木漏れ日(2)
校長への感謝を、と考えたわけであるが、その日の午後にこれは一考する必要がありそうだと思い直した。教師の妻が手伝いをしている、という情報は恐ろしい速度で伝播するに違いない。
(楽観視するのには時期尚早だったかな)
そもそも女性が希少過ぎるのに、マリアの楚々とした容姿は人目を引く。ギョッとしてから、じい、と見つめる男子生徒たちには油断ならない。
というか、今まで教員室には極力避けていたくせして、露骨に質問を持ってやってきては、マリアのことを意識しているのである。何をしにきたのか、聞く方がアホではなかろうか。
「こら、聞きなさい」
「聞いてますよー。局所的な気候の変動については、この本の資料を参考にすれはいいんですよね。あとは大学の史料の中でも、人口に関する目録と照らし合わせてみると。
政治的観点と気候、人口の変動は昔ほど顕著に見られるんでしたっけ……ありがとうございます、これで論文も進みそうです!」
大正解。全く可愛くないが、言っていることはしっかり聞いている。
「…大学の史料は今は借りられているかもしれない。司書の方に一筆書くから、代わりに確認してもらいなさい。時間が惜しいからね」
「はーい」
返事をする間にも、視線はマリアの方を向いている。ぺち、と頬を叩いてやると、誤魔化すように笑ってみせた。
「野郎の笑顔は癒しにもならないぞ」
「えへへ」
何がえへへなのか。微妙に愛嬌があるのが羨ましい。
コーヒーが入ったマグを持った若教師が後ろをスキップするように通っていく。生徒もいるというのに、去り際に一言茶化された。
「ミスター、学校で公私混同はやめてくださいよ!」
若教師の言葉に、ビクッとマリアが肩を震わせた。ガリ、と音を立て、手元の羽根ペンが滑っている。
「……」
若教師が俺に目配せする。あれ、まずったかな、と分かりやすく顔に書いてあるが、マリアの反応は俺にとっても意外だった。無表情で受け流しそうなもなのに。
(うーん、思ったより俺の奥方は照れ屋さんなのかも)
それならそれで大変良きモノである。生徒に許可書を書いてやりつつ、頷いた。
「……よし、これを渡せば面倒な手続きが省ける。気張りなさい。
これくらい練られた水準の論文が書けるなら、早くから相談してくれた方が、進みも良かっただろうに。次は遠慮するなよ」
「年の終わりまでにはあと五十回は来ます!」
「それ、目的は論文じゃないな?」
年の終わりといったら、マリアの手伝いの期限でもある。
「えへへ」
懲りない生徒である。いつのまにか書類整理をすっかり終えたマリアは、とぽとぽと紅茶を淹れていた。
「…帰る前に紅茶でも飲んで行ったらいかがですか」
途端にふざけ顔の生徒は恐縮しながら、真面目そうな面持ちに変わった。実にふざけ顔の残像が見えるのでは、と思える速さだった。
そうだろう、そうだろう。俺の奥方は綺麗なのは当然のようにして、所作が何より美しいからこちらまで身が引き締まる。紅茶の匂いが鼻腔をくすぐるタイミングで、マリアは俺にもカップを渡した。
どうすれば、とこちらを伺った生徒に頷く。せっかくなのだ。この味は独り占めするには惜しい。
「いただきマス…」
「はい。……それと、思い出したのですが、先ほど話してらした人口の史料、大学にないなら…確か……」
「あれ、家のどこかにあった?」
「いいえ。でもあの大きな貸し本屋なら、あるかもしれませんわ。それか学術書に特化した貸し本屋なら」
「ああ! 貸し本屋にも専門があるんだっけ…それは思いつかなかった。うん、それも手だ」
「統計史料は難しいですけれど、古い貸し本ならあるかもしれません。大学の近くなら、春通りに一軒、ありますわ」
生徒は驚いたように目を大きくし、はい、と首肯した。
マリアの異色さは見目だけではない。聡明なことも、話せば自然と分かる。
(いよいよ油断はできないな。生徒たちがマリアのことを騒ぐのも時間の問題になるぞ…)
一抹の不安を膨らませる。公私混同するなと笑われたばかりだが、早速、どうしたものか、と悩んでいると、ドアがノックされた。
「入りなさい」
ガチャ、と開かれたドアの先に、ずらりと立ち並ぶ生徒たちがいた。そろいもそろって、片手には授業のノートか書きかけの論文らしい紙束を抱えている。
「ミスター・まどぎ……じゃなくて先生、質問があって参りました!」
「ミドル……でもなくて先生、俺も質問がたくさんあって」
「俺は論文のことで相談が…」
「なんにも用事はないですが、先生の体調が気になって、とりあえずノートは持って伺いに来ましたー!
っておいお前、なんでここにいるんだよ? みんなで行こうって言ったのに、抜けがけしてたのか?!」
「あれ、ほんとだ! おい、ザックが紅茶飲んでるぞ!」
立て続けに質問や相談だと主張する生徒。紅茶をすすっていた生徒に飛ぶ、驚きの言葉と非難。
「……」
隠す気もないくらいに分かりやすい。
(…アハハ、巷の安い劇場の演目並みに間抜けだな。しかしこんなに騒がれて、気を悪くされたら……こ、これはマリアには、謝るしかないな)
そっと隣に立つマリアを盗み見る。
「ごめんよ、うるさくして。彼らなりの歓迎で、その、ウン、がっかりしないでくれたら。
これが普通の男子大学生なもので、紳士らしくはないけど、俺も大体この年では似たようなモノだったわけで……つまり、呆れないでくれるかい…?」
「はい、分かりましたわ」
そしてマリアはぽつ、と呟いた。
「先生は生徒たちに人気ですのね」
「……」
「冗談です」
珍しく、くす、と彼女は笑ってみせた。




