木漏れ日(1)
最近のマリアの交友関係は、社交期の訪れとともに広がっている。この間は俺の妹、ステファニー・ヨークと百貨店に買い物を楽しんだらしい。いいことである。
……いいことではあるが正直、少し寂しい。俺と過ごす時間ちょっと減ってませんか、と聞きたいが、俺が面倒くさい恋人みたいになりそうなので我慢している。
油断してハロルドに愚痴をこぼしてしまったところ、遠慮なく笑われた。
「もう十分面倒くさいヤツになってるよ。観念しな!」
「うるさいわ!」
しかるべき天誅を下そうとしたが、あははは、と悪友は笑い声を上げながら華麗に逃げ回る。速い速い。
遊び人であるし、過去に何人ものご令嬢から、そうやって逃げてきたに違いない。悔しいほどの俊足だったが、最後は執念で首根っこを捕まえてやった。
そんな折に、大学に来たのである。
誰が来たかなど、この際愚問だろう。
それは、古の王国の成立と地理のつながりについて、くどくど解説いている途中のことだった。
チョークがポキポキ折れるので、困ったなぁ、とか思いつつ俺は喋り続けていた。
「つまり、ここの滅亡は建国の時から予期されうるものと考えて、いいわけだ。異論もあるだろうが、個人的には面白い仮説だと思う。特に南に注目して議論を進めよう」
乱筆で大きく貼られた地図に書き込みつつ、黒板から講堂に目を移す。そこで俺は固まった。
(……はッ!?)
きっちりとまとめられた黒髪に、思慮深そうな碧の瞳。
その持ち主が俺の講義を見つめている。一番後ろの席に腰を下ろし、背筋を伸ばして聞いている。
男子生徒たちは全員、前の席で固まって座っている。そのために後ろの人物に、気づいていないようだった。
(……幻覚かな?)
とりあえずそう、思うことにする。
ポキ、とチョークが折れた。焦った俺の足は、その破片をしっかりと踏みつけた。
「アッ、いや、大丈夫、大丈夫!」
身を乗り出した生徒に静止をかける。優しい心遣いだが、チョークの破片を拾った拍子に後ろを向くとも限らない。そうすれば、一番後ろの席に座る例の人を見つけてしまう。
(いや、別に俺の幻覚なら、そんな心配もないが!)
ちびたチョークで、ぐるぐる、無意味に地図の地名を丸で囲む。
「えっとぉ、で、あるので……その、このね、き、北の方から、議論が必要……じゃなくて、南だった、そう、南から議論を……」
酷いどもりに、生徒は眉を潜めた。なんとも申し訳ないが、突然の衝撃に俺は動揺しっぱなしである。心臓もどくどく、変に大きく拍動している。
「南は、そう、この家系の一族が治めていたのは、誰でも知ってる…」
「先生、そこは王国の西を治めていたかと思います」
「あ、そうそう、西だ……いや、すまない…本当に」
生徒に迷惑かける教師ほど、馬に蹴られて犬に食われた方がいい者はいない。いくらなんでもな失態だった。つぅ、と冷や汗が流れる。
その時になり、静かな一言が飛んできた。
「……サー、その一族の最後の子女は、紛争で没落したあと後に南の一角に流され、名ばかりではありますが南の辺境を治めています。
現在でも古きの血、の生き残りと表現されている。ですので、完全な間違いではないかと」
生徒全員が後ろを向いた。
その人の言った内容が、的確で教養もあるのは理由の一つだろう。しかし、それが主な理由にはならない。それは明らかだった。
大学にはいないはずの女性の声をしていた。その事実に、全員が肝を潰されたように驚き、首を向ける。
俺を助けてくれたその人は、大勢の視線に少したじろい様子を見せた。微妙に緊張した顔をする。
けれど怯えた風ではない。すぐに、すっと優雅に席から腰を上げた。ふわり、と風が立つ。
細い指でスカートの裾をつまみ、首を垂れる。帝国の格式高い礼儀を体現するような、美しいお辞儀に幾人かの生徒が息をのむ。
本人には無自覚の気品。
「授業を中断してしまい、失礼いたしました。また、先日の舞踏会でもお騒がせし、重ねて謝罪申し上げます。
ミスター・ストウナーの妻マリア・ストウナーと申します」
講義室にどよめきが上がる。俺の足元が浮いた。本当に驚いた時、人間は飛び上がるものなのだ。
(まさか、本当にマリア?!
ちょっと待った、理解できる容量を超えてる……なんでここに…)
一人冷静に、マリアは白い頬をあげる。薄紅の唇が開かれた。
「謝罪を学長に申し上げましたら、実のある労働の方が有り難いとおっしゃられまして…」
(言う! あの頑固現実主義の悪徳商人みたいなジジィなら、言うな!)
本校の学長は間違いなく学者として優秀だが、それ以外でも頭は回るしガメツイ。現に俺も、先日飛び出したダンスパーティーで、極貧予算に苦しんだばかりだった。
貴族のみに入学の許される学校と、この大学は十分に張り合う。そんなレベルの学園は、あれくらいに何モツも持っている爺でなければ、創れない。
生徒たちも、ああ、と納得したような、酢を飲んだような苦い顔をする。
「また、時には女性教師も学校に必要とのことでした」
言葉を切り、マリアはもう一度、優美な礼をした。
「そのため本日より学長の推薦をいただき、サー・ストウナーの補佐、および教養授業を12月の月末、今年の祝日まで務めることとなりました。
どうぞ、よろしくお願い申し上げます」
「……」
しいん、とした沈黙が講義室を包む。
今度はゆっくりと、俺の方へ生徒の視線が移動する。
(……ほ、ほほう…)
ぱきゃ、と手中で残っていたチョークが折れた。
(な、なるほどね。……紛うことなき、俺の奥方が、大学にいらっしゃるので、間違いはないわけだ)
確かに交流を増やしたかったのだが、これは想像だにしていなかった。
(……とりあえず学長にはお礼を言うかな)
しかしこの前の予算の恨みはある。
バランスを取り、ペラペラにやっすい菓子折りを持って行くのが、賢い選択になりそうだった。
更新遅くなりました…。読んでくださりありがとうございます。




