かつての婚約者(3)
一世一代とは言わずとも、それなりに勇気のいる行動だった。先日も問い詰めなければ、マリアは嫌な過去を口にしなくても良かった。だから、自分の行動には注意しようとしていた。
マリアの答えは実に簡潔、一言で終わった。
「要りません」
怒っているでもない、恥じらっているでもない、いつもの調子。新しいドレスを必要としていないことと同じように、ただ単にそれは不要だと、俺に告げる。
「……俺は要るよ。マリアは嫌だった?」
「私のことをハロルドさんから聞いたのでしょう。多分ハロルドさんが知っているのは、三人目の方のこと。つまり、私の三人目の婚約者です。
私はこれまで何人、婚約者がいたと思っております? 旦那様を合わせて五人です。貴族なら、結婚とは家の結婚になります。縁が切れれば、婚約も切れるのは珍しくはないのです」
「うん、知ってるよ」
本当は今日思い出したばかりなのだけれど、それもどうでも良いことだった。マリアの声がやや感情的になっていることの方が、よほど心配になる。
「……今のは言い訳です。私は慣れていますが、旦那様に慣れろとは言えないから、言い訳をしました」
「俺だって言い訳をする。ね、マリア、慣れる以前に、婚約した人数とか、俺は気にしていないからね」
自分の言っていることが本心からのものだと、マリアに伝わるよう手の握る力を強める。
奥方は視線を下に落とす。
「……知っていますわ。旦那様が、そういうのには興味も関心もないことを、知っております。でも、私に気を遣って優しくする理由には、なりません。私はあくまで、これまでたくさんの婚約者から婚約破棄をされた身です。
それは消えるものではないでしょう。旦那様が嫌に思うのは当然ですが、優しくしようとするのは、私には要らないのです」
「迷惑?」
「いいえ、決して。ただ、旦那様の良心に甘やかされたくはないと思っている、私の我がままです。結局私の勝手を聞いて欲しいと言っているので、矛盾していますが……」
私は、と奥方は今度は俺の目を逸らさずに、こう言った。
「私は旦那様の妻ですから。ひたすらに守られる役目は、恋人までで十分ですわ。妻の私には不要なことです」
それは寂しいと言いたかった。
しかし自立心の高いマリアは、守られることに少しの嫌悪感を抱いている。彼女の意志は、岩よりも硬いに違いない。流されるだけの令嬢とは違うのだから。
それでも、元婚約者ごときにデートを邪魔されてはたまったものではない。
大体、かなり頑張ってお誘いをしたのである。
あっさり潰されてしまっては、やわい俺の精神力では立ち直れない。
「でも俺、結構、気合いを入れて誘ったから、断らないでよ。夫婦なんだし、出かけるくらい、いいはずだよ。そう、退院祝いだよ、退院祝い! マリアは重く考え過ぎなんだよ」
「そうでしょうか」
マリアは首を傾げる。どこまでも頑固な人なのだ。
最終的には粘り勝ちでどうにか約束に漕ぎ着け、俺は深く息を吐いた。
(ハロルドが簡単そうにデートに行ってたモンだから、勘違いしてたな。デートはする前から戦闘だと、始めに教えて欲しかったよ)
***
一休み、と安心したその週末。
あろうことか、俺は風邪を引き、デートのお話は見事おじゃんとなった。
「馬鹿ですね」
平坦な声でマリアはコメントを述べる。
「馬鹿は風邪を引かないよ」
「じゃあ阿呆ですね。汽車のあとは風邪ですか。大阿保ですわね」
返す言葉もない。
マリアは咳込む自分の世話をしながら、てきぱきと優先順位を決め、家事などの仕事もこなしている。なぜか部屋の椅子に腰を下ろしているハロルドに、お茶や菓子を出すのも抜かりなく済ませる。
ハロルドが医者からもらってきたという薬を、マリアに渡す。
「アーサーは馬鹿でも阿呆でもなくて、ガキなんだよ。大学時代に教師と大喧嘩して、その後の授業を全欠席して、最後の試験だけは満点を取ったんだよな。しかも解答用紙には試験の間違いと、複数回答例まで上げ連ねた。
お陰でその教師からは睨まれて、就職に響いてたよな」
「あら、そうなのですか」
「そうそう。アーサーは後のことを考えなさすぎなんだよ。本を買う金をミネー川の中に落として、服を着たまま泳いでいたのには、目を疑ったね。しかも、溺れかけてた! いやいや、笑ったなぁ。人がミネーの中でもがいてたって、大学では話題になったぜ」
薬の副作用か、意識がうつらうつらとしている。
そのせいで、ぽろりと本音が溢れ落ちた。
「金は回収したからいいじゃないか。それに友達は増えた。お前と話すようになったのは、その時からだったよ」
多分、俺は風邪で油断してしまった。
でないと、そのことまで言わなかっただろう。
「そもそも、あの教師は意識して、俺の爵位を……」
「アーサー!」
振り返って目を合わせた悪友は、ひどく緊張した顔をしていた。
「眠いなら、一眠りしたらどうだ」
やっと制止の意味を悟る。
今なにを言おうとしていたのか。
ハロルドが止めてくれなかったならば、どこまで口を滑らしていただろう。
マリアは幸い、後ろを向いて独創料理の制作に取りかかっている。豚肉に唐辛子(唐辛子!)をせっせと詰める作業に没頭して、全く耳には入っていない。危ない、危ない。
「あ、ああ、寝ることにしようかな…」
ハロルドと目を見合わせる。
(ありがとう、すまない)
小さくハロルドは頷き返すと、マリアに会釈をした。
「では、今日はここで失礼するよ。マリア嬢、紅茶をありがとう。また、今度」
「あら、はい。今日は旦那様が失礼いたしました。またもてなさせて下さいませ。どうか、お気をつけて」
深々とお辞儀を返すマリアを視界に収める。
彼女はきっとどうとも思っていないのかもしれないけれど、貴族の教育が、その物腰からは現れている。
(………マリアはもし、俺の爵位を知ったならば、どう思うだろう)
アーサー・ストウナー公爵。
公爵は、帝国の国王を除いた爵位の内、最上位を意味している。
侯爵とは一つしか違いがないとは言え、その地位と権力は格段に異なる。
公爵の爵位を持つ者は、ほとんどが国王の親族に当たる。
(できれば、言いたくはないな)
唐辛子の匂いが鼻にきたのか、ツンとして、涙が出そうになる。
風邪は気を弱くさせるから良くない。
(楽しいこと、楽しいこと……ああ)
ああ、そうだ。
今度マリアに一緒に出かけようと誘い直そう、と、そう思いながら、風邪引きのアーサー・ストウナーはゆっくりと目蓋を閉じた。
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