学園
「着いたー!!」
「はしゃぎ過ぎだよ、リズ」
ぴょんぴょんと跳ね回るリズを横目に、イヴァンは苦笑する。
彼女達は、××学園の正面玄関前に立っていた。
「予想はしてた事だけど、やっぱり荒れてるね」
「そうだね!」
かつけは××学園を覆っていたのであろう、ガラスの半球は無残に割れ、その破片があちこちに飛び散っている。散ったガラスは、星空の下で、きらきらと輝いている。今日も、明日も、これからも。
学園の校舎自体も至る所が崩れ落ち、壁が一面なくなってしまっている部分もある。崩れかかった瓦礫を、変異植物の蔓が支えていたり、繋いでいたりもする。
そんな学園の遺跡のあちこちには、変異した巨大植物が蔓延っている。植物達は月光の下で、不気味な緑色の体を晒している。しかし同時に、蠢く植物達は文明崩壊後の世界特有の、退廃的な美しさを保っていた。
「こんなに荒れてて、文明時代の物とか、見つかるのかな?」
「見つからなくてたって、いいじゃないか。そしたら星でも見て、また旅をするだけさ!」
楽天的なリズの言葉に、イヴァンはにこりと笑った。
「それもそうだね」
それから二人は、学園遺跡の中に足を踏み入れた。
「この学園は、中々面白いね」
「うん?」
「見てよ、あんなに高い塔がある。天文塔かなぁ」
「本当だ……」
二人の眼前には、空に向かって聳える、美しい尖塔があった。
尖塔は、足元から蔓に巻きつかれ、拘束され、頂点では巨大な白い花の支配を受けていたが、それでも、何者にも屈しない美しさを誇っていた。
「今じゃあさ、地上に住むなんて考えられないけど」
「昔の人は、地上どころか、空に住もうとすら思ったのかもねぇ」
「あぁ、空か。空からは、どんな景色が見えるんだろうな…」
「分からない。でもいつか、知れたらいいね」
「うん」
学園の中も、外と違わず荒れていた。
二人は、危険な植物を刺激したりしないよう、慎重に進んでいく。
「イヴァンはさ、ここに来たら見たいものとか、あったのかい?」
「私はね、図書館っていうのが見たいなぁ」
「トショカン?…聞いた事ある気がするな。何だっけ、それ」
「本がいっぱいあるところだよ」
「あぁ、そっか。イヴァンは読書家だもんな」
「うーん、どうだろう。今でいうと読書家なのかもしれないけど…。昔は、もっと沢山本があったみたいだからさ」
「そうなのかい?でも私、やっぱりイヴァンは読書家だと思うよ」
「私、イヴァンが持ってるその大きい図鑑、見てるだけで目眩がするもん」
「文字は、前にイヴァンが教えてくれたけどさ」
「あはは…。この本は、もう隅から隅まで読み尽くしちゃったけどね」
「逃げる時、これしか持ち出せなかったからさ」
イヴァンは、施設から逃げ出した日の事を思い、しみじみと呟いた。
「そっか。じゃあ、そろそろ新しい本も見つけなきゃだね!」
「見つかるといいなぁ」
「見つかるさ。きっと」
彼女達は、学園内を歩き回る。
「なぁ、イヴァン。なんかあったぞ。なんて読むんだい、これ?」
「んん。ちょっと待って…。なんだろう…?」
リズの目に留まったのは、大きな金属製の引き戸。その横に、何か文字が書いてあるようだ。
言語に明るくないリズはイヴァンに解読を頼んだが、頼まれたイヴァンも苦戦している。
「…イヴァンでも読めないのかい?」
「んー…」
「この学園があった地域の言葉は、分かる筈なんだけど…」
イヴァンは首を傾げる。
「へぇ。じゃ、イヴァンも知らない設備なのかもね」
「そうかも。施設にあった辞書は、多分、文明崩壊後の不完全なものだろうし」
「ちょっと見てみる?」
「そうしよっか。気をつけていこう」
そうして、二人はゆっくりと扉を開ける。
そこにあったのは、25m×12m程度はある、巨大な穴──文明時代で言うところの「プール」だった。
「何だろう、これ?」
「ん。あぁ」
ますます訳が分からない様子のイヴァンに対し、リズは何か心当たりがあったようだ。
「リズ? 何か分かるの?」
「うん。私が知ってるのと違うから、多分、だけど」
「へぇ?」
イヴァンは興味深げに身を乗り出す。
「これ、多分泳ぐための箱だよ」
「およ、ぐ?」
「うん。こんなに綺麗な形じゃなかったけど、私もやった事があるんだ」
リズは言う。
「あのね、この中に水をいっぱいに入れるんだ。そうして、中で泳ぐ」
「水を、いっぱいに?」
イヴァンは不思議そうな顔をする。
「そんな事出来るの?」
文明崩壊後の世界において、人の使える水は貴重だった。
今の彼女達も、真水を溜め込む植物などから、少しずつ水分を摂取している。身体を清める際も、濡らした布などを用いてする。
シェルターを出る前のイヴァンは、そのような知識を叩き込まれてきたし、シェルターを出た後も、ずっとそうしてきた。
そんな、典型的な文明崩壊世界の住人である彼女にとって、水を満たし、その中で泳ぐというのは、全く想像のつかない事だったのである。
「うーん、出来るかどうかは分かんないや。私が泳がされてたのは、多分、元々あったのを利用したものだし」
リズが何気なく言うと、イヴァンは目を丸くする。
「シェルターに、そんな場所があったんだね」
「うん。でも、イヴァンは来なくて良かったんだぞ。水なのに、変な色してたもん」
リズは、バタバタと手を振りながら説明する。相当奇妙な色だったらしい。
恐らく、施設が〈Bite〉の子供達の運動能力と免疫機能を試すために使っていたのだろう。
「そっ、か。リズは丈夫だもんね…」
「うん、私はやめておいて良かったかも…」
イヴァンは少し苦しそうに言う。彼女には、過去の事であるとはいえ、大切な友人がそのような環境に置かれていたのが、どうしても許せなかったのだ。
「ま、それはともかくとしてさ」
イヴァンの心境なんて知る由もないリズは、無邪気に言う。
「これを、水でいっぱいに満たせるなんて、文明っていうのは凄かったんだな!」
「…あ、あぁ、そうだねぇ」
「…ね、リズ。なんでこれが泳ぐ用の箱だって分かったの?」
気持ちを切り替えるように、イヴァンは尋ねる。
「へ? あぁ。あれ見て」
そう言ってリズが指差した先には、プラスチックでできた案内板があった。
案内板は、所々文字が擦り切れてはいたが、プラスチック製だったために朽ち果てず、残っていたのだ。
案内板には、よくある「プール利用上の注意」が書かれており、端に簡略化されたイラストも見える。
「あれにさ、絵が描いてあるでしょ?あの絵、私達が泳いでた時の恰好にそっくりだったんだよ」
「…へぇ。あれが、『泳ぐ』っていう行為なんだね!」
「私ね、言葉でしか知らなかったよ!」
少し固まってから、珍しくはしゃいだ様子で、イヴァンは言う。彼女は、新しく何かを知る事が好きなのだ。
「はは、イヴァンが楽しそうで良かったよ。私、いっつも君に教わってばかりだからさ」
「これだけで、此処に来た甲斐はあったね」
そして、やっぱり珍しく、リズは慈母のように穏やかな微笑みを浮かべる。
それから暫く、イヴァンが質問し、リズがそれに答えるという事が続いた。
やがて二人は立ち去り、再び学園遺跡の探検を始めた。
「あんなにはしゃいでるイヴァンは、久々に見たよ」
「うん。あんなにワクワクしたのは、本当に久しぶりだった」
「私の話だけでああなんだからさ、もし図書館?を見つけたら、一体どうなっちゃうんだろうね?」
リズは、冗談めかして言う。
「ふふ。本当にどうなっちゃうんだろう。私が叫んで、踊りだしたりしたら、ちゃんと止めてね」
イヴァンも、可笑しそうに笑う。
「あはは!どうだろうな」
イヴァンが苦労人のようになりがちだが、彼女達は、これで中々良いコンビなのだ。
それから少しして、彼女達は、ようやく目当ての図書館へと辿り着く。
軋む扉を押し開ける。
ギィイ、と錆びた蝶番の音がして、次いで、ブチブチと扉に絡みついていたであろう、植物体の千切れる音が聞こえてくる。
数百年ぶりに、知の扉が開かれていく。
そこは……
「カビくっさ!」
…黴臭かったらしい。
「うっわぁ、ジメジメしてるぅ…」
リズは眉を顰める。イヴァンは黙って、鼻のところに手を持っていく。
「ねぇイヴァン。本当にこんな所にいて、ワクワクするのかい?」
リズは、早くも図書館から出たそうだ。
まあ、これまで清浄な空気を吸って生きてきた彼女には、無理からぬ事だろう。
「うぅ、分かんない…」
イヴァン自身も、少々自信なさげである。
「…でも!でも、ちょっとだけ見させて…」
イヴァンは自分を奮い立たせるように言ってから、ランタンの蝋燭に火を点ける。
窓もない図書館は、真っ暗だったのだ。
ランタンを掲げて、イヴァンは中に入っていく。
リズは、図書館の扉に手をかけて、そんな彼女を見守っている。
「はぁ、やっぱり暗いなぁ」
イヴァンが見たところ、まともに読める本はなさそうだった。
殆どの本は、破れていたり、濡れていたり、植物が根を張っていたり、朽ちかかっていたりした。
「これは…ダメ」
「これも…ダメ」
「こっちは?…はぁ、ダメか」
イヴァンは大きな溜め息を吐く。
此処まで来て、何の収穫もなしか。彼女は項垂れる。
「…あれ?」
ふと、彼女は足元に転がる一冊の本に目を留める。
そして、ランタンを床に置いてしゃがみ込む。
その本は、他の本と同様、植物や黴が生え、とても読めた有様ではなかった。
しかし、イヴァンには、他とは違って見えたのだ。
「こんな植物、見た事あったっけ…?」
生えている植物。
イヴァンは首をひねる。
その本に根を張っていた植物は、彼女が今まで見てきた、どんなものとも一致しない種類だったのだ。
イヴァンは暗闇の中、鞄から読み古した植物図鑑を取り出し、ペラペラと頁を捲っていく。
「多分、特徴からしてマメ科だと思うんだけど…」
彼女はマメ科の頁で捲る手を止め、紙上に目を滑らせる。
一列一列、暗記するほど読み込んだ図鑑の文章に目を通していく。
しかし、そこに書かれている情報はどれも、イヴァンが最初から想定していたものばかりだった。
それから暫く考え込むと、彼女はこう結論づけた。
「これ、私が知らない植物だ!」
ひょっとすると、文明崩壊前からある種類かもしれない。出来る事ならば、この植物の正体を知りたい。
イヴァンは笑った。今日一番楽しそうに笑った。
結局、この図書館で読める本は見つからなかったが、彼女は少しも落胆しなかった。
彼女は件の本を抱えると、リズの元へと戻っていった。




