であることは確かだった。

 そして、栞は眠り、また戻ってきた。同じような状況を何度か繰り返したことで、栞が隼と祭りに行くと、必ず春樹が通り魔と接触することも掴めた。文化祭の準備に残ろうと引き留めても、目を細め、首を振られる。現場が神社付近とはいえ、場所が変わり、どれだけ追いかけても、振り切られる。まるで、栞の行動を知っているかのように。


「今回は、どうしようか」


 冷たい風を真正面から受けながら、自転車を漕ぐ。少なくとも、人殺しを楽しむような通り魔を相手にするより、二人の行動範囲を学校に狭めて割り入った方が勝算はある。だが、毎回と言っていいほど、現場が変わるのは防ぎようがない。本気で分身が欲しいと思うほどには厄介だ。できることなら、現場を一つに絞りたい。だからといってそのために、可能性のある場所を捨てて、一つの場所を張り込むのは違う気がする。技術室も、裏庭も、毎回場所が変わって、共通するものがない。


「可能性があるとすれば……教室、かな」


 栞が経験した中では、一度目以来現場になったことがない場所だ。通り魔のときのように、栞や春樹たちの特別な行動によって、惨劇の舞台が教室になるのだとすれば、可能性は十分にある。では一体、何をすれば教室になるのだろうか。

 昼休み、屋上で一人、コンクリートの冷たさを背中に感じながら、横になっている。雲一つない澄み切った青空を見つめた。あまりにも何もない真っさらで透明な青に、距離感が掴めず、手を伸ばせば届くような気がする。吸い込まれるようにゆっくりと手を伸ばしてみれば、当たり前に握りしめた手は何も掴まなかった。それどころか、雲の存在さえ知らないこの空は異質な肌色を拒絶している。


「助けられないって、言われてるみたい」


 ぱたりと落ちた腕がコンクリートの地面に容赦なく打ち付けられる。年月を感じさせる僅かな凹凸に刺すような痛みが走った。痛いのは、手か、心か。

 目を閉じて屋上に吹く風を感じる。学校に鳴り響いたチャイムは、昼休みが終わったことを告げていた。授業が始まっても栞は動こうとはしない。もはや授業を受ける気力が失せていた。弱っている彼女をビニール袋の上に置かれた、封の切られていないメロンパンが見守っていた。


「こんなとこにいたのかよ」


 がちゃりと音を立て、開いた扉から現れたのは、困った顔をして笑う春樹だった。栞自身、普段は授業をさぼることなどないに等しいが、春樹が抜け出しているのも珍しかった。いや、栞が知っている限り、一度もない。特別真面目ではないにしろ、オンオフの切り替えが上手い所が、先生たちからも気に入られる要因だ。教室に戻ろうとせず近づいてくる彼に体を起こす。


「どうしたの?」

「どうしたの、じゃないだろ? 堂々とさぼろうとしてる幼馴染を探しにきたんだよ」


 探してくれと頼んだ覚えはない、などと心の中で毒付きながら、自分の隣に座った春樹を見る。


「だからって篝がさぼっていい理由にはならないでしょ」

「俺は探しにきたからいいんだよ」


 理不尽な理由にあんぐりする。本当に大した理由もなく腹が立ったので、開けていなかったメロンパンを袋から半分取り出して、幼馴染みの口に突っ込んだ。春樹は突然口にした砂糖の甘さに顔を顰める。にやりと口角を上げる栞。彼女は春樹があまり砂糖の甘さが得意でないことを知っていた。ただし、あんパンは例外だ。


「それで、なんの用事? 探しにきたってことは何かあったんじゃないの?」


 仕方なしにもぐもぐとメロンパンを食べる春樹の肌は、隼と違って程よく焼けており、しっかりとした顔立ちと相まって彼の格好のよさを引き立てている。顔で文句を語りつつも、栞から奪い取って食べ続けるところが栞にはおかしかった。一度口をつけたなら食べきろうとするところは、昔と変わらないらしい。

 二人の関係で昔と変わったことがあるとすれば、呼び方だった。小学生のころ、名前で呼び合っているのを周りに揶揄われ、名字で呼ぶようになった。時が経つにつれ、変わることは色々とある。栞が知らないだけで、春樹が変わったところもあるだろう。彼に彼女ができたりすれば、もうこんな風にはいられなくなる。ちくりと胸が痛んだ理由に心当たりはなかった。


「何かって……俺まだ返事もらってないんだけど?」


 むすっとしながら横目で栞を見る春樹に、そういえば今回は誘いを断っていないことに気づいた。スマホを取り出してメッセージを確認すると、読んですらなかったようで、通知が付きっぱなしだ。静かに画面を消す。頭からすっかり抜けていた、なんて言えば、この不機嫌面が酷くなるのは目に見えていた。


「篝と祭りに行ったのは初めだけだったな……」


 体感時間で遠い昔のように感じる記憶が蘇る。あのときはこんな辛いループに巻き込まれるなど、考えもしなかった。ただ、幼馴染と祭りを楽しんで、こんな時間が続けばいいのにと、願っていた。

 栞の小さすぎる呟きは春樹には届かなかったようで、俯いた彼女を覗き込んだだけだった。栞はどうするか悩んだ。一度目以来、嫌になっていた祭りも、隼と何度か行ったことによって前ほどの嫌悪感はなかった。それでも、春樹と行ってしまえば、あの時の思い出を塗り替えてしまうような気がして、直ぐに首を縦に振ることはできなかった。

 悩んだ末、彼女が出した答えを紡ぐ。


「祭り、行くよ」


 栞は顔を上げて、篝の瞳に視線を重ねる。春樹は嫌味なく口元を弧に描いた。


「じゃあ七時に、神社の階段下で集合な」









 半分にかけた月が浮かび、星が瞬く夜。騒々しく人が行き交う音と微かに聞こえる神楽笛と太鼓の音が、歪なハーモニーを奏でている。神社の階段下で春樹を待つ栞は、奇しくも一度目と同じ服装でそこに立っていた。しかも、あのときと同じく、遅れている春樹を待っている。寒さでぶるりと震える体を時折摩りながら待つ自分は、学習していないようだ。

 栞はショルダーバッグからスマホを取り出すと、暇つぶしと言わんばかりに、シリコン製のカバーの猫耳をくにくにと触る。勝手についた画面の明かりが不意打ちで栞の目を直撃し、眩しさに瞼を閉じた。


「……遅いんだけど?」


 七時十二分と示すそれは、やはり(・・・)春樹からの連絡を受けとってはいない。なんとなく察していた展開に鬼電してやろうかと、こめかみに青筋を立てる。しかし、目の前を通る参拝者たちが幸せそうに階段を登っていくので、怒っている自分が馬鹿らしくなった。気を紛らわすため、いつか見た大学生くらいの女性と、その女性をエスコートする、見た目二十代半ばの男性を目で追う。男性のエスコートで歩いている二人が纏う、仲の良さを感じさせる雰囲気に、羨ましさを感じた。自分と春樹はあんな風に仲睦まじく見られたりするのだろうか。あんな風に二人で歩けたらいいのに。などといつのまにか考えてしまっていた。今まで感じたこともなかった気持ちの変化に戸惑う。彼女がその答えに辿り着くのはまだ先だった。

 ずっ、と砂利が擦れた音に、顔をあげる。腕を組んでじろりと睨んでみれば、目の前にきた春樹が顔の前で手を合わせて、謝ってきた。


「わり、遅れた」


 春樹は謝りながらも周りを気にしている節がある。前回と同じ台詞に、呆れて怒る気も失せてしまった。はいはい、と適当にあしらって、栞は春樹をおいて階段を上っていく。慌ててついてくる春樹に、ばれないように吹き出した。簡単に許してしまうあたり、幼馴染みには弱いのだ。

 階段を上り切ると、二人を出迎えたのは提灯に照らされた露店と人混みだった。何度来ても人混みに慣れることはない。引き返したくなる気持ちを抑えながら歩き出そうとすれば、春樹が左手で栞の右手をとった。


「離れんなよ」


 照れたように笑う春樹に栞は目を見開いた。何度も失ってしまった温もりが、今彼女の手にあって、彼が生きていることを改めて実感する。ふいに込み上げてくるものは、彼女の涙腺を崩壊させようとした。けれども、顔を振って耐えた。まだ泣くことはできない。彼女が泣く日がくるとするならば、それは全てが終わった後だと、初めての繰り返しのときも思ったはずだ。今度こそ、この温もりを消させはしないと、人混みを分けてゆっくりと進む春樹の手を握り返した。

 栞は春樹が買ってくれた綿菓子を片手に露店を回った。相変わらず消極的な楽しみ方をする春樹に、栞は射的をしてほしいだの、ヨーヨーが欲しいだの、おねだりをしながら楽しんでいた。やり始めれば夢中になるのか、あまりにも真剣に射的に向き合っている彼に、笑みが溢れる。口を結ぶ春樹も、自分は射的が下手だと自覚しているらしい。貰った弾を全て使い切っても、景品は一つも取れない。オールマイティな彼にしては稀だった。

 春樹は不貞腐れつつも、栞の手を自然に取り、歩き出した。二人の距離は手を繋いでいるとはいえ、僅かに開いている。栞がわざと詰めるように寄ると、少しだけ逃げられて、また同じ距離に戻ってしまった。名前すら呼べない幼馴染の関係。近いようで遠い距離は、なかなか縮まろうとはしない。恋仲になりたい、なんて考えたこともないが、この距離感を歯痒く感じるようになっていた。食べ終えた綿菓子の味が口に残って、皮肉にも甘かった。

 露店の道を抜けて二の鳥居を潜った。手水舎で手を清め、参拝客の列の後ろに並ぶ。離された栞の手が寂しくて、何度か春樹の左手を見つめてしまった。そんな彼女に気づきもしない春樹は、参拝者越しに見える、拝殿の中の小刀をじっと見据えている。


「神様って、本当に願い事、叶えてくれると思う?」


 かなり罰当たりなことを言っている自覚はあった。ただ、春樹の『剞刀』を見つめる目が、あまりにも何かに縋っているようで、よほど叶えたい願いがあるのではと、思わずにいられなかった。

 春樹が栞に視線を向ける。その顔は、栞に告白した隼とだぶって見えて、若干狼狽えてしまう。しかし、隼と違ったのは、そこに寂しさと切なさが含まれていたことだった。


「俺は叶えてくれると、信じてる」


 春樹の右手が栞の頭を捉えた。何気に身構えてしまったものの、壊れ物でも触るような優しい手つきに、全身の力が抜ける。人に撫でられることがこんなにも気持ちいいものだとは、栞は知らなかった。

 心地よさに身を任せていると、あっという間に参拝の順番が来た。目の前にした小刀は、あの時よりも光っているように見える。そう言っても、輝きが鈍いことに変わりはなかった。

 何度参拝しても作法を覚える気がないので、正しいことは分からない。隣に立つ春樹の真似をして瞼を伏せ、心の中で拝殿の刀と向き合った。春樹は叶うと信じていると言った。なら、栞も本気で祈るだけである。その願い事だけで頭の中を埋め尽くし、雑念の払拭を心がけ、強く願う。このループが終わらない限り、願い事が変わることはない。

――どうか、二人が十一月八日を生きて乗り越えられますように。

 先に目を開けた春樹が栞を見つめていたことに、彼女は気づかなかった。


 栞はその夜、夢を見た。

 それは部屋に飾ってある写真の、栞と春樹が幼い頃に祭りに行ったときの夢だった。両親が後ろで見守る中、二人は追いかけっこをして遊んでいる。紺色に麻の葉模様の浴衣を着て、栞の方を振り向きながら走る春樹と、白をベースにした紫の菖蒲模様の浴衣を着て、必死に追いかける栞は誰が見ても仲がいい。冬場に行われる祭りで風邪を引いては行けないと、中に厚手の肌着を着てはいるが、栞の方は少し寒そうだった。


「しおり、さむい?」


 足がおぼついて追いつけなくなった栞に気づき、立ち止まった春樹が彼女の小さい手を両手で握って擦る。温めようとしてくれているのだと、栞は鼻を赤くして笑った。


「だいじょうぶ! はるきがあっためてくれるから!」


 栞の満面の笑みは花が咲いたように可愛い。春樹はそんな彼女にみるみると顔を赤くさせた。居た堪れなくなって、そっぽを向く。人差し指で鼻を擦りながら、幼くも男の顔をした彼は言った。


「そーだよ。なにがあってもしおりのことはおれがまもるんだから。かみさまにおねがいしたんだから!」


 全身で温めるために、勢いで春樹が栞に抱きつく。きょとんとする栞にその様子を見ていた両親たちが、くすりと笑った。


「はいはい。でも風邪引くから二人とも上着を着なさい」


 両親がそれぞれに子供用のダウンコートを差し出す。栞から引き離された春樹はまだ顔を赤くさせたまま、口を尖らせていた――。


 十一月八日。

 朝を知らせる曲を聞く前に、栞は目を覚ました。今日はなぜか目覚めがよかった。夢を見ていたのに、体はしっかり眠れたのか、だるさを感じることも、瞼が落ちてくることもない。ベッドの中の温もりから離れることを惜しみつつ、足の裏に感じたフローリングの床の冷たさを受け入れる。そのまま本棚に近づくと、幼い日の幼馴染と自分が収められた写真立てを手に取り、柔らかく撫でた。


「そんな格好してたら寒くて当たり前だよ」


 夏用の祭りのために買った浴衣を気に入っていたせいで、冬の祭りにまで我儘を言い、着て行った自分と春樹を思い出す。あの後、熱を出して寝込んでいたことも思い出せた。夢を見たことで忘れていた記憶が蘇ったのだろう。

 かたっ、と音を立てて、写真立てを元の位置に戻す。スマホを手に取ると栞は学校へ向かう準備のため、自室の扉を開けた。その目はひたすら前だけを見据えていた。

 学校に着き、教室をさらりと見渡すと、窓際の席に座る楓が栞を見つけ、手を振ってきた。その前に座る春樹はいつかのように空を見上げている。彼の視線の先にある色が赤く変わるとき、この教室が惨劇の舞台になる。しかし、今までとは違い、彼らを失うかもしれないという恐れはなかった。絶対に助けよう。常々誓ってきた思いが、今回はより一層強いからかもしれない。楓に挨拶をして席に座る。彼女の話を聞きながら、放課後に想いを馳せた。

 心の持ちようが違うからなのか、あれほど食べられなくなっていたメロンパンが今日はすんなりと食べられた。昼休み、購買で売り切れ寸前の最後の一個を無事に勝ち取り、久々の美味しさを噛み締める。口の中の甘さが彼女の脳へと栄養を送り、活発にさせていく。


「幸せそうに食べるね、ほんと」


 いつも同じもの食べてるね、と言外に言う楓の言葉にも嫌な顔をせず、栞は口元を綻ばせて黙々とメロンパンを食べた。

 そしてついに、放課後はやってきた。終礼が終わると文化祭準備に残らない人たちは次々と教室から出ていく。楓が帰った後、席から後ろを振り返れば、イヤホンをして音楽を聴く隼がちゃんといる。春樹は文化祭委員や普段から連んでいる友達と何やら話し込んでいる。それが終わったかと思えば、固まっていた女子たちに声をかけてまた話し込んでいた。

 終わった頃に、春樹が栞の視線に気づいて近づいてきた。これも何度も経験したことなので、予定通りだ。


「残るん、だよな?」

「え? う、うん」


 かけられた言葉も何度となく聞いた言葉と相違なかった。にも拘らず、真剣な目をして聞いてくる春樹に、栞は上手く言葉が出なくなる。彼は栞の応えを聞いて満足したのか、背を向けて女子たちに声をかけた。(こいつ)もよろしく、ということらしい。大して話したこともない女子二人が栞に寄ってきて、彼女の手を取り、逃げられないよう、引っ張ろうとする。栞は春樹が後ろから軽く投げてきた彼女のリュックを片手で受け取り、そのまま女子たちに連れ去られていく。こんなに強引にされたことは高校に入って一度もなかった。引っ張っている女子たちはどこか嬉しそうなので、春樹が何か言ったのだろう。昨日収めたはずの青筋が立ちそうだ。嫌味でも言ってやろうと教室から出る際に振り返ると、歩き出そうとした隼を止めている春樹が見えた。これは、あの時と同じだ。そうは気づいても、栞の話を一向に聞いてくれない女子たちになす術もなく、ずるずると連れて行かれるのだった。

 買い出し班になってしまったのはもう仕方がないと諦めることにして、その代わり早々に抜けてやろうと決意した。幾度の繰り返しで、ある程度はリストの内容も頭に入っている。ホームセンターの中も把握しているので、必要なものを見つけては、ぽいぽいとカートの中に入れていった。おそらく、過去最短時間で全てを入れ終わっただろう。用事を終え、栞は帰ろうとみんなに声をかける。だが、誰一人栞の声に反応する者はいない。男子も女子も楽しくお喋りしている。彼らに時間はあっても、栞にはない。自分が持てるだけの荷物、それも早く学校に戻るため、出来るだけ少なめに荷物を持って、先に帰ることを伝えた。

 最初は早歩きだった足が、今は駆け足に変わっていた。時刻は十六時十八分。タイムリミットまでぎりぎりといったところか。背負うリュックも、両手に持つ荷物も邪魔でしかなく、道端に捨てていきたくなる。そんなことをすれば文化祭委員と先生に怒られそうなので、致し方なく持ち直す。見えてきた学校に自然と足のスピードが上がった。

 学校に辿り着き、転げ落ちそうになりながらも、階段を思いっきり駆け上がる。まだ悲鳴は聞こえてこない。静かに事が起きていることも考えつつ、向かうのは教室。確証などまるでないのに、今回はそこだと心が叫んでいた。廊下を一目散に駆け抜け、栞は自分の教室の前で立ち止まる。それまで大事に持って帰ってきた荷物を無造作に置き、息を落ち着かせる暇もなく、扉に手をかけ、開いた。

 間に合わなかった。そんなことは認めない。もう二人のあんな姿を見たくはない。そんな切実な思いが届いたのか、息を吐いた彼女が見たのは、夕焼けに染まる教室の中で立っている、春樹と隼の姿だった。


「……え?」


 二人が生きていることに安堵したのも束の間、目に入ってきた光景は想像とは異なっていた。春樹がカッターナイフを持っているのではなく、隼がそれを持っている。

 扉を開く音に反応したのか、それとも栞の声に反応したのか。春樹の目が栞を捉えると、瞠目した。


「お前、なんで……!」


 春樹が驚いた理由を考える暇などなかった。その奥にいる隼が栞を見つけて、ほくそ笑む。人とは思えないその笑みに、栞は背筋が凍った。

 春樹の視界の端で隼がカッターナイフを持って動き出す。栞が視線を下ろすと、彼が持っているそれが夕焼けに反射して怪しく光った。隼は春樹を押しのけて、真っ直ぐに栞の方へと向かってくる。その光景に、栞は既視感があった。

 栞には全てはスローモーションに見えた。動かなければ刺されることは容易に想像できるのに、彼女の足は床に張り付いて動いてくれそうになかった。避けなければ。刺されて動かなくなってしまえば、それこそ春樹を止めることもできなくなる。五秒にも満たない間に、どれだけ言い聞かせても、彼女の体は皮肉にも動かなかった。

 隼の狂気じみた笑みが目前に迫る。襲ってくるであろう衝撃に思わず目を閉じた。

 けれども、いつまで経っても痛みは襲ってはこない。それどころか、感じたのは温もりで。栞は恐る恐る目を開けた。


「篝……!!」


 目の前に広がったのは顔を歪める春樹の顔。栞の背中に回されている手に、力が入っている。ぐらりと揺れた春樹の体を支えようと、背中に手を回せば、濡れている場所があることに気づく。べとりと張り付くその正体を確認すると、栞の手はあの時と同じように血塗られていた。


「いっ、てぇ……」


 春樹の背中にはカッターナイフが刺さったままになっている。咄嗟に抜きそうになるが、踏み止まる。抜けば出血が酷くなるとテレビで前に言っていた。春樹が助かる可能性が僅かでも上がるのなら、出来ることはしたかった。

 ゆっくりと床に尻餅をつき、力が抜けていく春樹を支える。彼の肩越しに見えた隼は放心していた。先程まで憑き物がついたように笑っていたのに、今は別人だ。人を刺したことに気づいた彼は、一度目に見た、人を殺したことに気づいた春樹と同じ状態だった。廊下の端で、買い出しに行っていたクラスメイトや、他の教室に行っていた看板班たちがばたばたと駆け寄ってくる。荷物を大きな音を立てて落とした女子生徒が、急いでスマホを取り出し、救急車と警察を呼んだ。通り過ぎて行った何人かは、先生を呼びに行ったのだろう。間もなくして到着した男性教員に、隼は取り押さえられた。

 栞は救急車を待つ間、息が荒くなる春樹をしっかりと抱きしめる。教室の時計が指し示す時間は十六時三十一分。紅の世界で、二つのサイレンが次第に大きくなるのを、鼓膜の遠くの方で聞いていた。


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