坊やとお嬢さま(1)
着替えの途中で手を止める。するとすぐにマリアの頭の中は、アーサーとの、あのダンスの余韻へ巻き戻される。
くる、とターンして目を見合わせた時の夫の笑顔は、意外と破壊力があった。実は今でも少し、動揺している。
(まただわ、もう、この間から、ずっとこれね!)
着替えを再開して、記憶を押し留めようと頭を横に振った。はらはらとこぼれる黒い長髪をむんずと捕まえ、左右の二つの房に分ける。
指を素早く動かして三つ編みに髪を結うと、さらにそれを上にまとめた。いつもはそこで終了だけれど、今日は天鵞絨のリボンで華を添える。
髪飾りや綺麗めのドレスにしたのは、貴族の邸宅へ招かれたからだ。
馬車に轢かれそうになっていたところを助けた、例の坊やの両親から手紙が届いたのだ。
ぜひともお礼がしたいらしい。『当家の子息をお助けいただき』云々との丁寧なお礼状には、『ぜひぜひ、もてなさせて頂きたく』とも書いてあった。
紳士な言葉遣いの貴族はよくいる。しかし、ここまで腰の低い貴族も珍しいと思う。
(金貨を与えて終わり、がいい方なのに。どんな人かしら)
考えながら、鏡の前で回ってみた。
この間の事件で、一番の一張羅はボロボロになってしまった。二番目によい品のドレスはうんと時代遅れだけれど、品は悪くない。
「旦那様、これでどうでしょう」
「う、うん……問題ナイよ」
妙におどおどしている口調のアーサーは、煙草の火をもみ消した。顔が緊張している。
(あら、これも珍しい。煙草、吸う人だったのね)
マリアは首を傾げる。結構な時間が経っているけれど、アーサーはまだタイも結んでいなかった。落ち着かない夫の代わりに、クローゼットからネクタイを取り出し、アーサーの胸元へ当てる。
「青か緑、それともオレンジにします?」
「あの……いや、どうせバレるから今の内に言っておくけど…」
「はい?」
「実は……」
夫は頭をかいて、動きを止めた。もちろん口も止まっている。
(タイの色、渋いオレンジにしましょう)
アーサーの意見は待たずにマリアは決定した。さっさと首に通すと、シャツの襟元に留めてあげる。
(うん、いい感じね。若く見えるわ)
マリアは満足して頷いた。自分の夫がよく見えるのは、自分がよく見えることよりも嬉しく思う。妻になってみて実感したことだった。
アーサーはタイが結ばれていることに、全く意識が向いていないらしい。先をもみ消した煙草をもう一度くわえ、眉根にシワを寄せた。
「実は……今回、の、その、子供ね」
長い指でマリアの持つ招待状を指した。
「…俺の……甥っ子だよ。その、妹の子なんだ」
「…あら」
マリアは目を見開いた。
「世間は狭いのですね」
あの坊やが似ていたはずだ。アーサーの血縁だったとは。
遠目からでも分かったのだから、自分もそれなりにアーサーを分かり始めているのかもしれない。
「じゃあお久しぶりに会うのでしょう。私、この格好で大丈夫かしら。妹さんに悪印象を持たれはしないですよね」
さらりと受け入れたマリアに、アーサーは口を間抜けに半開きにした。
「……気にならないの?」
何に対しての質問か、さすがに察せられる。
アーサーの妹が貴族の家の奥様ならば、アーサーが普通の教師であるのはおかしい。二人にこうも身分の差があるのは、違和感の塊だ。坊やの顔立ちからして、全く血の繋がらない妹とは考えにくい。
質問には答えず、質問で返す。
「気にしてほしいですか?」
「……いいや」
「じゃあ聞きませんわ。私、そこまで出しゃばりにはなりたくありませんもの」
アーサーの話せる範囲でいい。アーサーはマリアの事情をほじくり返そうとはしなかったのだから、自分もそうするべきだろう。
ただ、貴族のお宅訪問から、夫の妹に会いに行く用事に変わっただけ。
アーサーの告白は、重大な内容なのかもしれないが、マリアにとって重要であるかは、また別の問題なのだ。自分でも驚くくらい、すんなりと、そう思った。
そんな一間を挟んで、アーサーの妹との対面になった。
「兄様であると、お伝えした?!」
アーサーの妹である夫人は、マリアが事情を知っていると聞いて、驚愕した顔をする。隣に立つ小さな坊やの手を握り、もう片方の手で口を抑えた。
「それは……びっくりだわ…。私、他人のフリをするか、ちょっとした知人のフリをするか、どんな対応でもするつもりだったのよ」
「ははは、いつもはそんな感じだからね。今回はギリギリまで悩んだんだけど、身を呈して甥っ子を守ってくれたマリアに、もう、嘘をつきたくはなかったから」
アーサーは膝を折り曲げ、坊やに向かって腕を広げた。
「マックス、今日は伯父さんだとバレてもいい日だからね」
「じゃあ、ハロルドさんが来た日と同じ?」
「そう、よく分かった。だからおいで、マックス。アーサー伯父さんにハグをさせてくれるかい?」
チラッとマックス坊やはマリアに目を走らせる。マリアはお辞儀をした。
坊やはそれで安心したのか、とてとてと走ると、アーサーの首に腕を回した。
「どうだ、大きくなったかい?」
「多分……努力はしてるんだよ!」
努力ね、とアーサーは笑う。筋肉がついているようには見えない細身の身体で、軽々と坊やを持ち上げた。
「そぅれ!」
「アーサー兄様、ギックリ腰にはならないでよ!」
アーサーの妹が、愛おしそうにその光景を見守る。目元涼やかな美人で、緩やかな癖毛がアーサーに似ていた。
(本当に兄妹なのね…)
「じゃあ、大きくなった、いい子のマックス。久しぶりに伯父さんの話も聞いてくれるね?」
顔をすり寄せ、キスをしたアーサーに、マックスは頷いた。
「いいよ。何をすればいい?」
「伯父さんの奥方に、自己紹介を。あとは、何か言うことがあるばずだよ。マックスを助けてくれた人なんだから」
アーサーはゆっくりとマックスを床に降ろす。またとてとてと走ったマックス坊やは、今度はマリアの前でピタリ、と足をそろえた。
真っ直ぐにマリアを見て、片手を腰に、片手を胸にやってお辞儀をする。
「お初にお目にかかります、マクシミリアン・ヨークともうします。助けてくださり、ありがとうございます、えぇっと、ミセス…」
きっといつもはアーサー伯父さんと呼んでいるのだろう。苗字を言い淀むアーサーに目線を合わせ、腰を落とす。
「マリア、です。マリア・ストウナー。マリア伯母さんになりますわね」
にぱ、とマックスは破顔した。まだまだ子供で、幼いのに、やはりどこかアーサーに似ている。
「ありがとうございます、マリア伯母さま!」
マリアはアーサーと目を見合わせた。
(…可愛いわ……!)




