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元令嬢の結婚〜〜〜没落貴族の嫁と、大学教師の夫による日常筆録。〜〜〜  作者: ふゆき
 【本編】  元令嬢の日常と、その夫の少し昔のお話。
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貸し本屋(2)



予想した通り翌日の朝から、小雨が淡く街を濡らしていた。


いつの間にか寝台から身を起こしていたマリアが、カーテンを紫色の紐でくくっているのを寝ぼけ眼で確認する。


俺の寝床は奥方の寝台の隣にあるベッド、ではなく、年季の入ったソファになる。寝返りを打つたびにギイギイと音が鳴り、のびができないのが難点なものの、快適な睡眠には十分用足りる。


「…おはよう」


「今朝は起きるのが遅くなったので、飲んだら出ましょう。パンは争奪戦ですから」


「え?」


「私と同じものをお目当てのにしている奥様方は多いのです。早く買いに行かないと」


ぱたぱたと床に散らばった本や衣類を抱えつつ、マリアはぐいと俺の腕を引っ張った。


仕草は可愛らしいけれど、意外と彼女は力が強い。


「いたた、ちょっと待とうよマリア」


「夜更かしのしすぎで眠いのは自業自得ですわ。朝は起きなさい!

それに旦那様、また、昨日は靴下を籠に入れてませんわね。次同じことをしたら、ご飯抜きですから」


言葉の端々に女傑っぽさを感じながら、俺は仕方なしに頭を叩き起こした。忘れぬ内にしっかりと『靴下は籠』と脳内に書き記しておく。


傍目からすれば、まるで普通の夫婦だろう。




マリアの言う通り、確かにパン屋は戦場になっており、俺はしばし呆然と店の外で立ち尽くした。


黄色い歓声ではなく、血の色の叫びが、長閑なはずのパン屋から響いている。


「この半額のパンは、私の分なのよ!」


「嘘おっしゃい、それは私のよ! あなたは三割引のパンを持っていたわ!」


店主は何故、三割引と半額のパンに分けたのかは知らないが、戦場と化した店内に足が退いた。


無精髭の俺にでさえもにこやかに挨拶をしてくれた年配の老婦人が、俊敏な動きでパンを棚から掻っ攫って行く。


……ナルホド、一種の面白味さえある。


「旦那様は待っていて下さい。邪魔ですから」


さりげなく俺を貶めた奥方は、涼しい顔をして入店した。


(……君子危うきに近寄らず)


果たして、マリアは両手にパンの詰め込まれた紙袋を抱えて出てきた。喧騒を背に汗一つかかず、無言で歩いてくる姿は神々しささえある。


王笏おうしゃくと宝珠みたいだね……」


「だったら苦労はしませんわ」


「持とうか」


マリアの碧の瞳が、ちら、と光を反射する。雨のせいかいつもより、深い緑色をしている。


「買わなかったのですから、持つのは旦那様と決まっております」


どうやら失言だった模様。戦わずしてご飯にありつくのは、賞賛されるべきことではないのだから、当然のことか、と思い直し詫びるために会釈をする。


「これは、お詫び申し上げます、ミセス」


「……」


実に冷たい目線を俺の奥方は浴びせかけた。


「ごめん、はい、持ちます」


交換するようにして、マリアの手に傘の柄を渡す。自分の家にあった二本の内、一本は布地がぼろぼろに擦れ切れてしまっていたので、一本しかない。


しかも元はマリアの持ち物であるので、一人入るにしても小ぶりだった。


色合いは飴色がかった茶で、年頃の女性が持つにしては地味過ぎる。しかし持ち主はそう思ってはいないのだろう。


「…一本しかないのは不便だから、やっぱり傘も買わないとね。マリアは何色が好き?」


「ないのは私の分ではなく、旦那様の分でしょう」


「マリアは傘、欲しくない?」


「私が欲しかったのはパンですから。それも買えました」


こちらを向くことなく、真っ直ぐ前を見つめながら真顔で返答する。見目が整っているだけならともかく、大抵の反応がこれであるから煙たがれることもあるらしい。


どうしたものかな。


押し付けるように買ってしまっては、怒られそうな雰囲気である。


「……」


ぽつ、と何かをマリアが呟いた。


「え、なんて?」


「……男性の方は、黒が普通でしょう……」


「何が?」


「……傘!」


傘の色の話の続きだと合点がいき、ああ、と首を縦に振る。


傘に限らず、紳士のほとんどの持ち物は黒で統一されている。黒に厳格な人も多く、色が入っているのは絵画だけではないか、と冗談でも言われるほどなのだから、傘の標準色スタンダードは黒と決まっている。


「新しい傘、買うなら黒がよろしいと思います」


「それよりマリアの好きな色にしないか」


「結構です」


すい、と飴色の傘が閉じられた。


目前に石柱の聳える博物館のような建物が立っていることに、ようやく気づく。目当ての貸し本屋のはずだが、まるで神殿のような煌びやかな外観をしている。


これは相当に繁盛しなければ造れない。


思わず口を開けた。田舎者のように首を振り仰いでしまう。


「こんな本屋あったのか……帝国でも指折りの貸し本屋じゃないか」


「お気に召しましたか」


そう言うと、奥方は口を半開きにした俺を置いてさっさと入館してしまった。


正面玄関の婦人向けの棚に一直線、突進する勢いで駆けて行く。数人の青年が手持ちの本から目を離し、マリアへと目線を吸い寄せるが、肝心の本人は全く気にも留めない。


ざっと陳列された本棚を斜めに確認するや否や、数冊を掴み取り会計の元へと移動した。こちらが息をつく暇もない。


さっさと借りる手続きを済ませてしまうと、隅っこの椅子に腰を下ろした。


丁寧に一頁目をめくり、周りへの意識を遮断するのも慣れたものだ。因みに俺は、まだどの本棚を物色するかさえ決めていない。


俺が遅いのか、マリアのペースが異常なのかは分からないが、恐らく後者だろう。


即決即断、今思えば結婚を決断したのも早かった。物静かで話さない一方、行動はさながら嵐だ。


「……あんなに読みたかったのか」


これからはたまに連れて来よう。独りごちつつ、こちらもいそいそと、恐ろしく膨大な本棚紹介一覧の吟味作業に入った。




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