坊やとお嬢さま(3)
アーサー・ストウナーは自分の妻と妹が盛り上がっているとはいざ知らず、向かいの談話室で心配していた。
(マリア、ステファニーとは仲良くなれているといいけど……アレはアクの強い妹御であるから、苦手にするご令嬢もいるんだよなぁ)
俺の奥方であれば大丈夫、とは信じている。しかし信じているものの、やっぱり気になるものは気になるのだ。
ステファニーについてはさほど心配していない。彼女は兄のことを、不用意には言わなない。妹の口の固さを俺はよく知っている。
ただ、妹が律儀すぎるのが問題だった。
(俺について何も言わないことを、マリアが嫌がっても当然だな。隠しごとばっかりの夫って……浮気者と、同義じゃないか?)
「アーサー伯父さん、なにを悩んでるの?」
「……自分の悪業に、悩んでるんだよ」
「あくぎょう?」
「悪いことをしているから、後ろめたいんだよ。マックス、足の先まで紳士でいなさい」
執事が退室し、監視の目がいなくなったマックスは、ソファの端をぷらぷらと蹴っていた。俺の注意にピシッと足をそろえ、ぱちぱちと瞬きをする。
「アーサー伯父さんの悪いことは、ボクの足よりもあくぎょうになる?」
「そうだね。隠しごとをしているから」
「隠しごとなら、ボクにもしてるじゃない。母上もアーサー伯父さんについて教えてくれないことは、たくさんあるよ。でも、それはボクの安全のためにも、『仕方ない』ことなんでしょう?」
「…うん、そうだね。伯父さんは隠している方が、良いと思うから、今もまだ言わないよ。いつかはマックスの母上が教える。それは嫌かい?」
「全然」
思わぬ返答に、言葉が詰まる。
「なんで?」
「ボクだって忙しいんだ!アーサー伯父さんの隠しごとがあったって、勉強とピアノの練習と、ダンスの練習と、たくさんやらなくてちゃいけないんだから!」
だからね、と幾分大人びた顔でマックスは続けた。
「今、自分ではどうにもならないことは、無理に聞かない。それがなくなって、ボクはアーサー伯父さんに大切にされているのは変わらないんでしょう」
「ステファニーが言っていた?」
「うん、母上が言ってくれた」
「……そうか」
呟きながら頷くマックスの頭をなでた。妹には、こんないい甥っ子を育てたことに感謝しなければならない。
(マリアにステファニーに、俺は貸しを作ってる人が多いな)
「でもいつかは教えてね」
「ああ、約束するよ」
「マリア伯母さまにも、隠しごとばっかりはダメだよ」
「……」
今度は俺が瞬きをする番だった。
「マックスにマリアのことだと、話したかい」
「ううん、でも、今日のアーサー伯父さんはなぜか分かりやすいから。紳士の礼儀だし、マリア伯母様には秘密にしてあげる。だから、早く解決してよ」
さらりと言ってのけるのである。こちらとしてはまさか、小さい甥っ子にまで借りを作るとは、予想外だった。
「……成長したなぁ」
するとマックスはすまし顔で紅茶を口に運んだ。ちゃんと背筋を伸ばし、キリッとした目でふふん、といった風に俺の方を見る。
「紳士に近づいてる?」
もう数年すれば、完璧な生意気小僧になるかもしれない。しかしどこまでも愛らしい。
ふわりと微笑みつつ、俺も紅茶を片手に答える。
「ああ……ただ、紳士は紅茶一杯に砂糖は三つも入れないけどね」
「アーサー伯父さん!」
「はは、そう怒るなって」
不服そうな甥っ子の頭をくしゃっと撫で、高級茶葉を味わった。
***
「今度、一緒に買い物をしに行く約束をしたの。嫉妬してもいいわよ、アーサー兄様」
ニコと華やかな笑みをたたえ、ステファニーは俺に自慢する。隣ではマリアが少し、照れたように頷いた。
(よかった、気が合ったみたいだな)
「ご一緒した方がいいかい?」
「いいえ、淑女には旦那様にも秘密の交流は必要なのよ!」
ね、と問うステファニーに、マリアは、はい、と嬉しげに答えた。どうやらかなり仲良くなれた模様だ。
「マリア伯母さま、ボクはご一緒してもいいでしょう?」
妹だけではなく甥っ子にも気に入られたマリアは、今度はマックスに熱心に話しかけられる。
(ステファニーならダメよ、と言うな)
その予想は外れた。
妹はマリアとマックスを見守りながら、俺の近くへと立った。カツン、とヒールの音が床に響く。
「……アーサー兄様、あの人の動きは、知ってる…?」
「……知ってるよ」
久しぶりに、件と関係する人と話す。言葉少なでも、十分に空気は緊張したものに変わる。
「また、権力を増したわね」
「議会の扱い方を知っているからね。人心のなんたるかも、よく理解している。悪くない、だから俺は傍観するよ」
ステファニーの瞳が燃えるように光を反射した。小声でまくし立てる。
「為政者の成りは、全部アーサー兄様が教えたことよ、分かってる……?!」
「分かってるよ。それにお前が巻き込まれてたことも、これから完全に縁が切れることがないことも、分かってるよ」
そっと、ステファニーの頭をなでる。マックスと同じ形の瞳が、見開かれる。
「…すまない」
「……許します。もう、とっくに許してるわ。ミスター・グレイだって了承しているのよ」
「ああ、ハロルドには感謝してる」
本当に自分は借しばかりなのだ。平穏な生活を望むのは、案外難しいものだった。
「でもね………マリアは違うでしょ」
「……」
「マリアは当事者よ。私たちの関係に触れない優しさに、いつまで兄様は甘えるの?」
マリアはマックスと、楽しそうに会話を続けている。どうやらマックスに汽車がどんな仕組みで動いているのか、説明しているらしい。勤勉なので、興味を持ったことはすぐに調べていたのだろう。
俺の奥方が、こちらを向いた。俺と妹の視線に応えるように、マックスの肩を抱き、ふわりと微笑む。
「……マリアには、いつになったら全部を言うの?」
ステファニーの質問を、俺だって誰かに聞いてみたかった。いつならマリアに赦されるのか。
「分からないよ……」
全然、この年になっても分からない。
年をとって分かったのは、この世界には、答えが迷子になっている問いが、意外と多く降り積もっている……という、その程度のことだった。




