自鳴琴(2)
マリアとの最初のダンス練習まで、俺、アーサー・ストウナーは綿密な準備をせっせと行った。なにしろ、俺の奥方がどれくらい『苦手』なのか分からない。
なので、結構な気合いを入れて臨んだのだ。
事前に行ったのは、マリアと訪れたことのある帝都の貸し本屋だった。熟考した上で、『はじめてのダンス・パーティー』『舞踏会、古今東西』を借り、二冊とも大学の休憩中を利用して読破した。
ダンスパーティーが始まる前からのマナー、簡単なステップ、男性のリードの仕方、女性の姿勢などなど。貴族階級というよりは、上流人向けの内容になっている。
所々簡略化され、敷居が低めの舞踏会に近い。今回の大学主催のダンスパーティーにはもってこいだろう。
(一通りは、俺の子供時代の教育で事足りるな……あれはあれで、英才教育が行き過ぎたようなものだったけど、こんなところで役に立つとは)
それ以上の確認は不要と判断し、さらなる本に手を伸ばした。
『ほめてのばす子育て術』。
(これ……ううん、貸し本屋の指導書ランキングの首位だってお勧めされたけど、少し、ズレてるよなぁ)
一応教師であるのに、教えるのには自信がない。借りている代金ももったいないので、しっかりと読み込んだ。意外と面白く、甥っ子で実践してみたくはなった。
ところがそれが、思わぬ弊害を生んだのである。
不真面目な生徒は、こういう時に限って目ざとい。ミスター・窓際に子供ができたと、俺としてはままならない噂が先週から立っていた。レポート課題も出さないくせに、どこで調査したのか、今週に入って事実関係の裏が取れ、子供の存在は否定されたらしい。
すると、噂は新しいものへすり替わっていた。
曰く、『妻に冷たくされた侘しい男性教師が、妄想のために子育て本を借りた』。
(ソレ、完全に変態だろう! 誰が侘しい男性教師だって言うんだ。マリアに冷たくはされていない、なにしろ、アレが平常状態だもんな。確かにあまり笑わないけど、その良さも分からんとは。
しかし、侘しさを身に着けてこそ、一人前の渋さが備わるものだっているのに……)
若者にはその魅力が理解できないらしい。たいへん、たいへん、それは実に残念なことだ。
***
「子育て本を借りてる変態って、来るところまでキタよなぁ。アーサー、大学を解雇されて困るのはお前だけじゃないんだぜ。
マリア嬢も変態夫の世話は御免だろうからな。離婚届を出された時は、渋らずにサインしてやれよ」
縁起でもない戯言を言うのは、やはり悪友のハロルド・グレイ。当然のように大学の休憩室のソファに寝っ転がり、伸びをしている。
煙草を勧められる。
窓を開け、俺は久しぶりに机から煙管を取り出した。服の袖で申し訳程度に擦り、綺麗にすると、それを口にくわえる。
ハロルドが柔らかな煙草の葉を、煙管の火皿に詰めた。マッチを慎重に擦り、葉に火を灯す。
甘味と苦味、優しくひりつく舌の上。結婚して以来になる味が、口内に広がる。
「ありがとう」
「どうも」
「……マリアが離婚届を、ってことだけど……その時は離婚届を破くね。マリアは意外と強く押したら、引いてくれる人だよ。
……そもそも、若者からしたら、俺の世代はもう、寂れている過渡期に入っているんだよ。多分ね。お前だって色男だけど、マリアたち乙女からしたら、瑞々しさのない、侘しい人になるかもしれない。それはしょうがないことだろう」
これは嫌味ではない。大体、時代はそうやって移ろってゆくものだ。
ハロルドは何が楽しいのか、ニンマリと笑みを作る。
「俺のは侘しいじゃあないぞ。憂いている、に入るんだよ。だからアーサーは分かってない。アンニョイアンニュイな男と陰気な野郎は全くの別モンだ」
「曲解!」
反論するも、優雅に指を横に振ってかわされる。鼻につくが、やはり婦人方が騒ぐのが無理もない、整った成りをしている。
「それで、ダンスの方はどうなんだ?」
「それ、マリアの前では出さないでくれよ。彼女は酷く気にしているし、子育て本の誤解がなかったら、お前には言わなかったつもりだったんだから」
そう言ってもう一吹き、煙草を味わう。
「…………ダンスは、リード役があるだろう。普通男性が、女性のリードをして踊る。だけど、マリアにはそれが要らないんだよ」
「へぇ」
「いや、要らないんじゃないな。マリアがリードする。
マリアは男性に導かれながら、足でステップを踏むのが下手なんだよ。マリア自身が、相手の導き役になれば、つまり俺が本来は女性がやる役割をできれば、上手いよ。
うん、全然、上手い。無駄がない、マリアらしい優美なダンスをするね。えっと、なんと言うか……」
もう一口、煙草を吸った。いやに口が寂しく感じる。今まで煙管をくわえていて、こんなことはなかった。
「のんびりお話ししながら、踊りましょう、って感じではないんだな」
「それは……社交界向きじゃないな。男性にリードさせないよってなったら、そりゃダンスも下手にならざるえない。ははぁ、こりゃまた個性的なご婦人だな」
ハロルドの言うことはもっともだった。
マリアのステップも、ターンも、いくら華麗だとして、貴族の坊ちゃんには不評に違いない。彼女が自分がダンスが下手だと思い込むのも、理解できた。
(さて、どうしようか)
そう思いながら弁当の包みを解く。ふわりと、温い温度が手に伝わる。
新聞紙にはソーセージ、豆やキノコの挟まれたパンからは目玉焼きも見える。煙管をくわえていていても、寂しかった口の渇きが突然、消えてなくなった。
煙管を口から離す。時と同じように、人だって変わる。
ダンスパーティーが開かれるのは、明日。
次回11/11投稿予定
2019/11/10訂正 次回11/14投稿予定にします
遅くなりますがどうぞよろしくお願いします




