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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

獣の少女

作者: 耳の缶詰め

 冷たい空気が木々の中にとどまり、たまにいたずらをするかのように風が吹いては、僕の肌を刺激してくる。ここは空気が乾いているからか、顔を上げれば富士山がくっきり見えていた。だけど僕は、そんな風景に目もくれず、ただ無心になって木々の中を歩き続けた。


 ずうっとずうっと、もう何十キロと歩き続けた頃。裸の足が限界を迎え、僕はその場で立ち尽くす。いつかこのまま倒れるのだろうと、体がそう告げているように感じ、そしてそれは、僕の人生なんて、最初からこんな感じなんだと再認識させた。


 一瞬、草木の揺れから何かが近づいている気配を感じた。僕は無意識に後ろに振り向く。そこにいたのは一人の少女で、僕はその少女を見た瞬間、先日のテレビで見たニュースを思い出した。


 それは、少女が山奥で見つかり保護されたというだけの、至って平和で心が温まる知らせ。行方不明者発見というだけの、めでたいもので終わるものだっただろう。しかし、そのあとに映し出された映像はとても異質なものだった。動物用の檻に入れられた、手足が土まみれで体中が傷だらけの少女。その子がまるで、獣のように怯えながら威嚇をしている様子からは、少女を保護したというより、野生動物を捕獲した映像にしか見えなかった。


 そのニュースの話題が広まるのは一瞬で、山奥で狼と暮らしていたのではと囃し立てるメディアや、捨てた親の顔を見てみたいと、大して見る気もない偽善者ぞろいのSNS。挙句には、人と動物が交尾して生まれたのだと主張する愛護派まで現れた。そんな騒ぎを巻き起こしたニュースの主役が今、僕の目の前に現れているのだった。


 少女は四足歩行で僕に近付き、傷だらけの体で本物の獣のように威嚇をしてくる。「うー、うー」と、その身なりからは想像できない低い唸り声。正直、動物園でみた虎やライオンよりも迫力を感じる。保護施設から脱走してきたのだろう。両手には、自由を奪うための手錠がかけられたままだった。


 今頃は脱走事件がニュースで報道され、また少女は人々の話題の的になっているのだろう。彼女を前にしながら、僕は呑気にそう思っていた。目の前に死の恐怖が形を持って存在していながらも、それに畏怖を感じることはなかった。


 それから彼女に睨まれ続け、どれだけ時間が経っただろうか。いまだに僕は少女の前で立ち尽くし、そして少女も僕を威嚇し続けている。どうして彼女は僕を殺さないのか。獣として生きてきた彼女でも、自分と同じ種別である人間は食べないということか? それとも、捕獲されて以来から人間を強く警戒しているのか? 少女は人間であるのに獣としてふるまい続けている姿は、まるでその方法でしか生きていけなかったと訴えているようで、とても惨めな人間に思えてきた。そのとき突然「アオーーン」とどこからか狼らしき遠吠えが聞こえ、睨み続けていた小女は後ろを向いて走りだして、その場から消えてしまった。


 人はだれしも終わりを迎える。その結果が変えられないのなら、今終わらせてもいいだろうと思っていた。そんな僕の前に現れた獣の少女は、人でありながら人として生きていく権利を与えられず、獣として生きていかざるを得なかった。世間でも少女を襲った運命は残酷なものだと、勝手な同情を誘うだけ。その時の同情を言葉にするだけで、時間がたてば忘れ去っていく。そんな世界を思ったとき、空っぽだった胸が空虚で満たされていく感じがした。何かが胸に詰まる気分はひどく久しぶりな気がして、人という生物として生きている感覚を久々に思い出せそうだった。


 僕が人であるのなら、同じ人である少女を救えるはず。僕は振り返って来た道を戻っていく。人を貶めるのが人だと言うなら、人を救えるのも人なのだ。それを彼らに伝えてあげよう。なぜなら僕も、人なのだから。


 人にはそれぞれ個別に自分の臭いを持っている。しかし、わずかな臭いであるせいで、人間の鼻ではそれを嗅ぎわけることはできない。だが僕は、人一倍鼻が利くんだなと、誰かから言われたことがあった。それは本当にそうらしく、なぜか僕の鼻は獣のように利くのだ。


 そんな鼻を持つ僕は、ある一つの法則を知っている。人によって臭いは違えど、家族や親族同士では臭いがほぼ同じであるということだ。経験上、この法則はほぼすべての人間に当てはまる。それは、あの樹海で出会った少女も例外ではなかった。少女の臭いには心当たりがあった。その正体は思ったよりも近く、特定するのにそう時間はかからなかった。


 世間というものは意外と狭いのだろう。少女を見つけてから一週間。車の音一つしない暗闇の中、僕はアパートの郵便受けから――木崎きざき――という名前を探し、少女を捨てたであろう男の家まであっけなくたどり着いた。僕はこの男を知っている。元々同期として同じ会社に入社したときに知り合い、同じ仕事をこなす関係であった。彼は僕と違って、リーダーシップが強く人への目配りもできる。おまけに仕事も完璧で頼りになる男だ。しかし、唯一の欠点とも言える酒癖だけは異常なまでに最悪だ。酒好きの彼は、半ば強引に僕を飲みに誘ってくるのだが、隣にいて愚痴を聞かされるだけに留まらず、暴力的な人間に豹変し、怒鳴り散らすことはざらだった。横暴で自分勝手な人間が僕の一番嫌いな人間像だが、酔っぱらった木崎はまさにそれだ。


 そんな彼と一週間。僕は彼が少女と同じ臭いであることを証拠に、たびたび夜に付き合い、赤い顔からこぼれる愚痴から情報を集め、木崎の真実に迫っていった。彼が少女の父親本人であると疑ってなかった僕は、間接的な情報を集め、まるで答え合わせをするように推理を進めていった。木崎の家庭は、妻の離職や子育てにかかる費用から家計赤字が続いていたため、夜中は家でも酒におぼれるようになったと言う。あの酒癖であれば、妻に暴力を奮うのは恐らく時間の問題だっただろう。一昨年には妻とも離婚して今はアパートで一人暮らしをしている。時折離婚したことを後悔し、女々しく嘆くこともあったが、そんな話は全部耳から流した。


 そんな毎日を続けていく内に、小学生の息子が一人だけいるとしか話してこなかった彼が、もう一人子供がいたことを打ち明けた。その子供は運が悪く、自然流産した、と彼は話していたが、その時僕は違和感を感じた。いつもはうるさいくらいの声量で愚痴をこぼす木崎が、その話をした時は、自信のない、か細い声であったからだ。その後、僕はその話を深堀しようと揺さぶったりしてみたが、木崎がそれ以上話をすることはなかった。だがその素振りが、逆に僕の目に嘘を認識させてくれた。


 木崎の酒癖と裏の性格、そして、少女と同じ臭い。警察があてにならないとは言わない。だが、これが真実だと言うのなら、僕がやるしかない。古いドアの鍵穴にヘアピンを入れ、何度か適当に回してみては、奥に引っかかったのを感じて鍵を開ける。そして、ドアノブにゆっくり手をかけると、復讐の意志に従ってそのドアを開けた。


 それからの記憶はよく覚えていない。気づけば夜は過ぎ去り、日の光が部屋を照らし始めている。覚えていることと言えば、恐怖を与え続けたという曖昧な感覚。いや、はっきり覚えていなくとも、目の前に転がっている男の死体を見れば、それは理解できた。


 痛みを声に出させないよう口にガムテープが張られ、少女と同じ痛みを味合わせるべく与えた切り傷が、顔から足にかけていくつもついている。切られた感触を残すためか、それらの傷口はどれも浅く、傷だらけだった少女とそっくりだ。両手の自由も手錠のように奪うべく、左手はナイフを壁と一緒に突き刺され、右手は手首と切り離されていた。血だらけの部屋はとても静かで、強い鉄のような臭いにまみれていた。


 窓に目を向けてみる。いつもと変わらず昇る朝日を見ながら、僕は腰のポケットからタバコとライターを同時に取り出し、口に加えた状態で火をつけた。強く息を吸い込み、何も味がしない香りを喉奥まで伝わらせる。そうして息を限界まで吸いこんだ時、僕はタバコを親指と人差し指で掴んで離し、はあ、と煙を吐いた。もう片方の手には既に、自分の携帯を起動していた。

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