かつての婚約者(2)
ハロルドとの関係を変に気にしてしまったがために、俺の奥方を手酷く傷つけることになってしまった。
マリアの、昔の婚約者。
さすがに結婚する相手なのだから、いたことは事前にマリア自身から聞いていた。そんな記憶は辛うじてある。
「いやね、いたということは聞いていたけど、その時は家名さえ尋ねてなかったんだよ。その昔の婚約者さんが名無しの権兵衛だったせいで、マリアが言い出すまでそんな奴がいることも、正直、すっかり忘れてた」
「今の今まで?」
悪友ハロルドは暇なのか、大学に用意されている職員用休憩所に堂々と居座っている。ソファに寝転がった体勢のまま、少し驚いたように質問をした。
昨日、マリアが告白したかつて婚約者とは、実はハロルドの遠い親戚だったらしかった。
ハロルドほどの貴族ならば、暇つぶしのように山ほど開かれるパーティや社交界で交流がある。遠い血縁とも、その度に挨拶するのが礼儀になる。
ハロルドはそこで、マリアの顔を覚えていたらしい。
女性関係には驚異の記憶力を発揮する友人だが、自分はそんな特技は持っていない。
「ああ、忘れてた。だってどこに元婚約者がいようと、彼女と結婚したのは俺だろう」
「いやいや、さすがにそんな簡単な問題じゃないぜ。マリア嬢には、忘れてたって言ったか?」
「ああ」
「マリア嬢も驚いたろ。自分の夫が、過去の自分の婚約遍歴を忘却していたとか、熟年夫婦でもお目にはかかれないだろうね。それが結婚して……一ヶ月も経っていないんだっけ?」
「今日で二週間目だよ。でもマリアは『そんなことだろうと思っていましたわ』だってさ。怒ってもなかったし、多分、あれが本心だよ」
「……すごい奥さんもらったな。理解があっていいじゃないか」
ハロルドに熱々の紅茶の入ったマグを渡す。ちょうど午後茶会の時刻であるので、焦らずじっくりと話したかった。
お茶うけはマリアが作ったサンドイッチ。野菜をスライスしたのに、焼き魚の身が丸ごと挟まれている。形は不恰好だけれど、これが結構美味しい。
椅子の背もたれに肘をのせ、コーヒーをすする。
「マリアと婚約していたのは、どんな奴だった?」
「どんなって……なぁ、本当に知らないのか?」
ハロルドは呆れた声を上げた。
「知らん。だから聞いてるんだよ」
まるっきり実体のない存在であったがために、俺にとってはいないようなものだった。言えることもないので、サンドイッチを一口齧る。うん、うまい。
「正気か? でも、アーサーの性格ならありえるんだよな」
納得して、ハロルドはサンドイッチを一緒になって頬張った。
「俺が知っているマリア嬢の元婚約者は、よくある男爵の息子だったよ。今は爵位も受け継いでいる。家の商売もそこそこの軌道に乗って、財産も適度にある。マリア嬢の元の爵位は知ってるか?」
「……」
「侯爵!」
「へぇ、いい地位してたんだな。男爵からしたら雲上人になる。でも金と家柄の交換とは、捻りのない婚約過ぎるよ。マリアには似合わない」
あの奥方の人となりこそ、一番の価値がある。真面目にそう、思っている。
「婚約するのには、マリア嬢の……事情があって」
「その前にも婚約していたこと?」
「知っていたんじゃないか!」
ハロルドが俺の肩を小突く。
「今思い出したんだよ。俺が五人目とか、いつかの時に言ってたなぁって。念押しして教えてくれてだけど、人と合わないのは大したことじゃないから、そんなこともあるかって思って、やっぱり忘れてた」
「……」
「ハロルド?」
「…………アーサー、そんな発想になるのはお前だけだ」
ハロルドは頭に手を当て、首を横に振った。個人の価値観は多様なものなのだ、余計なお世話である。
「それで? 最終的には婚約は成立したんだろう。婚約相手はどうだった?」
「……婚約した坊やが、アホだった。婚約した後になって、上っ面だけは可愛く着飾ったお嬢さんに引っかかったんだな。見てるこちらが恥ずかしいくらい、ぞっこんになった。マリア嬢には悪夢だ」
「そんな奴とは、早く別れてしまえ!」
くい、とコーヒーを飲み干す。大変苦々しい味が口内に広がる。
ハロルドはのんびりとソファで伸びをした。
「ご希望通り、別れたよ。で、紆余曲折を経てお前と結婚。これも悪夢かな、ミセス・ストウナーになった」
「マリアから破棄しただろう。彼女は、はっきりするべきところは、ちゃんとしている人なんだから」
「ノン」
「……なぜだ?」
「理由は知らないよ。マリア嬢の婚約相手から、マリア嬢が一方的に破棄を告げられた。マリア嬢は最後まで文句も言わず、我慢していた。
もし俺の関係者が元婚約者じゃなかったら、慰めてあげたくなるような健気さだったね」
どこか遠くを見つめるような視線で、ハロルドは目を細める。学生の頃から出所不明の色気を出していた友人だが、この年になってもけしからん雰囲気は健在だ。
「そんなことになったら、汽車から放り出してやる」
「そしたらアーサーの手をつかんであげるさ! 死でも分かつことなく一緒に、なんて愛を感じるだろ?」
「愛を超えた妄執だよ、それは。それで、元婚約者は今どうしてる?」
「お花畑なお嬢さんと婚約し直して、無事結婚したよ。結婚後はいざこざが絶えないらしいけど、俺は興味ないからあまり知らないな。
マリア嬢と共に出かけた場所にも、片っ端からお花ちゃんと逢瀬をしていたらしいけどね。あとは、冷たい令嬢だと文句も言っていたな。あんまりなことだ」
聞いていて、反吐が出る、の意味を理解できるような気がした。
マリアのことを真摯に見ていれば、冷たいとは思わないだろう。
口に含んだコーヒーは、やはり苦々しいままだった。
***
帰宅すると、マリアはいつも通りに夕飯の支度をしていた。
「おかえりなさい」
「ああ、ただいま。サンドイッチ、ハロルドがありがとうと伝えてくれって言っていたよ」
「旦那様は?」
「……ありがとう」
「はい」
「あと、今週の休みだけど」
「はい?」
恐る恐る、マリアの手を取る。
碧の瞳が見開き、瞬きをした。マリアが首を傾けた拍子に編み込まれた黒髪が一房、肩から流れて落ちる。
震えそうになる声を抑え、俺は奥方にお誘いの言葉を述べた。
「……出かけませんか? よかったら、一緒に。……その、デートでも、いかがでしょうか」