汽車(2)
大帝都駅は帝国の威信をかけて建てられた一大建造物だと、結婚前のアーサーはマリアに話していたことがある。
外からもその大きさが伺えたが、構内に足を踏み入れれば国立公園のような広さに、ほぅ、と息を吐いた。
鉄骨の間に屋根のように埋め込まれたあれは硝子だろうか。帝国の叡智、の宣伝もダテではない。
切符を売る駅員たちが並ぶ窓口で、行き先の切符を切ってもらう。
「はい。50ポエニになります」
いい値段をしているが、これでも最近は安くなっている方だ。と言っていたのもアーサーだ。
銅貨をちゃり、と音を立て駅員に渡すと、木版印刷で文字が刷られた切符が手に乗せられた。
行き先、運賃、発車時刻が印字されている。
時刻を確認したマリアは、ぱち、と瞬いた。
「1分後?」
「次のは20分後ですが、それなら走れば間に合いますよ。3番線です」
「ありがとう」
マリアが時計をちらちらと見ていたのを、駅員は気づいていたらしい。早くアーサーに会わないと間に合わないかもしれないのだから、焦るのも当然だった。
しかしそんなに露骨に、表情に表れていたのだろうか。
(私ってそんな顔に出る方だったかしら。自覚はなかったわ…)
汽車には車掌が乗り込み、そそくさと発車準備を進めていた。急がなければ。
石畳みのホームを低めのヒールで走る。
カンカンカンカンと小気味よい音と共に走り乗ると、汽笛が駅内に大きく響き渡った。
ブォオオオーーーー
シューーーーーーー
ゆっくりと汽車はホームから滑るように離れていく。
動き出した列車内で、マリアは心臓の脈動が早まっていくのを感じた。
何を隠そう、これがマリアにとって初めての列車体験になる。
鉄の箱が蒸気で動くという汽車の発明は、当初から人々には大事件でマリアも興味を持っていた。耳にたこができるくらい、連日話題になっていたほどだ。
けれど頑張れば自転車で行ける距離を高い切符代に費やす気にはなれず、ずっと話ばかりを聞いては乗る機会を見送っていたのだ。
(乗っている……今、私、汽車に乗っているんだわ!)
思わずはやる心で窓の外を覗く。
(は、走ってる……!)
聞きしに勝る速さで、汽車は加速していく。
ゴトゴトと揺れる車内は、まるで鍋の中ようだ。水が温められただけでこんなにも大きな鉄の塊を動かすのだから、不思議としか言い表せない。
レール、という金属板の上を走るらしいが、果たしてそれだけで汽車を動かせるものなのか、マリアには分からなかった。
(……本当に大丈夫なのよね。レールから外れたりしないのかしら。……旦那様は嬉々として話していたけど、大丈夫なのか不安になってくるわ……)
マリアは座るのも忘れ、座席の背もたれをぐっと掴む。
いざという時は列車から飛び降りなくてはいけないかもしれないわ、と深読みを重ねて腹を括る。
「マリア…?」
(私ったら怖がり過ぎてるわ。幻聴まで聞こえてきた)
「マリア、どうしてここにいるんだい?」
幻聴だと思っていたアーサーの声は、むしろはっきりと聞こえるようになっている。
振り返ったマリアは隣に、ぽや、とどこか間の抜けた顔をした長身の見慣れた顔の紳士が立っているのを認めた。
アーサー以外に、こんなに呑気そうな人はいないに違いない。
「……旦那様、なぜここにいるのです!」
「それはマリアもだよ!」
「わ、私は忘れ物を届けようとして。これです、今日の学会に必要なのではないですか?」
旅行鞄から取り出した羊皮紙の束に、アーサーはアッと声を上げる。
慌てて自分の鞄をガサゴソと探り、ないことを確認するときまり悪そうに頭をかいた。
「……ウン、それ、忘れてたよ」
「私の責任です。私が早くに起こせば、忘れることはなかったでしょうから」
頭を深々と下げた。
マリアの謝罪にアーサーは首を横に振る。
「そんなことはない。元からマリアには早起きさせちゃって、寝ている俺にも非はあるからね」
「一理あります」
「……あっさり認めたね」
アーサーでなかったら、こんな返答はしなかっただろう。
そうは言わず、マリアは紙束をアーサーにしっかりと手渡した。
「ごめんなさい」
やっぱり自分の中には罪悪感があったので、謝るべきだろう。それと決めれば頑固に譲らないのも、マリアの性格だった。
「届けることができ、ようございました」
「あ、ありがとう……」
何故かアーサーは羊皮紙の束を受け取るのに、申し訳なさそうな顔をした。
そもそも同じ汽車に乗っている経緯も謎だ。マリアは首を傾げる。
「どうされました?」
「いや、実はね」
ぽり、とこめかみを人差し指でかくと、アーサーは歯切れ悪く答えた。
「例の学会がね……主催の先生が腰をやっちゃったとかで、中止になったんだよ。
駅で切符を買おうとした時は前のが満席で、この時間からしか空いていなかったのはともかく、買った直後に学会中止の電報を受け取った同僚が駆けつけてきたから、間が悪かった」
「切符は買ってしまったからですね」
「そう。大学の方は人手も足りてるし俺の講義は元々ない予定だったから、大学に行く必要もない。
切符が無駄になるよりは使った方がいいかと思って、結局乗ったんだけど、まさかマリアに会うとは、びっくりしたよ。初めてなのによく乗れたね」
「子供扱いは止して下さいませ」
「それは失礼」
いい年をしているくせに、アーサーは悪戯っ子に似た笑みを浮かべる。
若作り、ともまた違う。第一、アーサーは若作りをするほどのナイスミドルではない。
「でも、学会は中止なのでしょう。どこに行く予定なのです?」
「まぁ、それはそこら辺をぷらぷらと…」
「非生産的です」
ばっさりと切り捨てられることを予期していたのか、アーサーは苦笑いで誤魔化そうとする。
「その辺をぷらっと歩いて帰ってご飯にありつこう、とは。旦那様、目を逸らさないで下さいませ」
「ま、まぁまぁ」
アーサーはマリアから分かりやすく視線を外し、きょときょとと周囲に走らせる。
最終的に奥に残っている窓際の空いている席に目を留めた。
「と、とりあえず座って話そうよ。ね?」
「はい。でも誤魔化されませんから」
「や、やっぱり?」
汽車の音が、先頭の方から響いて届く。
煙突から大きく吐き出された煙が、窓を超えてアーサーの顔に直撃した。途端にアーサーは咳き込んだ。
「ゴッホゴッホ!」
「……水を飲みます?」
涙目で頷いている。
どうにも締まらない人だと、マリアは思わずにはいられない。
(変な人……)
でもそんな夫が好ましいのも、やはり確かなことなのだ。