眠れない夜に歌う
『眠れない夜は歌を歌おう』
どこかで聞いたようなフレーズが、疲れた夜には頭をよぎる。
転寝している同居人の温かい膝に頭を任せて、口を開く。
部屋に満ちるしっけた空気を肺に招いて、起こさないように小さな声で。
何年も前に流行った歌を口ずさむ。歌詞が朧気な部分は旋律だけで。
平穏を噛み締めるように目を閉じて、光の乏しい世界を思い描く。
何年も前に流行った歌手は、今も何かをうたっているだろうか。
名前は元から知らないが、健在であればいいとぼんやり思う。
わたしはたぶん、歌うのが好きだった。
怒られないように小さな声で。
だれも見ていない場所で。
だから今夜も歌を歌おう。
この人が起きないうちは。
* * *
声が聞こえた。
それは歌だった。
どこか懐かしいメロディが小さく響く。
優しい旋律は膝の上から響いてくる。
暗い室内を満たす音は同居人ののどから出ている。
昼間には決して聞くことのできない、やわらかな声音。
気付かないふりをして薄く目を開ければ、穏やかな表情で口を動かしていた。
人前で決して歌おうとしないその理由を詮索したことはない。
この子は歌うことが好きなのか。
目が合うと口を押えて顔を背けてしまう。
楽しみを遠慮させる何がこの子にあったのだろう。
その憂いを取り除けたなら、いつか。
いつか日の下で、その声を響かせてくれるだろうか。
お読みいただき感謝します。