汽車(3)
これはマリアにとっていい気分転換になるかもしれない、とこっそりアーサーは思っていた。
先日、ご令嬢からの悪口を浴びせられてからも、マリア自身は気に留めた様子はない。
でも、何も思っていないこともないだろう。
(いつもは何を考えているか分からない人だから……あんな時くらい泣いてもいいのに。全っ然、悲しそうでも悔しい感じでもないからな)
むしろ今は、滅茶苦茶楽しそうにしている。
目を猫のようにぱっちりと見開き、列車の窓から腕を出す。
「旦那様、アレはなんです?!」
「ん、ああ、汽車用のトンネルだね」
「トンネル!」
数分前までは『汽車がレールから外れたらどうするんです。飛び降りればいいんですか』などと、珍しくビクビクしていたはずが、すっかり慣れてしまったらしい。
「マリア、手は外に出さないで。持ってかれるよ」
「嘘でしょう!」
小さく叫ぶと、マリアは素早く手を引っ込めた。
うん、可愛い。ちょっと子供に返ってしまったような、幼くて可愛いはしゃぎようだ。
「残念ながら嘘じゃない。事故も起きているからね。聞いただろう、身を乗り出した貴族が落っこちたってやつ」
「運良く木の枝に引っかかった出来事ですね。男性が軽症で済んだのが、奇跡だと新聞にはありましたわ」
「それ、俺の知り合いだよ」
冗談ではなく本当のことだ。しかし、嘘だとマリアが疑うのも無理はない。
アーサーだって知った時、そんな阿呆なと思ったものだ。汽車から飛び出す物好きは、サーカスの道化師にだっていない。
弁当を取り出し、膝に広げる。
マリアもアーサーの動きをして、旅行鞄からパンを丸々一本取り出した。
「わぁ……随分男らしい弁当だね」
「味は変わりませんわ」
その言葉を待っていたのだ。もったいぶった雰囲気を醸しつつ、チッチッチ、と指を横に振る。
無表情だったマリアの眉間に薄くシワが寄った。
「なんです、旦那様。格好つけてらっしゃいますか」
「違うよ!」
「じゃあ鳥のモノマネの意味が分かりませんわ」
「鳥のモノマネじゃないって! そう、違うんだよ。汽車の旅は食事の味を美味なるものに変えるからさ、マリアも食べてみなよ。
俺もそんなに汽車には乗っていないけど、汽車で食べるご飯は一味違うことは、絶対、断言できるからね」
「そうなのですか?」
見つめるマリアの目は疑いに満ちている。
ここはまず俺から、と弁当に入れられていた茹でジャガイモを一切れ摘む。塩と胡椒と、なぜか砂糖も加えて味付けされている。
というより何より、甘い。
甘煮の域を超えてじょりじょりと砂糖の粒感さえ感じる甘さになっているのである。
まるで砂糖菓子に変化したジャガイモに、俺は納得した。マリアの手にかかれば、シンプルな料理もこうなるものらしい。
「うん、美味しい」
ウンウンと頷く。
甘い、の方が正直な感想だけれども菓子と思って食べれば十分美味しい。
「……」
マリアはまだ胡乱な表情で俺を見ていた。
それでも気にはなったらしく、パンを手に取った。指先に力をこめて一口大に千切る。
それを口に運び、マリアはゆっくりと噛んだ。
もぐもぐと頬を動かし、嚥下する。
「どう?」
汽車の窓から外を覗いていた時のように、俺の奥方は目を丸くしていた。
恐る恐る、慎重に薄紅の唇を開く。
「……違います。美味しくなっています」
「そう!そうなんだよ、一層美味しくなるんだ。俺の言ったことは、間違いじゃないだろ?」
「はい。本当でした」
こくんと頷くマリアの反応に、俺は思わず調子に乗った。
「これも食べてみなよ」
そう言って俺の弁当からチーズ(何故かオイスターソースの匂いがする)を取り出し、マリアの目の前に突き出した。
「!」
(あ、しまった)
表情を変えないものの、明らかにマリアは固まり、俺の指を凝視している。
無理もない。同じ年頃の同級生や乙女らときゃっきゃして交換し合うのとは、全く絵面が違うのである。
油断して距離を間違えたことで、大量に流れた冷や汗が急激に俺の体温を奪う。完璧に失敗した間抜け以外の何物でもない。
ついでに件のチーズは寂しそうに俺の指で挟まれたまま、パタパタと風に吹かれている。
「……」
こく、とマリアが喉を上下させる。
(え、まさかマリア……)
身構えた拍子に、列車の窓から吹き込んできた風に、それが飛んでいった。
「アッ、ちっ、チーズが!」
小さなチーズは一瞬にして、列車の外に風で運ばれてゆく。
せっかく作ってくれた弁当を俺の失態で捨ててしまっては、マリアに申し訳ない。ただでさえ考えなしにチーズを相手にぶら下げることで、ギクシャクした空気を作ってしまった罪もある。
身を乗り出し、チーズの破片を握ろうとした俺に、マリアの叫び声が届いた。
「旦那様!」
ふわりと身体が宙に浮く感覚がする。
(あれ?)
自分がどうなっているのか理解する前に、俺は走る汽車の窓から手を伸ばしているマリアを見つけた。
初めて、彼女は泣き出しそうな顔をしていた。
それに驚いて、呑気にも少し嬉しくなる。
(彼女にだって、泣ける時はあるのか。そっか、それなら安心だ)
実際は自分の現状に何一つ、安心要素などはなかった訳ではあるが、奥方の涙はそれをすっかり忘れてさせてしまった。
(いつも表情を変えないからなぁ、よかったよかった)
マリアに泣ける場所があると知った俺は、その時、心底ほっとしてしまった。
***
三日後。
『アーサー・ストウナー列車から飛び降り』の記事を片手に病院にやってきた男は、あろうことかマリアの片手に優雅にキスをした。
「恥を知れッ!」
悪友だが、人の奥方に触れるとはふてぇ野郎である。
その男こそが例の列車飛び降り一号目、新聞に載った阿呆変人であるのは、マリアも気づいたらしい。
阿保な癖して顔がいいので、気安くマリアにも話しかけて距離を縮めようとする。少しも昔と変わっていない。
友であろうと奥方にちょっかいを出されては黙ってはいられない。怒鳴って追い返そうとすると、むしろ楽しそうに笑い返された。
「今回赤っ恥をかいたのはキミだよ、アーサー。いやはや、期待を裏切らないね!」
「お前だって汽車から落ちただろ。出て行ってくれ」
「嫌だね。同じ汽車から落ちたオチトモじゃないか。
第一、結婚したことも報告がなかったじゃないか。酷いよなぁ。地方からこうやって心配して駆けつけたのに、この歓迎はないよ。折角だし、しばらく帝都にいさせてもらうね」
「オチトモって何だ、それ……」
油断も隙もない。こちらは結婚したばかりなので、断る理由にはなるだろう。
「拒否するからな」
ベッドに寝ていた俺の前に、マリアが悪友と向き合うようにして立った。
すかさず手を握ろうとする悪友を見逃さず、俺はマリアの手を引いた。
「旦那様、大丈夫です」
「マリア?」
「私は構いませんわ。旦那様のご友人なのでしょう。歓迎いたします」
そう言うと、マリアは優美な仕草で裾を引き、客人へ対する親愛の意味が込められた礼を取った。
友人の顔が輝く。
俺は思わず声を上げた。
「なんで?!」
「叫んだら傷に障ります。大人しくして下さいませ」
マリアの反応は実に冷たかった。
(ええそんな……俺、これでも夫じゃなかったっけな。まさか、あの時泣いていたのは、幻覚とかじゃあないよね……?)




