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元令嬢の結婚〜〜〜没落貴族の嫁と、大学教師の夫による日常筆録。〜〜〜  作者: ふゆき
 【本編】  元令嬢の日常と、その夫の少し昔のお話。
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貸し本屋(3)



(あれも、これも、希少な地誌録までよく揃えてある。ここは楽園か!)


もっと早くに来ればよかったと地団駄を踏みたくなるような蔵書が、貸し本屋には完備されている。


感嘆の溜息を吐きたくなる。


(……良きかな!)


今も筋肉隆々とはほど遠いが、子供の頃はもっと病気がちだった。


お陰でひょろっとした頼りない体型に育ってしまったし、人と話すよりも専ら本を読むことに専念する生活をおくりがちになってしまった。


そんな俺にとって、世界を感じるすべである書物は身体の一部になっている。


結果として貴重な地図に熱中し、地誌の書籍を熟読し過ぎていたため、俺は異変に気づくのが遅れた。


数十分以上は読み込んでいただろう。


「まぁまぁ、奇遇ですわね!」


突然、貸し本屋にしては大きな声が棚の奥から聞こえた。何事かあったのかと煩わしく思いながら首を伸ばす。


豪奢なドレスを身にまとった貴族風の乙女たちが三、四人も集まって話している。


場所は先ほどまでマリアが腰を下ろしていた椅子に近い。


(まさか)


女性の気持ちを汲み取る特技などないが、俺もそこまで鈍感ではない。俺の奥方は大きな声で仲良く歓談する性質たちではないことくらい想像できる。


立っている乙女は、絹のような声音の中に棘を含んだ口調で話しかけた。


「いやだわ、まさか貸し本屋にいらっしゃるなんて、わたくし馬車から見た時信じられませんでしたわ。

本当にあの、ミス・ノルデンが、こんな、店に通うとは思いも寄りませんでしたもの。ここって本を借りる場所なのでしょう。それも誰が借りたかも分からない本を!」


貴族ならば本の一つや二つ、買う以外の選択肢は持たない。


有り体にマリアを嘲っている。マリアがどんな顔をして聞いているのかは、華美なドレスに隠れて見えない。


持っていた本をすぐ側にある棚に叩き付け、走る。無理に他の客を押し除けたために、非難の声が上がるものの、小さく詫びを入ながらも歩は緩めない。


マリアは眉一つも動かさず、椅子に座ったまま、恐らくは貴族だろう令嬢と相対している。


「さすがミス・ノルデンは違いますわね。私でしたら肌が荒れてしまいますもの、ねぇ」


「ええ。昔からミス・ノルデンは変わっていらしたけど、お変わりありませんのね。お家が傾いても、ちっとも……」


何を言われてもマリアは言い返していないようだった。


きっちりと唇を引き締め、決して開こうとはしない。それが癇に障るのか、悪しく罵る声は大きくなる。


「お返事くらいなさったら!」


「失礼」


俺の声に姦しく話していた貴族の令嬢たちが振り返る。


上背だけはある俺に、一瞬驚いた顔をする。


「…なんです」


「いえ……」


淑女の肩を掴んではいけない、とは言うが、この際適用されるかは疑わしい。


喧嘩が苦手でなかったら、多分、何か言い返す。


いや、苦手でも、一言言わなければ、と睨みを利かせようとすると、思わぬところから静止がかけられた。


「旦那様、もう、よろしいのですか」


「……マリア」


旦那、と聞いて令嬢たちの目線の棘が鋭くなる。自分にも敵意を含んだ眼差しが向けられる。


「……お噂には聞いていたけれど、ミス、ではもうないのでしたよね。確か、平民のお方とご結婚なされたとか」


平民、を殊更に強調したのはわざとに違いない。貸し本屋にいた客たちが殺気立つのにも構わない。美しいなりをしているが、骨まで生粋の嫌味な上流人の匂いが染みているのだろう。


ブロンドの髪を高く結い上げた令嬢の一人が、扇子を広げた。ちら、とこちらを見やる。


「礼儀のほどなど望むべくもないでしょうけれど、淑女レディに挨拶もございませんの」


どうやら俺に挨拶の催促をしているとは察せられた。しかし、全くそんな気分にはなれない。


かと言って年甲斐もなく大人気なく言い返せば、マリアの評判に傷がつく。


面倒なものだが、これが普通なのだから、困ったものだ。


(紳士でいるのも楽じゃないな。自分だけだったら、こんな面倒なこと……)


マリアが息を詰めている。俺の行動に全神経を傾けているのだと分かり、自然と身体が動いた。


令嬢たちを無視し、手を差し出す。


「マリア、おいで」


初めて、無表情だったマリアは目を丸くした。差し伸べられた掌を凝視する。俺の頷きを確認すると、そっと彼女の小さな手を乗せた。指先が冷たい。


ああ、これでいい。


「ちょっと! 挨拶なさるのが、礼儀でしょう!」


叫ぶブロンドに向き直ると、俺は努めて冷たく硬い声で言い捨てた。


「本日は妻の体調が優れぬようですので失礼します。貴女の名前を知りたくはありませんので、私から挨拶するのは控えさせて頂きましょう」


強く押し問答できる訳ではないので、麗しい顔をしていた乙女たちの怒りを受ける前に、その場を背にした。


手のなかに収まっていたマリアの指が、きゅっとすぼむ。何事にも動じなさそうな奥方だが、案外、素直な一面があるのかもしれない、とどこか嬉しくなって表情を覗き見る。


既にいつもの無表情へと戻っていた。


「旦那様、パンをお忘れになっております。あと、本も借りてないでしょう」


「えっ、パン?! あっ、そ、そうね…」


本を選ぶのに限らず、切り替えの早さまで尋常ではない。多少は気まずくなってもいいだろうに、元の調子である。


「本もです」


「でもこの状況で本を借りるのは、気まずくないかい?」


「何故です?」


「今しがた口論したばかりじゃないか!」


「私は口論しておりませんわ。それに借りて帰らなかったら、後悔するでしょう。早く借りて来て下さい。待ってますから」


そっと握ってから、マリアは手を離した。


「何冊まで?」


「三冊」


相変わらずの現実的な返答とは、俺の奥方らしい。


それにしても、待っている、の言葉は良いものだ。誰かが待っているのは、幸福の一つだとどこかの偉大な詩人も謳っていた。




翌日の朝、マリアの借りた本が目立たないように新聞で挟まれていたので、こっそりと新聞を捲り、表紙を確認した。


『超時短! 激ウマ料理帖レシピ〜旨味の塊で胃袋をつかむ魔法〜』


「……」


見なかったことにするべく、新聞をかけ直した。


俺の奥方、マリア・ストウナーはやはりどこか変わっている。



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