かつての婚約者(1)
俺、アーサー・ストウナーの悪友であり、汽車から落っこちたために新聞一面を飾った過去を持つ変人の名はハロルド・グレイという。
病室での宣言通り翌日から、ハロルドは帝都に滞在する手続きを済ませてしまった。
その手助けをしたのが、他でもない俺の奥方マリア・ストウナーなのだから、文句を言おうにも言えない。本当にマリアは何を考えているのか分からないところがある。
(性格から推測するに、あれの顔が美形だから気を許すことってこともないとは思うけど……うーん、分からん。ホテルだけじゃなくて食事まで世話をしているし)
当の本人はさくさくとナイフを動かしている。
無事退院した夫のために林檎を剥いているのだ。
チーズが原因で汽車から飛び降り、幸いにも軽傷で済んだものの、全治一週間の怪我を負ってしまった。今日退院したばかりの旦那とは、なにを隠そう、自分のことである。
情けない、間抜けにもほどがある醜態だった。
奥方として離婚を考えたりはしないのだろうか。かなり自分としては不安なところだ。
「剥けました。色が変わる前に食べてください」
皿に置かれた林檎の皮には、全て二股に切れ目が入れられていた。ちょうど林檎の身からぴょんと皮が跳ね出ている。
(ほぅ、うさぎの形なんて凝っている。いや、二股……夫に愛想を尽かして浮気したくなったわ、って暗示じゃあないってことも、ない、訳じゃないかもしれないな)
つい凝視していると、マリアが声をかけてきた。
「旦那様、具合でも悪いのですか。もしかして、まだ傷が治っていないなら、お医者様を」
俺が返事をする前に、マリアは席を立ち上がりる。医者を呼ぶため外に出ようと、ドアノブに手をかけた。
「えっ、あ、傷は大丈夫だよ。ほらほら、すっかり治ってる!」
ぶんぶんと腕を左右に振る。安心したのか固く引き締めていた口元を緩め、奥方は隣に座り直した。
「それなら良かった……でも、無理はしないでください」
「ああ」
「旦那様なら周りに置いてあるものにぶつけて、余計な怪我をしそうですから。じっとしていれば、安全です」
「う、うん? さすがに俺だって、そんなに危なっかしい方じゃないよ。年だってマリアよりは大きい。今回は不可抗力で、事故なんだし。ちょっと間抜けではあったけど安心してくれよ、ね?」
夫どころかマリアの発言は、子供を相手にしているようなものだった。
これは由々しき事態と言って過言ではない。挽回せねば、呆れられるのも時間の問題。離婚秒読みとは、まさにこのこと。
説得するも、俺の奥方は有無を言わせぬ迫力で静かに首を横に振った。
「いいえ。旦那様の馬鹿阿呆な行動は筋金入りですから。私聞きましたもの」
さりげなく馬鹿阿保と評されているのはともかく、嫌な予感がする。
「……誰から?」
「ハロルドさん」
「ハロルド・グレイ?」
「ミスター・グレイの他には、お名前が同じ人は知りませんわ。旦那様のご学友のハロルドさんで合っております」
予感が的中し、俺は頭を抱えたくなった。
マリアはフォークをうさぎ林檎にぐっさり突き刺すと、控えめな仕草で手渡した。
「汽車から落ちたオチトモのハロルドさんでしょう」
「お覚えてたのそれ! 忘れてたよ、オチトモとか。そんなこと、覚えなくていいからね。それよりも、うさちゃん林檎、躊躇いなくフォークで刺したけどよかったの?」
「味は変わりませんから」
では、なぜうさぎ形にしたのかは、永遠の謎だ。珍しく生産的でないことをしたくなるくらい、いいことでもあったのだろうか。
(いいこと……まさか、いいこととはハロルドと話したのが、マリアにとって、楽しいことだったりするんじゃ…。これは聞いておかないと)
「ま、マリア」
「どうしました、改まって」
「ど、どうしてハロルドと、そんなに交流してるんだい?」
マズい、まるで妻を問い詰めている夫である。事実問い詰めているのだけれど、もう少しソフトに質問するべきだった。
もっともそんな器用なことなど、できない自信しかない。マリアは無言で少し考える様子をすると、突然ハッとした。
「まさか浮気の心配でもしてます?」
「浮気?! そこまではしてない、してません! その………ちょっと気になるなぁー、程度だよ」
「嘘でしょう。本当はどこまで疑ってます?」
「全くしてない!」
「嘘おっしゃい! 言いなさい、アーサー!」
「ええ!」
「アーサー」
声と共に、ぐい、とマリアの顔が俺の目前まで近づけられる。さっきまで洗い物をしていたせいか、マリアからふわりと石鹸の柔らかい匂いが漂う。
見た目が美人である分、俺の奥方はかなりの迫力があるのだった。名前を呼ばれた動揺と彼女のすごい剣幕に、こちらの意志は簡単に、ぽっきりと折れてしまった。
「………ちょっと不安になったくらいだよ」
「…そう」
「ごめんよ……あのさ、ハロルドはあれだけど、いいやつだろう。それに、俺より話して楽しいだろうから」
連ねようとした言い訳を、腕組みをしたマリアはピシャッと断ち切った。
「旦那様、結構ですわ。それ以上言ったら怒ります」
「……ごめんよ」
「旦那様が謝ることではありません。私にも落ち度がありますから」
「落ち度?」
料理以外はそつなくこなす彼女には、似合わない言葉だった。
林檎を突き刺す時には少しも躊躇しなかったマリアが、この俺の疑問に口を噤んだ。
「……マリア?」
どうしたのだろう。心配になり、思わず腕を伸ばす。
その頬に触れるか触れないかの距離に縮んで、ようやくマリアが口を開いた。
「ハロルドさんと話していたのは、私に理由があります」
伸ばしていた腕を止める。
マリアの碧の澄んだ瞳が、真剣にこちらを見据えている。
そして俺の奥方は、はっきりとこう言った。
「私の昔の婚約者に関係することです」
と。




