自鳴琴(5)
帝都病院に着いた時には、時計の短針がひとつ分進んでいた。
消毒液と鉄の匂い。どんな病院でも馴染みの匂いに心細くなる。白い清潔なスカートを身につけている病院の看護師は、素早くリストを斜め読みした。
「マリア・ストウナー様は3病棟におります。右奥の病床です」
礼を言うのも忘れ、言われた場所へと走る。
広い病棟に、白いベッドが棒菓子のように並んでいる。その一つから、黒髪が覗いているのがマリアに違いない。見慣れた黒曜の長い髪は、結ばれずに解かれていた。
目は閉じられたまま。枕に頭をのせ、顔は上を向いている。
人形ように整然とした横顔。
柔らかそうな頬は、今では蝋のように白い肌をしている。そして、淡い紅色だった唇が色を失くしているのを見て、俺の心臓の鼓動は一度止まってしまった。
なんで、帰らなかったのか。後悔しても遅い。
ぱた、ぱた、と断続的に雫が手の甲に落ちる。
そっとマリアの方へ顔を近づける。
ぱた。
また水滴が落下した。落ちた場所はマリアの頬だった。一体、雨でも降っているのかな、と思う。
ザーザーと、雨音が鼓膜に聞こえている。秋雨は、帝国の風物詩の一つだった。
いつの間にか、雨が降っていた。
(外が雨なら、雨漏りでもしているのかも……)
頭の片隅で、そんなことを考えながら、俺はマリアの顔を真正面に見た。
ぱた。
今度雫が落ちたのは、唇だった。
ふ、とマリアの眉が、ひそめられたような気がした。
「……ん」
マリアの睫毛が、ゆっくりと、蝶が羽を揺らすように、けぶるように動く。
……動いている………!
「……マリアッ…!」
ベッドを倒しそうな勢いでつかむ。ギシギシと鉄枠が音を立てて揺れる。
(なにを言えば!)
慌てるばかりで、混乱してしまいそうだ。いや、きっと、今の俺は全然混乱している。
「マリア……おきて………」
まるで子供だ。
俺の方がずっと年上なのに。
「おきてよ……」
そんな情けない嘆願に、俺の奥方はかちりと瞳を見開いてくれた。ちょっとだけ、ふわふわした碧の瞳が、ゆっくりと焦点を結ぶ。
白い唇が、開いた。
「……泣いてます…?」
「……どこが?」
顔に手をやると、確かに泣いている。なら、これは涙なのか。全然分からなかった。
自覚すると涙は次から次へと溢れ出る。
「ごめん、待って、待って、止まるよ……止まるから」
「……ええ」
マリアが無表情のまま、俺の頭に手を伸ばす。
そうっと、子供を甘やかすように俺の髪をなでる。かと思うと、ふわりと抱きしめられた。
俺の頭は、マリアの肩と胸の間にすっぽりと収まる。温い体温をしていた。
ぽん、とまた、髪をなでられた。
「……大丈夫です。旦那様が泣くことなどないのです。大丈夫ですよ………じきに、すぐ止まります」
「………うん」
「大丈夫……大丈夫です、きっと、止みますから」
「……うん」
子守唄を歌うような声で、マリアは言葉を紡ぐ。雨は窓を細かく濡らしている。
マリアの変わらない表情と、優しい声音に、俺はしばらく目を閉じる。子供に戻ったような、情けない気持ちをなくしたくて、マリアの身体を強く抱きしめた。
***
病床まできた医者は、泣いて取り乱している俺を呆れたような顔で見た。
「奥様の方がしっかりしてらっしゃる」
そうコメントすると、カルテを確認した。
「安心なさい。大事ないですよ」
曰く、マリアは軽い怪我と貧血があるものの、大きな問題はないらしい。馬車には間一髪、轢かれていなかった。馬の勢いが強すぎて、轢かれたものと勘違いされたのだ。
「今日、というか、今からでも退院できますよ。どうぞお大事になさってください」
その言葉は嘘ではなく、マリアはなんの不自由もなく帰路についている。
馬車に乗った方が負担はないけれど、馬車の事故に遭った直後なのだ。いかんともしがたいジレンマである。
「…馬を嫌いになった?」
どうでもいい、しかもタイミングの悪い質問だった。マリアは律儀に首を横に振る。
「いいえ」
「馬車は?」
「いいえ。便利で、ただ、少し高い乗り物ですわ」
とても馬車に轢かれそうになった直後とは思えない。
街灯がポツリ、ポツリと夜の帝都を照らしていた。秋雨は小さいので、傘を持たなくても歩いていける。
よろめいたように、マリアの上体が傾いた。
「マリア!」
叫んで抱き止める。俺のコートの中くらいに、つかまれた感触がした。
見れば、マリアの細い指が、自分のコートに食い込んでいる。咄嗟に肩ごと自分の方へ引き寄せる。
「大丈夫?」
こくん、とマリアは頷いた。
「本当に?」
「ええ、大丈夫です。心配をかけました。……それよりも旦那様、聞こえますか?」
マリアの瞳は、街路の遠くを見据えている。日が沈んでいるせいで、街灯の明かりしかはっきりとは見えない。
「音って何の?」
「自鳴琴の音です」
「……自鳴琴?」
はい、と首肯した奥方と同じ方向に、耳を澄ませる。
風と雨に紛れ、微かに音楽が流れていた。
マリアの言ったとおり、小さな光の粒のような自鳴琴の音をしている。通りにひっそりと、優しい旋律が漂う。
曲名には聞き覚えがあった。そっと呟く。
「……ラスト・ワルツ」
一昔前に、よく舞踏会で使われていた定番だった。時を経ても、褪せることのない美しい曲調をしている。
どれほど二人で聞き入っていたかは分からない。
すい、と引き合うようにして、マリアの手が俺の肩に、俺の手がマリアの腰へと移動した。糸で吊られるように、足を踏み出す。
ステップ。右、右、右、ターン。
そして前、左へ揺れて動く。
くるりと回転したマリア後ろ肩越しに、互いの手を取り合う。正面を見つめながら、さらにターンをする。
誰がリードするでもない。互いに合わせながら、たまには踏み出しながら、たまには相手に流されるようにして、足を運ぶ。
ピタリと、寄せ合う近さで俺の奥方は見つめてきた。
碧の綺麗な瞳が、街灯の明かりを反射して、輝く。唇は一文字に引き締められたままだけれど、どこか楽しそうだった。
むくむくと、悪戯心が湧き上がる。ダンスパーティーでは定番の文句を、芝居かかった口調で言ってみる。
「ミセス、お上手ですね」
マリアが目を見開く。
そしてきゅっと、口角を少し上げ、微かに微笑んだ。
「…それはありがとう存じます」
俺の奥方は幸せそうに、微笑んでいた。自鳴琴の音色は、柔らかに続いてゆく。
楽しげに、マリアは付け加えて言った。
「きっと、素敵なエスコートのおかげですわ!」




