バイオリン(1)
一人早く起きると、まずはカレンダーを確認する。
もう11月へ移り変わった日付に、マリアはそろそろ冬支度を始める頃に入るわねと判断した。
ついでに、過去の記憶が頭の中を掠める。
(11月が終われば、12月。招待状、招待状、返信、招待状。どの便箋を使うか、時間の無駄遣いみたいに悩むのは、大体今頃から始まっていたわね)
社交期がゆっくり到来するのは、12月の頭からになる。貴族たちはどの家にどの程度丁寧なお誘いをするべきか、信じられないほどの時間をかけて手紙を送る。
マリアも、父母と共に頭を悩ませていたものだ。
(インクの色も、香水の匂いも、決めてて楽しいのは最初の一年目くらいなものだわ)
執事に任せてばかりでは、相手にもバレてしまうので、匙加減が大切なのだ。
どれくらい、自分の見栄を傷つけずに、たくさんの人々を誘えるか。
ドレスを新調するなら、本当は借金をしている家計を、どれくらい圧迫させられるのか。
良いことがなかった訳ではない。それでも主な目的と言ったら、一つ。
どれくらい、マリア・ノルデンの家は侯爵の体裁を取り繕えているか。
徹頭徹尾、これに尽きる。
(……ええ、茶番だったわね!)
思い出はあくまで過去、今ではない。一刀両断すると、幾分すっきりとした。
(それより、冬支度よ。薪を入れる場所を作らなくちゃならないわ。この部屋、そんな余裕あったかしら)
そう思いつつ、ソファでそれは幸せそうにすやすや寝ている夫の毛布を剥いだ。
「旦那様、起きなさい。朝です」
すっかり日常となりつつあるマリアの口上に、アーサーは目をしばしばとさせながら、ゆっくりと起き上がる。
「紅茶は濃いめでよろしいですわね?」
「……うん」
針金の人形みたいな動きでアーサーはソファから這い出る。マリアからカップを受け取ると、飲みながら大きな伸びをした。
靄に隠れていた朝焼けが、雲の間から窓ガラスへ差す。
色づいた木の葉が美しい。
「ああ………もう、秋の盛りか」
ぽつりと呟いて、アーサーは机に羊皮紙の束を置いた。
珍しく大学の方が忙しいらしく、最近はずっと朝から書類やら何やらを片付けている。
(仕事があるのはいいことだわ。でも、これって残業代、出るのかしら)
スープを皿に盛りながら、マリアは首をひねる。
楽観視はしていない。アーサーが落ち込むといけないので聞かないでいるが、お給料に関してあまり期待はできないわ、とは思っていた。
食べやすいよう、アーサーのスープの皿に乗せるスプーンは一番大きめの物を選んでいる。
アーサーは書類に目を落としながら、口にスプーンを運んだりくわえたりしている。
(子供っぽいのよね。前、庇われた時は大人だとは思ったけど、やっぱり基本は気の抜けた旦那様だわ)
そう思いながら一応のため、念を押すように言った。
「今日は帰りが遅くなります。この部屋には毛布も何も、足りないものが多いので、買いに行かないと。旦那様、聞いてます?」
「うん、うん、聞いてるよ」
空返事に違いない。
そっと伺うように聞いてみる。
「百貨店の催事もあるようで、また舶来の品々のお披露目でしょうけど、旦那様は興味がおありではないですか」
「……」
すっかり上の空だ。
アーサーは職業柄、異国の調度品や書物が好きらしい。小さな食器は東方の幾何学文様で飾られているし、ランプは繊細なガラス細工で飾られている。
それでもこの頃は、そんな趣味にかまけている暇もないほど書類を睨んでいるのだ。
(そっとしておこう)
心配ではあるけれど、マリアも優しい夫の邪魔にはなりたくなかったので、しばらくはそのままにすることにした。
午前いっぱいで家の仕事を終えると、マリアは外に出かけた。
アーサーの家には本当に足りないものがいくらでもある。それは嫌いではないけれど、冬を二人で迎えるのには心許なさすぎる。
(靴ももう一足は欲しいわ。でも安物じゃ保たないし、コートの裏地だって張り替えないと……。火かき棒がなくなってるのには驚いたわね)
結局火かき棒も最後まで見つからなかったので、もう買わなければならない。そうしなければ、冬の寒さで凍え死んでしまう。
脳内で必要な物と予算の間を往復する。
見よう見まねで覚えた値切り交渉にも慣れてきた。
「お願い。これも買うから、15ポエニはまけてちょうだいな」
火かき棒と一緒に黒い傘をカウンターに置く。店の主人は首をひねって唸る。
ここからが正念場なのだ。
「12ポエニ」
「…10ポエニはどうだい」
「12よ」
最後には11ポエニの値引きで決定した。
紙で包みながら店主はぼやく。
「参ったね、オマケで買った傘だろうけど、これはいい品なんだよ。大切に使ってくれよ。はいどうぞ、ではまたご贔屓に」
侯爵家なりに育ててもらったお陰で、物を見る目には自信がある。良い買い物をしたわ、と傘を片手に、両の肩には買い物袋を下げて街を歩く。
百貨店の前の街路樹が葉を落とす。
百貨店は貴族や上流人、金持ちの地主がほぼ全ての客層を占めている。マリアはショーウィンドウを眺めることもせず、ただ通り過ぎようとした。
カララランンーーー
ドアベルの音と共に、ガラスの扉が開く。
思わずマリアはそれを目で追った。
「本日は誠にありがとうございます。またお越しくださいませ」
ドアマンが頭を下げ、ドレスの貴婦人を見送る。
栗色の滑らかな髪を葡萄色の小さな帽子に詰めた貴婦人は、ドアマンに軽く会釈をすると日傘を開いた。
細く白い鼻筋に、見覚えのあるソバカスが散っている。
相手もマリアを認めると、すぐに誰だか分かったらしい。光沢のある手袋をした手を口元に当て、数秒固まった。
「マリア……」
声はマリアよりも高め、可愛い女性らしい美声のままだ。
女学院の時と全く変わらなかった。
「奇遇ね。エミリア、もうマナー・ハウスに?」
旧友と目を見合わせながら、マリアもゆっくりと微笑んだ。エミリアとは月に数度、手紙をやり取りしている。
しかしこんなに早く、帝都入りをするとは聞いていなかった。
「かなり駆け足で帝都にきたのよ。ここのマナー・ハウスに移ったのは三日前くらいなの。
今年、夫が社交界で顔出しする機会が増えそうだから、早めに移動しておこうと思って。でも嬉しいわ、マリアと会えるなんて!」
マリアとエミリアは互いの手の平を合わせた。
貴婦人と荷物いっぱいの平民がはしゃいでいるのだから、他からすれば不思議な光景になる。
実際、ドアマンは驚いているようだ。
「社交界に出る回数が増えるなら、家にはめでたいことじゃないの、おめでとう」
「でも住んでるのが西の端よ。田舎っぽいって言われて、絶対、一筋縄ではいかないわ。まぁ、それも買い物してたら忘れてしまったけど!」
そうね、と相槌を打つ。エミリアはマリアの大荷物に気づくと、側のカフェを指差した。
「よかったらお茶でも?」
断る理由などない。マリアは笑顔で答えた。
「もちろんよ、奥様」
少々ふざけたマリアの返答に、友人は楽しそうに笑い声を上げた。




