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元令嬢の結婚〜〜〜没落貴族の嫁と、大学教師の夫による日常筆録。〜〜〜  作者: ふゆき
 【本編】  元令嬢の日常と、その夫の少し昔のお話。
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貸し本屋(1)


俺の奥方は少し変わっている。


パッと外見だけを見てしまうと、とても綺麗な碧の瞳をしているし、黒曜石のような黒髪を複雑な三つ編みにして結わえているから、美しい女性としか思えないだろう。


実際、どこか近寄りがたいような雰囲気をしている。一平民の、婚期もとうに過ぎた俺には不釣合いな奥方なのだ。


でも、とても不器用な人だ。姿に似合わず豪快だし、気は……長い方ではない。


それが災いして俺の職場へ乗り込んだこともある。俺の給料が不当に滞納されたと知って、大学の学長室まで直談判したのだ。それを聞いた俺は、教壇で倒れそうになってしまった。


「不況だから、前々から給料は遅れると言ってたじゃないか。職場はしがない大学だしさ、仕方ないことだったんだよ。なのに学長って! もう、心臓が止まるかと……」


半泣きの俺に、奥方は言い切った。


「不況とお給料は別だわ!」


そして特売特集の記事が載った新聞を片手に、ふんわりと、花のように微笑んだ。




ただ誤解を避けると、いつもは物静かな人だ。目立つことは苦手で、華美を嫌うため、持っているドレスはいささか地味な方だろう。


それで本人は十分だというので、俺も布地を贈ろうか渋っている。


そもそも、布地の前に俺は指輪を贈れていない。結婚前にもらった手紙には、こう書かれてあった。


『腹の足しになりませんので、指輪は要りません。代わりにアイロンと鍋が欲しいです』


手紙をもらったその日の内に、俺は街の中心にある百貨店に初めて入り、アイロンと鍋を購入した。家にはアイロンがなかったし、鍋は今にも底が抜けそうに錆び付いていたので、彼女の提案は大変御明察と言えよう。


これが、結婚して一週間になる奥様、マリア・ストウナーについて、俺が知っている全てになる。


うだつの上がらない貧乏教師の俺、アーサー・ストウナーのシャツにアイロンで焦がしを作ってしまったのは、つい先日のことだ。


もっとも、ちょっとギザギザに繕われたシャツで、今朝も俺は出勤している。




***




「貸し本屋があるらしいとか」


一言、言ったきり奥方は黙った。とぽとぽと湯気を立て、茶色い染みが付いてしまったポットから紅茶を注いでいる。


「本が読みたいのか?」


「旦那様はどうですか」


質問を質問で返されてしまった。


緩く曲線を描いている睫毛を伏せ、マリアは古びた茶器を俺の前に置く。鼻孔をくすぐる匂いは、実に芳醇で、本当に家に残っていた茶葉とは思えない。


「いつも家でいるのも暇だろうし、本を借りるのも、いい気分転換になりそうだね。明日は休日だし、行こうか」


「はい」


マリアは無表情のまま、頷く。


これが、彼女の一部の元婚約者たちから不評だった由縁だろう。自分は愛想がない人間だと、本人から言われたこともある。


俺からすれば、化粧や宝石にばかり顔を輝かせる方が、よっぽど厄介なものだ。


そうやってこじらせた代償として、つい最近までは未婚だったのだから救いようがない。四十になる前に嫁をもらえただけ、幸運だろう。


マリアは表情こそ変えないものの、自分の紅茶のカップにとぽん、と角砂糖を落した。


くるくると、スプーンをかき混ぜ、窓から外を眺めながらカップに薄紅の唇を付ける。心なしか楽しそうに、足を交差させる。


つられるようにして、俺の視線も窓の外へと伸びる。


「あ、雨だ」


俺の言葉に、マリアは小首を傾げる。


「明日は雨になるよ。間違いない。あの雲の形を見てごらん。ああやって大きくのびているのは、大抵雨が降る。

傘を準備しておこう。あれ、何処にあったっけ。確かこの前はソファの下にあったような」


「いいえ、クローゼットの裏側に挟んであったので、私が抜いておきました。……旦那様、雨なら、寄りたい所が」


「どこ?」


「パン屋です」


丁度パンをかじっていたので、俺は咀嚼するのを止めた。


「これ、最後の一欠けらのパンで、自分で食べる分を我慢してる、とか、そんなオチだったりする?」


「私、家計の遣り繰りは下手じゃないですから、そんなことはありません。雨の日はパンが湿気しけやすくなるから、安くなるのです。今週分、買い溜めましょう。

多く買っておけば、さらに値引きしてくれます。借りれる本が二冊は増えますわ」


「二冊は、馬鹿にならないな」


「はい。一冊分は、旦那様の好きな本を借りましょう。でも、もう一冊は私の分です」


相変わらずの無表情のまま、奥方は紅茶を味わう。淡い乳白色の光が、輪郭を照らしているさまは美しい。


果たして俺の奥方は、どんな本を読むのか。明日は新しい発見ができそうだ。


「もう時間です。服を」


サッと鋭い視線を傾いた時計に向けたマリアは、お世辞にも糊がきいていない、しかし俺の唯一の燕尾服の上着を差し出した。


「ああ。……なぁ、マリア。一つ質問いい?」


「なんです」


「どうして、紅茶だけはこんなに美味しいんだい。一体どんな淹れ方をしたら……」


マリアは俺の言葉を無視して、チョッキに手をやった。どうやらボタンを掛け違えていたらしい。


いいよ、と遠慮するのに耳を貸さず、ボタンを二三度、失敗しながら留めると、納得したように小さく首を縦に降った。


「……ありがとう」


「いってらっしゃいませ」


紅茶だけ、は余計だったかもしれない。


彼女以上に俺も人付き合いが、得意ではない。反省しながら大学へと急ぐ。




貴族向けではない平民の男子たちがほとんどを占める大学だが、通う生徒たちはそこそこ難関の試験を通って入学している。


商人の息子は経済学や心理学、社会学の講義で時間を埋める。


政治家になろうと野心のある生徒は、さらに法学や歴史も学ぶ。


医者になろうと志す物好きな生徒もいる。


熱意を持って、物理や数学の道を選ぶ者たちもいる。


従ってアーサー・ストウナーの教える地理の授業に通う生徒は、かなり少数になってしまった。さらに人数が少ないことと、数か国語を一応使えることが理由になり、外国語の授業まで持っているのが、もう何年も続いている。


それでも手持ちの生徒は少ないので、窓際教師とは、まさに俺のことを指している。


ミスター・窓際。


もう少し捻ったあだ名が欲しかったけれど、そろそろ年なので、ミドル・窓際になりそうだと風の噂で聞いた。


(マリアには申し訳ないが、そんなモンか。く疾く走れよ、若者たち!)


午前の授業を無難に終わらせる。鞄を開くと見慣れない布の包みが手に当たり、そうっと引きずり出した。


白い真っ白な布は、独身時代にお別れした鮮やかさがある。しかしながら、端っこの方にはアイロンの焼け跡あり。


解くとごろん、と長いパンが転がり出た。


縦に長く切れ目が入れられ、チーズやジャムが豪快に塗りたくられている。


間違いない、俺の奥方による弁当だ。


「……ミスター・ストウナー、なんですか、それ」


隣の机に座る新人教師が、奇妙なものを見るように眺める。


凛々しい青年の面影がまだ残る容姿は、何人ものご令嬢を虜にしているとかで、羨ましい限りである。


しかし、今日の俺はまさに一味違う。


「愛妻弁当だよ」


言いながらむしゃむしゃと、正体不明のマリアージュを頬張った。




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