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元令嬢の結婚〜〜〜没落貴族の嫁と、大学教師の夫による日常筆録。〜〜〜  作者: ふゆき
 【本編】  元令嬢の日常と、その夫の少し昔のお話。
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汽車(1)



ミス・ノルデン。


または、マリア・ノルデン。


(懐かしい響きね)


今ではミセス・ストウナーとなったマリアは紅茶を淹れながら、しばし令嬢時代の自分を思い出す。


女学校では尽きることのないお家自慢に、意味不明の伝統や風習に縛られた毎日を過ごしていた。興味深いこともあったものの、マリア自身は元は爵位持ちでない家の出身であるためか、窮屈なことの方がよっぽど多かった。


先日の悪口は、まだ可愛い方だ。


公衆の目がない閉鎖的な学校内では、成り上がり貴族の子女には、古来貴族風の洗礼がお見舞いされる。


家名を敢えて間違って呼んだり、どこから仕入れたかも知れぬ家の内情を囁かれたり。風評被害も珍しくはない。


全く動じずにいると、相手がむきになって洗礼時間が長引くこともある。


特に彼女らが関心を寄せるのは、どんな婚約者を持っているか。その点でマリアは、十分に彼女たちを怒らせてしまう人を、婚約者として持っていた。


今でもはっきりと覚えている。一人目の婚約者は、まさに古来からの貴族の血筋だったはず。


(もっとも、血筋は自分のものじゃない限り、お金にはならないわ)



茶葉を漬ける残り時間を数え、茶こしをポットから出す。


夫が唯一美味しいとのたまわった紅茶くらいは、常に満足できる味を保っておきたいので、じっと注意を傾け作業する。


完璧と納得する一杯を淹れ終え、時計を確認する。いつもならば、もう鐘が鳴っててもおかしくはない時間なのに、今日はやけに余裕がある。


(まだ六時……あれ、さっきも同じだったような…)


じっと秒針を見つめ、止まっていることを発見したマリアは、机に置いてある夫の懐中時計の蓋を開けた。真顔で呟く。


「……旦那様、遅刻だわ」


夫は当然のように、ソファで丸まって寝ている。


肩を揺すっても、身長があるせいかなかなか動かない。


痩せ型の大きな犬がぐうぐう寝ているかのよう。


「起きて下さい、旦那様!」


「ん、あとちょっと…」


「起きなさい、アーサー!」


「え」


瞬時に起き上がったアーサーに紅茶のカップを押し付け、懐中時計を突き出す。


時刻を強制的に網膜に映した彼は、カップを取り落としそうになった。


「うわっ!」


「落ち着いて下さい」


想定内のことなので、しっかりと受け止め、もう一度アーサーに握らせ直す。


「家の時計が故障してしまったようです。私の責任です。ごめんなさい。これ飲んで、弁当はもう用意しましたから……」


「大変だ、今日はちょっと遠くの学会に出席なんだ! もう行く!」


熱々に湯気の立った紅茶をぱっかり開いた口に流し入れ、熱っ、と涙目になりながら、アーサーは乱雑に身支度を終えた。邪魔にはならないよう、適度に手を差し入れ、よれたシャツや曲がったネクタイを整える。


椅子に放り投げてあったよれよれの皮鞄を掴み、アーサーはドアノブに手を伸ばし開いた。


さっと布に包んだ弁当を渡す。


中の金属の箱には、切り分けたチーズや茹でたジャガイモが入っている。遠くに行くというから、咄嗟に朝食代わりのジャムパンも入れてある。


「本を参考にしましたので、前よりマシなはずです。パンは汽車の中か移動中にこっそり食べて下さい。いってらっしゃいませ、旦那様」


アーサーは何か言いたかったのか、躊躇したように口を開いた。


「……ああ、ありがとう。行ってくるね」


どうやら言いたかったことではない。けれど、問い詰めている時間はないので、はい、と頷きドアは閉じられた。




***




(何からやろうかしら)


一人になった部屋の中で、マリアは布巾で拭き掃除をしながら考える。


洗濯、掃き掃除、買い物に夕飯の支度。刺繍の嗜みがあれば、家計の足しにもなる。


新聞に覆っておいた本のことを思い出し、料理も上達しなければ、とするべき目録リストを整理してゆく。


アーサーの給料では雑用女中ハウスメイドを雇えないけれど、マリアからすれば、その分のお金で食事を豪華にした方が良い。


やれることは自分でやればいいのだ。


もっとも、そんな考えもかつての女学校では奇異だっただろう。


ふと、鞄の置いてあった椅子に羊皮紙の束があるのをマリアは見つけた。


表紙には今日の日付と、地方学会案内の文字が印字されている。


一枚(めく)ると間延びした筆記体で、つらつらと地方の文化について書かれていた。マリアには並程度の学はあるので、簡易な論文の形だとは読める。


そして自分の夫の癖字も、どんなものか分かってきた頃だった。


(これは旦那様の字ね)


優に二十枚は超えている紙束を前に、数秒ほど唇に指をやった。


(これ、今日の持ち物じゃないのかしら。私が慌てさせたせいで、忘れ物を……)


案内に書かれた地名は、汽車で五駅ほど遠くにある場所だった。傍にはご丁寧に、駅から会場となるやかたまでの地図も挟まれている。


するべき目録に連ねてあった全ての項目をすっ飛ばし、緊急最優先事項に『お届け物』と書き加えた。


手提げの小物入れにある財布の残金を確認し、外行きのドレスに着替える。学会は地方貴族の屋敷で開かれるらしいので、いつもの地味すぎる格好ではよくないような気がする。


鏡で自分を確認して、少し眉をひそめた。


(……私は、これでいいけれど……旦那様の同僚の方に会う時に備えて、少しは新しい型が必要かもしれないわ…。今思えば旦那様って、こんな私に不満も言わないくらいには、変わっている…)


その変わったところも、のんびり具合も、マリアは嫌いではない。……多分、好きな方だろう。


だからアーサーに忘れ物をさせてしまったのは、自分でも不徳とするところだった。


婦人用のバッグは紙束を入れるには小さ過ぎる。手頃な大きさの鞄が見当たらなかったので、仕方なしに旅行用鞄を引っ張り出す。


論文と財布、ハンカチはポケットに入れ、最後に自分用の弁当を詰め込んだ。


偶然にも今日は出掛け日和の、穏やかな晴天をしている。


空の蒼色に映える白の手袋を嵌める。金属の鍵でかちゃりと鍵をかけると、マリアも部屋を後にした。


まず目指すは、帝都の中心にある大帝都駅セントラル・ステーションだった。




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