自鳴琴(3)
ダンスパーティーの当日の朝は、綺麗な快晴となっていた。空だけ見ていれば、秋の寒風が嘘のよう。
マリアは鏡の前に立ち、映る自分を見つめた。
火かき棒や傘を買うのは忘れていなかったのに、自分のドレスのことは失念していた。なので、昔の一張羅を引っ張り出した。
緩やかな曲線で肩を包む、深いオリーブ色の古いドレス。
(いかにも流行遅れね。買った当時だって、無理をしていい品を、としたせいで、古いデザインしか頼めなかったもの。仕方ないわ)
唯一いいことと言えば、手入れはしてあるので、色褪せは少ない点だろう。黒味を帯びた緑は、美しい色をしている。
(及第点……ならいいけど)
マリアとしては、問題はない。大切なのは、自分がどう思うかではないのだ。
「あの、マリア、もういいかい?」
アーサーがそわそわとしているのは伝わっていた。マリアの心臓が一際大きく拍動する。
「……はい」
なんだか落ち着かない。自分立ちの部屋にいるのに、緊張している。
「はい、旦那様。着替え終わりました」
後ろを向いていたアーサーが、恐る恐るマリアの方へ向く。
視界の隅で、マリアは鏡に映る自分の横顔を見た。多分、すごく強張っている。
「……」
アーサーは、じっと見つめている。瞬きもしないで固まっている。
(少し、長すぎでは……?)
ふい、と耐えきれずにマリアは視線を逸らす。
「……どうですか。舞踏会に、相応しいといいのですが。何か言って下さい。じゃないと、分かりません…」
何が分からないのか、マリアにも分からない。感想を催促するのは淑女違反とも知っている。
「……」
アーサーは何も言わず、マリアの前まで歩を進めた。
タンーーー
靴音が止まる。
やっぱりアーサーは、マリアを見つめている。自分が実験動物にでもなった気分だ。
(き、気まずい。あのアーサー相手でも気まずいことはあるのね)
「……早く、仰いなさい」
痺れを切らしたマリアに、アーサーは躊躇してから腕を伸ばした。そっとマリアの手を取る。
「とても美しいよ」
「……そうですか。そんな一言を言うのに、時間をかけすぎです」
悶々としたのに、平均的なお世辞しか出てこないとは。予想通り、平凡な批評であった。
(そんな言葉に、嬉しくなるのも事実ではあるけれど…)
「あ、ハイ」
マリアの心中を知らぬアーサーは、しゅんとしたように手を引っ込めた。もう少しくらい、手を取っていて欲しかったような、そんな気もする。
(でもいいわ。今日は何度でも手を繋いで、踊るんだから)
スカートの裾をはらい、マリアは自分を納得させた。
「じゃあ今日はこれで行きます。大学の方で、午後四時からでよろしいですね」
「ウン。場所は……」
「知っております」
「そう。でも、俺は仕事と準備もあるから、もう出るけど本当に一人で行って、大丈夫? 道が分かっていても、迷子になるかもしれない。辻馬車を呼んでおこうか」
アーサーは心配性なのだ。マリアは首を横に振る。
「いいえ、歩きますわ」
「でも、せっかくのドレスを汚すかも」
「気をつけますから」
ポットにお湯を注ぐ。今日は華やかな香りの茶葉を用意した。
「パーティーなんだから、本来は上馬車に乗ってもいいくらいじゃないか」
「それは上流人の乗り物であって、呼べるものではないですわ。そもそも、家として所有するものでしょう」
「そうだけど」
「もう!」
フチが欠けたカップに、ポットからの紅茶を注いでアーサーへ渡した。
この、ちょっとボロいコップは自分たちの立場を表している。平民、それ以下でもそれ以上でもない。なのに上馬車を、とアーサーは言う。
ズレてる、変な、でも優しい人が、自分の夫だ。
「もう時間です。飲んだら大学へ行く時間でしょう。今日の紅茶は香りごと、何も入れずに味わうのがおすすめです」
大人しく、アーサーはマリアの言葉に従った。
「…うまい」
2人でゆっくりと味わう。
微かに耳に、煌めく金属的な音楽をとらえ、マリアは窓の外を仰いだ。
遠くないどこかから、流れている。アーサーも耳を澄ますように、瞬きをした。
一つ一つの音が、跳ねるように輝いている。マリアは呟いた。
「いい、自鳴琴ですわね…」
「……ああ、ね、懐かしい響きだ」
アーサーは遠くを見ているような目をして、答える。
マリアには、アーサーの懐かしい、の意味は分からない。だから相槌はうたないで、アーサーの横顔に視線を落とした。
(多分、懐かしいのは、私と出会う前のアーサーの思い出ね)
数十年分、アーサーの中にはマリアはいない。同じように、ついこの間まで、マリアの中にアーサーはいない。
今日のダンスパーティーが、アーサーの思い出の中に書き加えられたらいい。
今度はマリアがアーサーを見つめながら、そう思う。
アーサーが早めに家を出、家事を終わらせるとマリアも部屋を後にした。落ち着いた灰色のコートの下には、シワひとつないドレスを着ている。
まだダンスパーティーの集合時間までは余裕がある。
(自鳴琴のお店、どこにあるのかしら)
音のする方向だけを頼りに、右、左、前、と歩く。
目当ての自鳴琴の店は、向かいの通りの先、さらに少し歩いた洒落た街通りに佇んでいた。蔦で覆われた、可愛らしい外観をしている。
どうやらマリアと同じ考えをしている人は多かったらしい。子供たちや、制服に身を包んだ女生徒、杖持った紳士が足を止め、聞き入っている。
(これは、商売上手な店主だわ)
マリアも遠巻きに、耳を澄ませる。
やはり子供たちは珍しいのか、共に固まって、はしゃいでいた。貧しい乞食の見なりもいれば、上等そうな服の坊やもいる。さすがに貴族の子が混ざっているとは思えないが、珍しい。
そのおぼっちゃまな風体の子供に、思わず視線を向け、マリアは首を捻った。
(誰かに似ているわ。後ろ姿だけじゃ、分かりにくいけど、ううん……誰かしら? あ、横向いた。やっぱり……鼻筋が通ってるのも、整った二重なのも、見覚えがあるのよね…。ううん…)
随分利発そうな子だけれど。
その誰か、とイメージがズレているのか思い出せない。そうする間にも、少年は遠くから母親らしき女性に呼ばれ、後ろを向いてしまった。
仕方ない、こういうのはその内、突然思い出すものだ。
駆け出した少年を、ちらりと目に収めてマリアはその場を離れようとした。
(……あ!)
思い出したわけではない。
少年のすぐ横の通りから、現れた辻馬車の馬が、他の馬車を避けようとしている。
(駄目、距離が近すぎる!)
マリアが判断すると同時に、馬の嘶きが響き渡る。興奮した馬は、御者の静止も聞かずに、走り出す。
走る先には、あの坊やがいた。気づいていない。
「危ないぞ!」
「暴れ馬だ!」
騒ぎ声で、少年は異常に気づいたものの、足が竦んでいるのか動かない。
逃げる人波に逆らい、マリアは疾走すると少年に手を伸ばした。
「伏せなさい!」
頭上で割れるような大きな馬の足音と、人の悲鳴が響く。
暴風に吹き飛ばされたような衝撃が、腕に、足に、身体に伝わる。
(……馬鹿ね。これじゃあパーティーは、論外だわ)
否応なく閉じてゆく目蓋で、視界は霞んでいる。少年の顔は、すぐ間近にある。
(……あら)
この距離でようやく分かった。
(なんだ、この子、アーサーに似てたのね)
間抜けな雰囲気がないから、全然、そうとは気づけなかった。
大変な状況なのに、ふふ、とマリアは笑いそうになってしまった。
遅くなりました。
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