自鳴琴(4)
大学は門扉から、道やら、らせん階段やら学堂まで、お祭りのように華やいでいる。
(いや、本当に祭りだったな)
ふうふう言いながら、アーサーは階段を登り降りする。隣の若い色男な教師も、汗ばんでいる。
ダンスパーティーはもうすぐ開始する。その前になって、楽団の人数不足が判明した。
かと思えば遅刻の報告がきたり、教頭のシャツ選びに付き合わされた。シャツなぞ全部同じにしか見えない。阿保らしい難題だった。
若教師はタイを緩め、眉をひそめる。
「これで何往復目だ。全く、学長も人使いが荒いな! ミスター。三十回はここ、往復しましたよね」
「数えてないよ」
数える余裕もなかった。予算削減のために自分が演奏する案を真面目に考えていたものの、実行しなくて賢明だった。
どちらにしろこの階段を降りたら、全ての雑務は終了する。後はマリアを待ち、バーティーに参加するだけでいい。
階段の下から男子生徒の話し声が響く。足を止めて、階下を覗く。
生徒たちが互いのスネを蹴り合い、からかってはふざけていた。体力が有り余っているようで、羨ましい。
人差し指を生徒のいる方へ伸ばす。
「……おい!」
びくっとした後、男子生徒たちは自分の方へ首を向けた。少しまずったな、とでもいう顔をする。焦ったように、まだ話している友の袖を引く男子もいた。まだ子供なのだ。
可愛い限り。そう、つい、思う。
しかし、教師以前に紳士として、彼らには注意せねばなるまい。
「若人、お嬢様方をほっぽり出して遊ぶなよ」
「……!」
「誘った相手のエスコートで緊張したか? いくら気まずくとも、逃げるのはナシだ」
途端に生徒たちは、バツの悪そうな顔をした。同時に目は、反抗的に光らせている。
やはり。図星である証拠だ。
(ははは若い、若いな。まぁ、舞踏会の淑女はとりわけ、魅力的に映るからな)
しかも前もって誘った相手なのだから、なおさら美しい花だろう。どうすればいいか分からないのも、当然だ。だから彼らは幼いし、まだひねていない誠実さを持つ。
伸ばしていた指を会場の方にくいっ、と向けた。早く入れという合図だと、全員に伝わっただろう。
「話題に困ったら、ドレスを褒めなさい。多弁な男は白ける。自分が語るよりも、相手の話に耳を傾けること。
以上、もう始まる時間だ!」
訓練された軍隊のように、生徒はぴしりと表情を引き締めた。
数秒互いの目を見合わせる。一人は何事かを呟く。それに頷き合うと、こちらを見据えてきた。
一斉に口を開く。
「……先生、感謝いたします!」
言うや否や、蜘蛛の子を散らすように、学堂へ行ってしまった。
サー。その響きに、計らずも驚かされる。
「……何ヶ月ぶりかな」
「ああ、ミスター・窓際とばかり言われてましたもんね! 最近はミドルに移りそうだったけど、軌道修正されるかな?」
楽しそうに、若教師は目を細めた。
「でも、今のは俺でもいいと思いましたよ。さすが、伊達に年を食ってらっしゃらない!」
「それはどうも、微妙な褒め言葉をありがとう。あまりベタ褒めは照れるから、それくらいが丁度いいな。でも、若いのは一瞬だよ。君だってじきに分かる」
だから、生徒たちは輝かしいのだ。
そして同じ理由で、俺はマリアに触れることも躊躇ってしまう。
マリアの真っ直ぐに伸びた、しなやかで強い生命力は、自分にはないものだ。いまだに、自分には不釣り合いな奥方だと思うことがある。
若木は日の当たる新しい森でこそ、最も美しい。自分はぼうぼうに雑草の伸びた、雑木林みたいなものだろう。
若教師は俺の言葉に、首を横に振った。
「それはミスターの誤解ですね。若さは年だけではありませんよ。紳士たるもの、心は穏やかでも停滞は禁物でしょう。いくつであっても、若さを保つのは、できるはずです」
「……いやぁ、難しくないかい?」
「そんなこと言ったら、紳士に求めるられるのは、全て難しいですよ! 全部最初はね、難しい。なんでも慣れですよ。若いことに、慣れるんです。後は努力」
「……なるほど」
その考えはなかった。
雅な彫刻で飾られた柱を抜ける。学堂のシャンデリアは無数の光を散らし、蝶のように色とりどりの令嬢たちを照らしていた。大学では滅多にお目にかかれない、壮観な景色だろう。
若教師は嬉しげに口笛を吹いた。今日一番のご機嫌である。
「やあやあ、美しいですね。よくみんな、誘ってくれましたよ。頑張ったモンですね。私もこれで、たくさんのレディと踊れます」
「生徒の恋路の邪魔は……」
「野暮ですね! 私がするとでも?」
「どうせ、すると思ってるよ」
ふん、と不遜そうな鼻息が聞こえた。この同僚は悪友ハロルドとは違うが、どこか危なそうな、妖しい魅力がある。やはり美男はお得に違いない。
「しますよ。せっかくの機会ですしね! お優しいミスターとしては、反対ですか?」
「邪魔があれば、恋は燃えるものだから反対はしないよ。生徒たちにもいい経験だろう。お手並拝見とさせていただくよ」
「分かってらっしゃる!」
乾杯の合図が、学長から出された。
整然と並べられていたシャンパンを一つ若教師に渡すと、自分も片手に準備する。そして、もう一人分、と残った手でグラスを取った。
会場を見渡す。
そのもう一人が、どこにも見当たらない。
(マリア、まだ来ていない……)
深いオリーブ色は今年の流行から外れている。見つけやすいはずが、あの後ろ姿はどうにも見つからない。
マリアが遅刻するのは、初めてのことだ。この季節、時間に間に合わない人は珍しくない。それでも彼女は、大学の場所には自信がありそうだった。
油断していた。無理矢理にでも一回家に帰り、一緒に来るべきだった。
マリアに甘えてしまったのを後悔する。
(やっぱり、辻馬車を呼んでおけばよかった。歩くのも寒いだろうし、帰りは絶対いい馬車を手配しょう)
今はどこにいるのだろうか。どうにも落ち着かない。
学堂で乾杯をする気分ではない。そうするくらいなら、外で待っていたい。
寒いだろうけど、門の外で立っていれば、マリア来た時に一番に駆けつけられる。
「……失礼」
グラスを戻そうと輪から離れる。
まさにグラスを置こうとした時。走る靴音と、扉を開け放ち、叫ぶ声が学堂に響き渡った。
「アーサー………!」
「……ハロルド………?」
突然の来訪に何事と、会場は静まり返った。何人もの視線が自分に突き刺さる。
汗だくの悪友が俺に駆け寄り、肩を潰すように強くつかむ。
(………駄目だ……)
こういう時、絶対よいことはない。ハロルドは安っぽい騙し方はしない。悪友の性格を、俺は理解しているつもりだ。
ハロルドの血走った目が、こちらを見据える。
「よく聞けよ。…………マリア嬢が、馬車に、轢かれた………」
「……」
……ほら、と思う。
ほら、やっぱり、俺は阿保極まりないのだ。
生徒には令嬢たちを放っぽり出すなと言っておきながら、マリアを一人にしていた。ベラベラ説教して、マリアの元には行かなかった。おしゃべりな男とは、俺ではないか。
……これで自分が紳士なぞ、白けてしまう。
「帝都病院にいる、今すぐ行け!」
「……ああ」
返事をしたはずが、手からグラスが滑り落ちた。
パリン、と音を立て、ガラスの破片は星屑のように飛び散る。
元に戻ることは、もう、できない。
いつの間にか、大学を飛び出していた。
背後からは、楽団の演奏が微かに聞こえ初めている。
一人の事情でせっかくの舞踏会を中断してしまった。物々しい空気を和らげ、気を取り直すように、明るい音楽が奏でられている。
マリアとは何度も練習を重ねた。何度も、今日のダンスパーティーを想像していた。
少なくとも今日の朝、ドレスを見たときは幸せで仕方なかったのだ。
それも、もう、できそうにはなかった。




