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第一章 彼女の始まり

 どす黒さを帯びた茜色の夕暮れが窓の外を染め上げ、見慣れた教室の中までも侵食している。不自然に端に寄せられた机は、床のスペースを取るためのものらしい。正方形の木目調のタイルが敷き詰められた床にはブルーシートがあり、その上にペンキや塗りかけの木の板が置かれている。緑色の黒板の右端を見れば『十一月八日』と達筆な字で書かれていて、その様子を第三者として教室の隅から見ていた坂城栞さかきしおりは、この場所が自分の通う学校で、文化祭前の時期なのだと気づいた。

 そんな教室の真ん中で、向き合っている生徒が二人。その二人が誰なのか、男なのか、女なのかすら判別はできない。周りの状況は鮮明に栞の目に映っているというのに、生徒はぼやけてしまって、視点を合わせようと目を擦ってみても、治りはしなかった。ただ、頭の中で、この二人が自分の知るクラスメイトだということは理解できた。それが誰だかは、結局分からなかったが。

 彼女が生徒二人を見ていると、何かを話していることが分かる。しかし、その声を聞き取ることはできなかった。彼女が二人に声をかけても反応はなく、生徒二人もまた、彼女には気付いていない。

 自身が置かれている状況をなんとなく察したとき、黒板側に立つ生徒がもう一人の生徒へと近づいた。と思いきや、もう一人の生徒から距離を保つように一歩下がる。近づかれた生徒は数秒その場で呆然とし、終いにはふらりと後退り、その場で尻餅をついて仰向けに倒れた。何事かと咄嗟に距離を詰めようとした栞だったが、行く先とは真逆に引っ張られるような感覚が襲う。夢から覚める、そう思ったときには先程までの景色は消えていた。彼女の脳裏に残ったのは、立っていた生徒の手にある、鮮やかな赤で血塗られた大きなカッターナイフだった。






 窓が締め切られた部屋に、遮光カーテンで遮きれなかった晴れやかな朝日が差す。ベッドの上の栞は、朦朧とする意識の中、微かに聞こえる音を捉えた。その音はどんどんと大きくなり、彼女の鼓膜を震わせている。音の出所を知るべく、薄らと瞼を開くと、明るさに慣れていない瞳が焼けるような痛みを感じた。数回瞬きをすると慣れてくる。うつ伏せに寝る癖がある彼女は、下敷きになった右頬に微妙な痺れを感じた。

 彼女の安眠を邪魔した音は、毎朝、彼女自身を起こすために鳴り響くJPOPで、お気に入りのアイドルグループが歌う曲だった。布団にうつ伏せになりながら、手探りで枕元にあるはずの音の出所を探す。布団から半分顔を出していたスマホに右手が触れると、彼女は画面も見ずにボタンを押し、慣れた操作で音を止めた。

 顔を枕に埋め、時が止まったように彼女は動かなくなる。嫌な夢を見た、と夢の内容を覚えていないながらも、もやもやとした感覚にそう思った。朝から不快な思いをしたためか、今日はすんなり起きようと言う気にならない。普段は目覚めがいい方なのもあり、布団から出たくないと思うのは珍しいことだった。しかし、いつまでもこうしているわけにはいかない。学校がある以上、起きるしかないのだから。

 彼女はむくりと起き上がり、ベッドから降りる。漫画ばかりが敷き詰められた本棚には、彼女の目線に合わせて一角だけ写真が置いてあり、そこには浴衣を着た幼い少年と少女が写っていた。少年は幼いながらも、短髪の黒髪に端正な顔立ちをしていて、笑顔がよく似合っている。少女は切りすぎた艶のある茶髪の前髪を恥ずかしそう抑えながら、はにかんでいた。紺色に麻の葉模様の浴衣は少年を格好良く見せ、白をベースにした、紫の菖蒲模様の少女の浴衣は、可愛らしさと大人っぽさを少女に与えていた。

 写真を横目で流した栞はスマホを持ち、パジャマ代わりの白のオーバーシャツのまま、部屋の開き戸の隣に立てかけてある、姿見の前に立つ。先程の写真に写っていた少女の十数年後がそこにあった。茶髪であることは変わらないものの、七三分けの前髪は伸びており、若干目にかかるぐらいの長さになっている。後味の悪い夢を見たせいか、鏡の中の栞の顔は疲れており、右頬には枕の跡があった。その跡をぐにぐにと触ってみても、その線は消えそうにない。そのうち消えるだろうと、諦めてスマホのロック画面を光らせれば、写真に写っていた幼馴染みからメッセージが届いていた。


『暇なら明日の祭りに行かね?』


このメッセージが届いたのは昨日栞が寝た後のようで、内容は今夜の祭りの誘いだった。とりあえず、返事は保留にして部屋から出る。顔を洗って、歯を磨いて、ご飯食べて……と頭でぼーっと考えつつ、彼女は家の階段を降りたのだった。

 一時間後、ワイシャツにネクタイをつけ、灰色のブレザーを着た栞は、肩が痛くならない黒のリュックを背負った。母親のいってらっしゃいを適当に流しつつ、家を出る。ブラウンを主とした自転車に跨り、少し騒がしい街並みを十五分ほど走れば高校に着いた。行く途中で古くからある神社の前を通ると、その近辺では今日の祭りのための露店が並び始めている。地元の人達が露店を設置しながら談笑していた。

 無事に学校に着いた栞は校門に立つ先生に軽い挨拶をする。敷地内は降りろと言われる前に自転車を降りて、駐輪場まで歩くと、適当に置かれたそれらを綺麗に並べ直している男子を見つけた。癖のあるクリーム色の髪の毛をマッシュスタイルに整えている彼、日下部隼くさかべしゅんは、栞のクラスメイトだった。肌は白く、首元につけた黒のスヌードのせいもあり、白さが際立っている。身長もそこそこ高く、すらりとした体格にブレザーが似合っていた。栞が声をかけようと自転車を移動させつつ近づくと、先に向こうが気付いて手を振られる。栞が振り返すと、彼は儚げな顔でふわりと微笑んだ。


「坂城さん、おはよう。ここ空いてるよ」


 隼が自転車を寄せていた場所に一台分のスペースが出来ている。周辺を見渡せば詰め詰めに自転車が並べられており、置けそうな場所はここしかなかった。彼女は隼の好意に甘えて、その隙間に止めることにした。


「おはよう、日下部くん。今日、自転車当番なの?」


 少し寒そうに手を擦る彼に、栞は疑問をぶつけた。この駿河高校には遅刻者に課せられる罰として自転車当番がある。五回以上遅刻した生徒には罰として朝から自転車整理をしなければならないというルールだった。恥ずかしそうに頬を掻く彼は栞の質問に頷きで応えた。


「五日間やれば解放されるからいいんだけど、この季節はちょっと寒いんだよね」

「一気に冷えたもんね〜、風邪引かないようにね」

「ありがとう、坂城さんもね」


 嬉しそうに微笑む隼は、とても絵になっていた。他の女子であれば黄色い声を発していたことだろう。その点、栞には耐性があった。彼女の幼馴染みも顔が整っていて、俗に言うイケメンの部類に入る。幼馴染で慣れてしまっていた彼女は、元々顔に興味がないこともあり、笑顔を張り付けるだけであった。

 隼について去年から知っている栞は、こういった女子を腑抜けにしそうな顔を、彼が他の人に向けているのは見たことがなかった。むしろ彼は、人との関わりを避けている節がある。以前、他の人とも関わればいいのにと図書室で本を読んでいる彼に話しかけたら、人見知りだからと言われたことがあった。そもそもの出会いも図書室に籠もりっきりの隼に声をかけたのが始まりだったので、彼が交友関係を広げようとしないのは仕方のないことなのかもしれない。栞も人と関わることが億劫だと思うタイプだったため、強制はしなかった。それでも、幼馴染みを見ていて、容姿は交流の武器になると知っていた彼女は、やはりもったいない気がした。

 そんな隼の肩越しに黒髪が見えた。栞が知るクラスメイトだけでなく、他クラスの生徒からも声をかけられているあたり、彼女がよく知る幼馴染みで間違いない。隼とは違う、男らしくも爽やかな笑顔を振りまく彼は、男友達に肩を組まれてそのまま校舎に近づいていく。ふと、こちらを向いて栞を見つけた彼が、口ぱくでおはようと言ってきたので、栞は頷きで返しておいた。


「あ、そうだ」


 思い出したような隼の声で一気に意識が彼に向いた。


「どうしたの?」

「今日って確か、ここの地域でお祭りがあるんだよね」


 地元がここではない彼が季節外れの祭りのことを知っていて栞はやや驚いた。だが、よくよく考えればこの学校に通ってもう三年目になり、高校の掲示板にも祭りのポスターが貼り付けられていたりして、知っていても不思議ではなかった。


「うん、ほうき祭のことだね。昔からあるお祭りだよ」

「あ、そっか。坂城さんはここが地元なんだよね」

「そうそう。高校は家から近いところを選んだからね」


 彼女の高校選びは単に通学に時間をかけたくなかっただけ、と褒められた理由ではない。ただ、そのおかげで朝もゆっくりできて、放課後も好きに時間を作ることができていた。特に不自由はしていないので、高校をここに選んだのは後悔していない。


「俺ここの祭り行ったことなくて、行ってみたいんだよね」

「そうなの? 他の祭りに比べたら季節外れなこと以外、特に何もないと思うけど……」


 何かお勧めできるものはあっただろうか、と今までの祭りの記憶を遡ってみる。最後にちゃんと祭りに参加したのは、部屋に飾ってある写真を撮ったときが最後だった。正直、これといって何も思いつかない。

 栞が腕を組んで頭を捻らせていると、そんな彼女に困ったように苦笑しながら隼が言った。


「もしよかったら、なんだけど、一緒に行かない?」


 まさか祭りに誘われると思っていなかった栞は、腕を組んだまま瞼をぱちぱちとさせた。何故自分なのだろうか、と考えはしたが、彼の顔を凝視しても答えてくれそうにない。疑問を口にしていないのだから当たり前だった。

 頭の中で誘われそうな理由を考えてみる。すると、栞はその答えを導くよりも先に、『祭り』という単語に関連づけられて、自身が他にも誘われていたことを思い出した。


「あー……ごめんなさい。実は他にも誘われてて……」


 申し訳なさそうに謝る栞に、落胆の色を隠して隼は優しく話しかけた。


「気にしないで。当日に誘ったらそういうこともあるよね」

「ほんとにごめんね」

「俺も予定が合えばと思っただけだから。実はバイトに入ってって言われてて、どうしようか悩んでたし、気にしなくていいよ」


 何もかもを受け止めてしまうその微笑みに、栞はそれ以上、何も言えなかった。謝ることを許してはくれない微笑みであった。

 校門の方から生徒指導の先生の隼を呼ぶ声が聞こえる。立ち話をしていたことがばれたのかもしれない。これ以上迷惑をかけて怒られる前に、また後でね、と声をかけ、栞は駐輪場を後にする。誘いを断ったことは申し訳ないと思いつつ、気にしなくていいと言われたので、忘れることにした。

 お昼休み。栞はコンクリート剥き出しの屋上に来ていた。最近は危険だからと、屋上の扉に鍵をかけている学校も多いらしいが、彼女が通う高校はフェンスを高めに作ってあるからか、鍵はかけられていない。購買で買ったメロンパンを、澄み切った青空の下で食べるのが栞は好きだった。

 今日はいつもお昼を食べている友達がいない。外はスヌードをつけないとやはり寒いが、雲ひとつない空が気持ち良くて教室に戻る気にはならなかった。端の方にちょこんと正座を崩して座り、フェンスに凭れ掛かりながらメロンパンの封を開けて、一口頬張る。出来立てではないが、外側がさくっとしていて、丁度いい甘さが口の中を支配する。中のふんわり感もなかなかの厚みがあって、その旨さに病みつきになり、週に三回は食べるほどの好物になっていた。

 あっという間に一つ目を食べ終わった。最後の一口を頬張るとき、どんな食べ物もこれで最後なのかと虚しくなる。二つ目のメロンパンを取り出して今度はすぐに無くならないよう、一口一口大切に食べていく。どうせまた明日買うだろうに、今日の分も噛み締めて食べる栞だった。

 その様子を扉の方から眺めている男子生徒が一人。栞はメロンパンに集中しすぎていて、その男子生徒には気付いていない。彼は暫く栞をじっと見ていたが、気付く様子がない彼女に肩をすくめて、近づいた。


「坂城、またメロンパン食ってんの?」


 聴き慣れた声に栞がふっと顔を上げると、そこには大きな瞳を細めて笑む幼馴染みがいた。

 彼は篝春樹かがりはるき。栞とは幼馴染で、両親の仲が良いのもあり、なにかと一緒に育ってきた。小、中、高と一緒で、挙句に今はクラスまで一緒だった。昔から春樹は何かと栞を気にかけ、こうして声をかけてくる。


「美味しいからいいでしょ。何食べてようと私の勝手」

「別にいいけど、他にも色々売ってんだから、他のも買えよな。栄養偏るぞ」


 そう言って春樹は栞の隣に腰掛け、胡座をかいて持っていたビニール袋を目の前においた。彼はビニール袋の中からパンと牛乳パックを取り出し、袋を開ける。開けられたときに香ったソースの匂いに、栞は春樹の方を見ずとも、それが焼きそばパンだと分かった。

 彼らが通うこの高校には様々な種類のパンが揃っている。メロンパン、焼きそばパン、あんパン、野菜多めのサンドウィッチ、ピザパン……などなど、パンの種類だけでもラインナップが豊富だった。中でも焼きそばパンはその味付けの旨さから、昼休みになると焼きそばパン専用の行列ができるほどだった。


「よく買えたね、それ」


 栞が残り半分になったメロンパンを、さらに大事に口に含む。焼きそばパン争奪戦が過酷なことを彼女も知っていた。


「友達が買ってきてくれた」


 自分は並んでない、と言う春樹に、クラスの人気者はそんな友達もいていいねぇ、と栞は心の中でごちる。

 栞から見て、春樹は常にグループの輪の中にいるような人間だった。明るく誰にでも話しかけて、無遠慮ではなく、気遣いが出来る。その性格からか、人が自然と集まってきて、いつのまにか中心にいる人だった。春樹と話していて嫌な顔をする人を、栞は見たことがない。何かと彼女を気にかけるのも、その性格の現れなのだろう。


「坂城ってメロンパン好きだったっけ。昔はそんなに食べてなかっただろ?」


 大きい口で焼きそばパンを食べ終えた春樹が、栞に問う。栞はメロンパンの最後の一口を心惜しそうに見つめていた。


「んー、メロンパン自体は普通。ここの購買のが好きなだけ。日下部くんに教えてもらって食べたらすっごい美味しかったから」

「あいつか……」


 春樹は隼の名前を聞くと、若干口を尖らせ、苦い顔をした。彼は栞が隼の名前を出すとき、時折口を尖らせる。彼女が春樹にそれを指摘しても、なんでもないと言うばかりだ。本人がそう言うので、栞はその顔を見ると、なおさら不思議そうに首を傾げていた。

 しかし、今日は初めて苦い顔をした。横目で見ていれば、何か思い詰めているように見える。いつもとは違う感情がそこにはありそうだった。

 春樹が、牛乳を半分まで飲み干す。ごくり、と音が聞こえると同時に、男らしく成長した春樹の喉仏が動いた。


「で、篝はなんで屋上に?」


 辛そうな、苦い顔を見兼ねた栞が、話を変える為にここにきた理由を尋ねた。普段二人でお昼を食べることはあまりない。栞も友達がいて、春樹も教室で友達に囲まれながら食べることが多いからだ。

 栞が春樹に言葉を投げると、彼はビニール袋からあんパンを取り出して呆れた顔で彼女を見た。


「坂城がメッセージ返さないからだろ。どうするのか直接聞きにきたんだっての」


 メッセージ……と言われて、何か忘れていると、ぼんやり考えていた栞の頭がすっきりした。それは朝方に確認した春樹からのメッセージ。祭りに行くかどうかと言う内容だった。後で返せばいい、と思って放置してしまうのは間々ある。誤魔化すように、あは、と笑ってみせれば、春樹に深いため息をつかれた。


「んで、行くか?」

「うん、行くよ。そのために日下部くんの誘いも断ったし」


 隼の名前を出したことに、しまった、と反射的に感じた栞だったが、ちらりと盗み見た春樹の顔に、先ほどのような大きな変化はなかった。

 安堵して、未だに持っていたメロンパンを名残惜しそうに口に含み、その美味しさを深く噛みしめる。栞のその何気ない言葉に、春樹が一瞬、軽く目を見開いて、微妙に口元を綻ばせていたことを、栞は気づかなかった。


「了解。じゃあ、七時に神社の階段下で集合な」


 春樹が残りの牛乳を一気に飲み干す。食べ終わったパンの袋と折りたたんだ牛乳バックをビニール袋に入れて、そのままの体勢から立ち上がった。栞が出したゴミもビニール袋に入れていたので、一緒に捨ててくれるらしい。一度栞の方に振り向き、忘れるなよ、と釘を刺すと、扉の方に歩いていく。その後ろ姿は心なしか嬉しそうだった。

 ぼーっと春樹の後ろ姿を見届けた栞は、ぱたん、と閉まった扉に現実に引き戻される。スマホを制服のポケットから取り出して時間を見れば、もう昼休みが終わる時間帯だった。


「おいてかなくてもいいのに」


 自分以外誰もいない屋上に独り言がぽつりと零れる。栞も立ち上がってスカートを叩き、殆ど飲まなかった紅茶のペットボトルを持って屋上の扉を開けた。


 半分にかけた月が浮かび、星が瞬く夜。騒々しく人が行き交う音と微かに聞こえる神楽笛と太鼓の音が、歪なハーモニーを奏でている。栞は春樹との約束通り、目の前を通り過ぎていく人々を、何人も目で追いかけながら、神社の階段下で待っていた。裏起毛の黒いパーカーのファスナーを上げきり、ブラウンの髪の毛を巻き込んだ白のスヌードに顔を埋める。この季節、夜はかなり冷えるようになり、本格的な冬の到来を感じさせた。もう少し厚着をしてくればよかったかもしれない、と若干後悔する。紺色のスキニージーンズの生地が厚めなのがせめてもの救いだった。

 階段を真ん中に挟んで左右に伸びた道に露店が並ぶ。活気溢れた光の道は神様の通り道のようだった。対して、栞がいるその場所は灯篭のぼんやりとした灯りしかない。参拝客の邪魔にならないよう、階段の入り口周辺、数メートルは露店を置けない決まりになっている。その代わり、毎年祭りの定番商品を扱う少数の露店が、一の鳥居の向こうにある階段の上の参道に沿って出店することを許されていた。下に並ぶ露店は基本的に夜までお祭り騒ぎを楽しみたい人たちが集まり、上は参拝客向けだった。

 栞は肩にかけたショルダーバッグから、猫の形をしたカバー付きのスマホを取り出す。画面を上に向けると、勝手に液晶が灯る。露店の煌びやかな世界から隔離された暗がりのこの場所では、スマホの明るさすら栞に安心感を与えた。


「遅い」


 七時十二分と示すそれは、春樹からの連絡を受けとってはいなかった。栞が行き交う人々に目を向けていたのは、待ち合わせ時間になっても現れない春樹を探していたからだ。万が一、すれ違いにならないよう、待ち合わせ場所からは動かずにいる。連絡をすればいい話だが、誘ってきたのが春樹であること、遅れているのもまた、春樹であることに、自分から連絡するのはなんとなく癪だった。栞も誘いに対しての返事を忘れていたから、お互い様であることは、分かっていても。


「着物、綺麗だなぁ」


 遅れている春樹に苛立ちを感じながらも、せっかくの祭りだからと、気を紛らわせるために目の前を通った大学生くらいの女性と、その女性をエスコートする、見た目二十代半ばの男性の服装を観察する。暗いせいで色の差異があまり分からなくても、二人の着物を着こなしが大人の色気を漂わせる。女性の方は慣れていないのか、男性のエスコートに甘んじていて、それが更に二人の仲の良さを感じさせた。時期外れの『奉剞祭ほうきさい』には、浴衣の代わりに着物を着てくる人が多く、階段を上って行く参拝客の半分くらいは着物を着ている。どんな人でも和装であれば、大抵は立ち振る舞いが綺麗に見えるのだから不思議だ。栞は、着物の方が可愛らしく見えただろうか、と自分のスニーカーの爪先を見た。

 ずっ、と砂利が擦れた音がする。爪先の先に、視界に入りこんだ有名メーカーのスニーカーに驚いて視線をあげると、露店の明かりに僅かに反射した、春樹の端正な笑顔があった。


「お待たせ、上行くか」


 謝りもせずに歩き出そうとする春樹に苛立ちが募り、手首を掴んで引き止める。栞は何も言わずに目を細め、睨みつけるだけだった。首を傾げて栞の顔を見つめる春樹は、栞の言わんとしていることを察し、苦笑いを浮かべる。


「わり、遅れた」

「それを先に言いなさいっての」


 ぱっと手を離し春樹の腕を解放する。春樹を横切ってさっさと階段を上がっていく栞に、春樹は黙って後ろをついて行った。

 五十段ほどある階段を上りながら、栞はちらりと後ろの春樹の様子を伺い、彼のラフな私服姿に安堵する。輪になった茶色のマフラーを軽く首に巻き付け、黒のジャケットを纏い、ベージュのチノパンを履いている。先程、着物で来た方が良かったかと思ったのは、何も可愛さを求めただけではない。春樹が着物で来た場合、カジュアルな私服で隣に立つのは些か不釣り合いな気がしていたからだ。女性が着物で男性が私服ならまだしも、逆となるとなんとなく違和感があった。春樹の着物姿を見られなかったのは残念だが、浮かなかっただけましだろう。


「すげー、今年は人が多いなー」


 階段を上り切り、一の鳥居を抜けた先には、露店の道が並んでいた。下と同様の賑わいに、春樹が感嘆の声を上げる。所狭しと、敷き詰められたような客の多さに、参拝しに行くのが大変だと小さくため息が漏れる。栞はどうにも人が多いところは苦手だった。

 そんな彼女のため息に気づいたのか気付いていないのか、春樹が彼女の方に振り向いて暫く止まった。栞が不可解な彼に口を開こうとしたとき、彼は右手で栞の左手をとって、歩き出した。


「離れんなよ」


 ぽそっと呟かれた言葉が、しっかりと栞の耳に届く。栞は幼い頃とは違い、成長を感じさせる低音に、目を見開いた。自分の幼馴染みはこんなにも大人っぽかっただろうか。学校も同じで、顔もよく合わせる方で、年齢に伴う変化はあるが、ここまで顕著に幼馴染みの中の男を感じることはなかった。手を握られたことがないわけではないのに、今日は妙に重なる場所が熱を持つ。

 そっぽを向いてしまった春樹の顔は栞からは伺うことはできない。同時に、春樹も、彼女が俯き、顔を赤く染めているとは知る由もなかった。

 人混みに押されながらゆっくりと道を進んでいく。金魚掬い、射的、ヨーヨー釣り。子供たちが夢中になっている様子を横目で見ていれば、二人にも雰囲気を楽しむ余裕が出来る。春樹はそう言った遊びにはあまり興味がないらしく、微笑ましく目を細めるだけで、足を止めることはなかった。栞が気になった露店を指させば近づき、彼女が楽しんでいる様子を時折声をかけながら眺めている。唯一、自分から近づいたのは、栞が小さい頃から好きだった綿菓子の露店だけ。金魚掬いで一匹しか掬えなかった栞に、慰めの気持ちを込めて、さりげなく奢ってくれた。

 栞は割り箸に絡まる綿菓子をはむっと口に含むと、未だ手を繋ぐ春樹の横顔を見上げた。鼻は高く、目もきつくなく、唇は薄いが形は綺麗だった。幼少期のふっくらとした頬は無くなっていて、見慣れているはずなのに、初めて見たような感覚に陥る。並ぶと分かる身長差に、これだけ腰の位置が違えば歩幅がずれるだろうことに気づいた。恐らく、春樹が合わせてくれているのだろう。栞は綿菓子の甘さを噛み締めた。

 栞が買ってもらった綿菓子を食べ終えた頃、二人は露店の並びを抜けて、古びた二の鳥居を越えた先の、大きな拝殿が聳える境内に出た。手前に手水舎があり、参拝客たちはここで手を清めている。近くにあったゴミ箱に割り箸を捨て、手水舎の前で一礼をした春樹に倣った。なんせ、ちゃんとお参りに来たのが何年も前のことで、礼儀などあまり覚えていない。とりあえず春樹に従えば大丈夫だろうと、離れてしまった手に名残惜しさを感じながら、柄杓で掬った水で手と口を清めた。周りでまともにしていたのは彼ぐらいだった。

 参道にできた参拝の行列に近寄れば、由来が書かれている看板を見つけた。


「ここができたのって、元々いたこの地域の守神に、感謝の気持ちとして社と刀を送ったのが始まりらしい」

「へー、そうなんだ」

「腕の立つ鍛治職人が作った名刀らしいけど、名前聞いてもあんまりわかんねぇよな」


 刀の名前は『剞刀きとう』だと看板には記されていた。その名前がどういう意味を指すのかは書かれておらず、この神社の御神体として祀られていることは書かれていた。この祭り自体も神様に感謝の気持ちを伝えるためのものであるらしく、普段は本殿にある刀も、その由来があって祭りのときは拝殿に移動されるという。遠目から拝殿を見れば開かれていて、参拝客の行列の先に、それはあるようだった。

 行列に並び、彼女たちの順番がそろそろ来るという頃。前に並ぶ客たちの頭越しに見えたのは、開かれた拝殿の中の刀だった。その刀は栞の想像していたものとは違い、侍が持つような反った長い刀ではなく、蛇のようにぐねりと曲がる小刀だった。


「あれは……刀の役割を果たせるのかな」


 素直な疑問が栞の口から飛び出る。その隣でチノパンのポケットに手を突っ込んだ春樹が、苦笑した。


「あれで人を切れるかって言われたら無理だろうけど、そもそもそういう意図はないのかもな」

「どういうこと?」

「曲がってるってこと自体に意味があるかもしれないだろ。御神体として祀られるってことは、その神様を象徴してるのと同じなんだからさ」


 頭の中で上手く処理が出来なかった言葉が、左から右へと流れていく。春樹の言葉が、なんとなく分かるようで、分からなかった。春樹も納得できていない栞の様子を見て、分からなければそれでいいと、頭をぽんぽんと撫でる。同い年の、それも幼馴染に子ども扱いされて不機嫌になったものの、参拝の順番が来てしまい、慌てて拝殿の前に立った。

 目の前にした小刀は毎日手入れをされているのか、光っていた。とは言っても、作られてからかなりの年月が経っていることもあり、その輝きは鈍い。

 手水舎の時と同様に作法をあまり知らない栞は、お辞儀をした春樹の行動を真似する。賽銭を入れ、ぶら下がった鈴を二人で鳴らし、手を合わせた。左を見れば春樹も目を瞑って手を合わせている。近寄り難い雰囲気に、真剣に何かをお願いしているようだった。

 気を取り直し、栞も拝殿の刀と向き合う。日頃、この地域を守ってくれている神様へのお礼を心の中で呟いて、願い事は何にしようかと考えた。やはり、神社に来た限り、何か願い事をするのが普通だろう。受験が終わっても近々文化祭がある。その成功を望むのもいいかもしれない。

 そんなことを考えながら、頭にあるのは今日一日のことだった。付かず離れずな幼馴染みと祭りを楽しんで、幼い頃に戻ったような気がした。昔は何を望んだのだろう。あの時の自分が何をお願いしたかは思い出せなかったが、今は望むことは決まっている。

 出来るだけその願い事だけに頭を集中させて、雑念を拭い去り、強く念じた。

――どうか、これからも変わらず、春樹の側にいられますように。


 十一月八日。

 栞が昨日と同じように自転車に跨り登校すると、昨日並んでいた露店は殆ど撤去されていた。所々露店用のテントが残っているものの、昨日の賑わいが嘘かのように静まり返っている。祭りが終わればこんなもんか、と彼女は自転車を走らせた。

 学校に着けば、昨日と同様に、駐輪場に隼がいた。クリーム色の髪の毛をした後ろ姿を許されているのは、この学校で彼しかいない。彼女が以前聞いた話では、隼の母親は海外の人だそうで、その派手と言われてしまう髪の毛も遺伝だそうだ。


「あ、おはよう、日下部くん」

「あ……おはよう、坂城さん」


 昨日の明るい笑顔とは違い、振り向いた彼の顔は一瞬曇っていた。直ぐになんでもないように取り繕われたが、いつもと違う様子の彼に栞は違和感があった。かと言って、下手に突っ込んで嫌な思いをさせても意味がない。気にはなったが、朝から駐輪場の整理をして機嫌が良くないだけかもしれないと考える。

 乗り気ではない彼と会話をする気にもなれず、彼女は挨拶だけして教室に向かう。教室の扉を開ければ、クラスの半分ほどの生徒が登校しており、その中に椅子に座り、空を眺める春樹がいた。机に片肘をつき、頬杖をついて、周りの騒がしさを無視してひたすら眺めている。珍しく、彼の周りに友達がいない。それは誰も近づけさせないような、哀愁漂う雰囲気のせいであった。


「栞、おはよう」


 女子のクラスメイトが席に座った栞に声をかける。艶やかな黒髪をボブヘアに切り揃えた彼女、鈴木楓すずきかえでは栞がよくお昼を一緒に食べている子で、昨日は休んでいた。春樹の席から後ろに二つ離れた席が、栞の席であり、その前に楓が座っている。親指で春樹を指した彼女は、栞の耳に直接吹き込むように、こそこそと話し始めた。


「篝のやつ、変なのよ」

「変?」

「うん。いつもはみんなが挨拶したらちゃんと反応するのに、上の空っていうか。ずーっと空見てるし……昨日なんかあったの?」


 彼女は声を小さくして前の春樹に聞こえないように話すものの、春樹は一つ前の席なのもあり、この会話は聞こえているだろうなと栞は思っていた。それでいて、あえて春樹が反応していないということは、よっぽど何かを考えているに違いない。昨日は送ると言ってくれた彼に甘え、家に送り届けてもらった。別れ際もお互いに手を振り、少々周りを気にしている仕草はあれど、おかしい所は何もなかった。考えても思い当たる節がなかった栞は、何か知っているかと聞いてきた彼女に対して、分からない、と答えた。


「それよりも、なんで私と篝が一緒にいるって知ってるの? 昨日休んでたのに」

「んー? 私も祭りにいたからねー」


 にやにやしながら楽しそうな顔をする楓は、栞と春樹が手を繋いでいたことを知っていそうだった。話しかけてこなかったのは、気を使ったのかもしれない。休みだったはずの楓が何故祭りにいたのかまでは、考えつかなかった。

 数分後、朝の駐輪場整理を終えた隼が教室に入ってくる。何人かの女子生徒が頬を赤らめて彼が席につくのを見ている。そんなことなどつゆ知らず、というよりも興味もなく、栞の隣の席に座った彼は、一瞬、春樹の方を見た。そしてすぐに一限目に使う教科書を出して、本鈴のチャイムが鳴るまで耳に黒のイヤホンを差し、音楽を聴いていた。


「日下部も栞に話しかけてこないの、珍しいね」


 楓が言う通り、隣の席なのもあり、確かに教室で顔を合わせると何かしら話しかけられていた。普段通りではない彼ら。違和感がありながらも、その正体を掴むことは出来ず、授業が始まった。

 昼になると、春樹の近寄りがたい雰囲気も緩和され、日常が戻ってきた。彼は廊下側の席に固まって、お馴染みの仲間たちと連んでご飯を食べている。栞は隣の何も乗っていない机に目を向けた。隼は教室におらず、図書室だろうと予想する。彼は一人になりたいとき、必ず図書室に行く。元々本の虫で、去年も図書室に篭りきりだったことを知っているので、別段不思議でもない。

 栞はというと、今日は自分の席で、前に座る楓と共にお昼ご飯を食べていた。


「今日は揚げパンなんだ。買えなかったの? メロンパン」

「いや、昨日二個食べたし、今日は別のにしようと思って」


 と、いかにも自分の意思で買ってきました、とクールぶってみたものの、実は嘘だった。今日も昨日と同じように購買に行くと、並んでいる生徒数が異様に多かった。経験からメロンパンは売り切れないだろうと高を括って長蛇の列に並んでみれば、最後の推しは目の前で購入されてしまったのだ。揚げパンの方が人気は高いはずなのに、今日に限って売れ残っていた。仕方なく、それを購入。楓に無駄な嘘をついたのは、思ったよりも悔しかったからかもしれない。


「ふーん。で、今日の放課後残るの?」


 三色のそぼろご飯を食べ終えた楓は、弁当箱を古風な風呂敷に包んで鞄の中へとしまう。今年初めてクラスメイトになった彼女は、家の用事があるとかでちょこちょこ休みがちだが、登校した日は毎日丁寧に作られた和食のお弁当を持ってくる。父親の手作りだというそれは、愛情を込めて作られているのが分かった。しかも毎回入っているだし巻玉子が凄く美味だった。よく出汁が効いていて、一口食べただけで虜になったほどだ。

 指についてしまった揚げパンの砂糖をぺろりと舐めながら、楓の質問に耳を傾け、意味を考える。今月頭からクラスで話し合われていた文化祭の出し物が決定し、今日から本格的に作業をすることは知っている。楓が言っているのはそのことだった。


「残るつもりだけど、楓はどうするの?」

「んー、まだ片付けが残ってるから参加できないんだよねー。なんで、私の分までよろしく!」


 親指を立てて見せてくる彼女に、りょーかい、と同じように返しておく。群れるのが得意ではない栞は、一人でクラスメイトたちの中に入っていかなければならないのかと、気持ちが重くなるのを感じる。購買で買った紅茶のジュースで喉の突っかかりを流した。

 放課後、終礼が終わり、クラスメイトの半分は所属の部活に行く用意をしたり、大学試験の勉強の為に帰り支度をしている。空は僅かに赤みを帯び始めているが、その妖艶さはまだ、空を支配してはいなかった。手を合わせて逃げるように帰っていく楓を見送り、椅子に座りながら教室に留まっているメンバーを眺める。中には春樹や隼もいて、話せる人がいるだけで全然違うのだと、心なしか気持ちが軽くなった。

 男女の文化祭委員が二人で話し合って、待っている間、若干騒ついていた教室で、みんなを注目させるために声を張った。


「今日は作業初日だから、買い出し班と看板作り班に分けようと思いまーす」

「買い出し班はペンキとか色々買ってきてくれよな。んで、看板作り班は買い出し班が帰ってくるまで暇なんだけど、せんせーが木材とか用意してくれてるから、その移動を頼みたい」

「ちなみに、看板に使う板はもう切ってあるから、そのまま使えるよ。去年の残りのペンキも貰えるらしいから、それ使ってもらってもオッケー。下書きとかよろしくー」


 文化祭委員の指示を元に、誰が買い出しに行くのかを何人かが話し合う。クラスメイトたちを見ていれば、その輪にいた春樹がおもむろに栞の方を向いて、近づいてきた。


「残るん、だよな?」

「え? う、うん」


 正直なところ、楓がいないと分かった時点で帰ろうかとも考えたが、学年最後のクラス行事であるし、大学受験を控えて中々参加できない人のためにも、出来る限り手伝いはしようと決めていた。帰るのならとっくにこの場から消えている。

 ちなみに、栞は先月中にAO入試を終わらせて、受験というプレッシャーからは逃れていた。目の前の春樹も推薦で大学入学が決まっている。この学校の文化祭は、受験生には過酷な日程で組まれているため、受験を早めに終わらせるのは暗黙の了解だった。入学前に、その説明をされるほどである。もっとも、先生たちは文化祭を息抜きとして捉えているようで、どれだけ苦情が来ても文化祭の日取りを変えるつもりはないらしい。


「分かった。じゃあ坂城は買い出し班な」

「おっけー。なんでもいいよ」


 春樹の後ろで男子数人と女子数人が最低限の荷物を持って動き出す。栞も中身を貴重品だけにしたリュックを背負って、その集団についていくため席を立った。教室の後ろで壁に凭れ、腕を組んでいた隼もそれに続こうとする。そんな彼の肩を掴んで行かせまいと引き止めたのは、春樹だった。


「日下部は俺らと一緒に看板の方な」

「……そんなに人数、いる?」


 彼らのクラスの出し物は舞台だった。ペンキはそれなりの量になるだろうということも、その他に用意しなければいけないものも、この買い出しである程度調達しなければならない。それを見越しての隼の行動だった。

 栞が教室の後ろの扉の前で振り向けば、隼はあからさまに怪訝そうな顔を春樹に向けたのが見えた。その顔をもろともせず、口元を上げて何も言わない春樹の手は、確実に力がこもっていた。


「まーまー、喧嘩すんなって。木材の方は他のクラスにも持ってかなきゃいけないらしいからさ、手伝ってくれよ」


 文化祭委員の男子がその場の雰囲気を和ませるために、軽い口調で二人を仲裁する。隼はちらりと栞を見た後、小さくため息をついて、渋々頷いた。

 買い出し班に振り分けられたメンバーで学校を出て、近くのホームセンターに向かう。大抵気心の知れた友達同士で固まっていて、道中もわちゃわちゃしていた。何が楽しいのか、いまいち分からない話題で盛り上がり、燥ぐ彼らに、栞は距離を保って後ろからついていく。大人数で纏まるのは得意ではない。栞は興味のない話題に無理に合わせたり、質問したりするのが苦手だった。彼女の周りにいる、気心の知れた友達はそんな栞の性格を理解してくれている人が多かった。

 文化祭委員から渡されていたリストを元に、必要なペンキや道具を買い揃えていく。ほぼ荷物持ちに徹していた栞は帰りも後ろの方で一人でに歩いていた。彼女にクラスメイトたちは時折顔を向けるものの、どう声をかけていいのか分からず、直ぐに慣れた仲間たちと会話を再開する。誰とでも打ち解ける楓がいればあの中に入れたかもしれないが、頼みの綱の彼女はいなかった。

 もう直ぐで学校に着くという頃、飲み物や食べ物を買いたいと言い出した女子に、周りが賛同して手前のコンビニに寄ることになった。栞は欲しいものもなく、昼に買った紅茶のジュースが残っていたので、先に帰っていると告げた。下手に群れるよりも、一人で帰ったほうが楽だと考えたためだった。出来るだけ笑って言えば、気を使っていた何人かも栞を引き留めてはこない。解放された気分になって、何となく、早足で学校に向かった。

 校舎に入り、人のいない長い廊下を歩く。ペンキの入った袋を手首にかけ、ポケットから取り出したスマホに表示された時間は、十六時三一分。そろそろ日の入りの時間だった。廊下の窓から見える空は既に禍々しい赤色に落ちていた。普段は尊くて神秘的に見える夕焼けが、今日は不気味に思えてならない。どす黒い何かを混ぜたそれに、初めて言い知れぬ恐怖を感じた。

 栞が教室の前に着くと、前の扉も後ろの扉も閉じられていた。中に人がいる気配はする。しかし、教室特有のがやがやした雰囲気は外からは感じられなかった。右手にかけていた重い荷物を一旦廊下に置き、後ろのドアに手をかける。微かに中から笑いを堪えるような声が聞こえた。暑くもないのに、背中に嫌な汗が流れる。扉を開ける手が意味もなく震えていた。

 扉をスライドさせて開ける。真ん中に場所を取るように、教室の机は全て端に寄せられていた。使うために借りてきたのか、工具箱が机の上に置かれている。正方形のタイルが敷き詰められた床の上には、汚さないようにブルーシートがあり、塗りかけの看板も転がっていた。教室の中央に栞が目を向けると、机に凭れかかるようにして俯く黒髪の青年がいる。それが幼馴染みだと認識すれば、彼女は彼に向かって声をかけようとした。


「篝、みんなは……っ!?」


 みんなは何処に行ったの、と最後まで続けられなかったのは、春樹の足元に横たわる人物に気づいたからだった。グレーのブレザーの隙間から見えるワイシャツは、白さを失い、赤い染みが出来ていた。じわじわと浸食するどす黒さに、空が重なる。さらりとした髪が顔を隠していたが、その特殊な髪色から、隼だということはすぐに分かった。


「どう、いう、」


 状況に頭を打ち付けられて、ぐわんと視界が揺れる。受け止められない光景に何とか我を保ちながら、春樹を眺めた。左手で口元を押さえ、肩を揺らしている春樹の右手には血塗られた太いカッターナイフがあった。赤い液体がぽたり、と床に滴り落ちる。上手く声が出なくて質問できなくも、春樹が何をしたかは明白だった。


「……ははっ! やっと……これで……!!」


 栞の存在など感知していないかのように、耐えきれなかった春樹の笑いが教室に響く。栞は諤々と上手く動かない足を必死に動かし、倒れている隼に近寄るとテレビの見様見真似で脈を測った。生きている人間ならとくんと反応する脈が、隼からは全く感じられない。事切れていることを確認すると、言い知れぬ絶望が押し寄せる。ゆっくりと息を吐くと、未だ笑い続けている春樹に向かって叫んだ。


「篝! どういうこと!?」


 蹲み込んだまま、春樹を見上げた。栞の顔は友人を失った苦しさに満ちていて、目には薄らと涙が浮かんでいる。友人が死に、その友人を幼馴染みが殺したという状況は、栞を混乱させるには十分だった。

 栞が叫んだ刹那、春樹は肩を震わせ、口元を隠したまま、俯いていた顔を挙げる。目だけで栞が触れている隼を確認すれば、初めて気付いたかのように目を見開いた。そして、真っ赤なカッターナイフと手を見て、声にならない奇声を上げた。口元に当てていた手を頭に移し、混沌とする頭を押さえつけている。訳もわからずその様子を凝視していた栞は、立ち上がって春樹に手を伸ばした。


「本当に、何があったの……?」


 青ざめた春樹を落ち着かせようと伸ばした手は、怯えた顔をする春樹の手によって掴まれた。


「おれ、は……なんてことを……」


 その言葉を皮切りに正気を取り戻した彼は、ごめんなさいと呟いた。先程まで笑っていたとは思えない彼の顔は、壊れ、歪んでいた。

 廊下から男女の明るい声が聞こえてきた。栞と先程別れたクラスメイトの男女が、何も知らずに後ろの扉から教室の中を盗み見る。女子の方が直ぐ様倒れている隼に気づき、ひっと悲鳴を上げた。男子もただ事でない状況を把握、他のクラスメイトに見せないよう、咄嗟に後ろの扉を閉めた。先生を呼びに行ったのだろう、廊下を走る音が響いていた。

 そちらに気を取られていた栞は、掴まれた手に何かが握らされたことで春樹に意識を戻した。どろり、と手に纏わり付くのは、隼の中を巡っていた液体だった。吃驚して春樹に目をやると、大きな黒い瞳を揺らしている。言葉を紡ぐ口は、スローモーションに見えた。


「俺を、殺してくれ」


 理解ができなかったのか、あるいは理解を拒んだのか。音として入ってくる、それの意味を汲み取ることが出来なかった。自分の意思とは関係なく握らされたカッターナイフは、春樹の首に、にじり寄っていく。掴まれた手は、春樹が誘導するままに辿りつき、抗わなければと思ったときには、それ越しに肉の感触を得た。


「私は……!」


 殺したくない、そう言いたかった。けれど、そんな言葉は春樹の表情に打ち消された。自分に失望したと言わんばかりの何もない表情が、栞の知る幼馴染みはもういないと突き付けている。解放されたいと、ただそれだけを彼は望んでいた。消えかけの夕焼けが春樹の顔を照らして、頬に陰影を作り出す。それが栞の目には泣いているように映った。

 手を引いたのはどちらだったのか。

 栞は血飛沫を全身に浴びていた。ぐらりと倒れた春樹の表情は柔らかくて、まるで幸せの中にいるようだった。彼の首から飛び散るそれを、彼女は押さえようとはしなかった。これが望んでいたことであるならば、それでいいと思ってしまった。

 大きな音を立てて開いた扉には目もくれず、地獄絵図のような教室の窓から空を捉える。夕焼けはとっくに鳴りを潜め、闇だけが支配していた。


 この作品は大学の卒業制作で書いたものです。投稿者は作者本人です。

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