名前
「ねぇ、早く!早く来なよ、イヴァン!」
「ちょ、ちょっと待ってよリズ」
手招きをして丘を駆けていく少女に、息を切らしながら付いていく少女。彼女達の名は、リズとイヴァンという。
今夜は満天の星。二人は、〈ネオトーキョー〉にある××学園の遺跡を目指して走っていた。どうやら、学園の高層部で星を眺めるつもりらしい。
え? イヴァンは男性名だし、リズは名前ではなく愛称じゃないのかって?
…なるほど、文明があった時代なら確かにその通りだったのだろう。
しかし、此処は文明崩壊後の世界。
名前に関する彼女達の言い分はこうである。
「イヴァンが男性名?リズは愛称? 何それ、文明時代の話かい?」
「だったら私達には関係ないだろ?」
…との事。
〈ミュータント・チルドレン〉の彼女達には、男性名・女性名の区別も、ついでに言えば、かつてはあった国家の区分も、何ら意味を成さないものらしい。
自分達の呼びたい名前で呼ぶ。それが彼女達の考え方のようだ。
「うわぁ、〈ブヨブヨ草〉だ。ねぇイヴァン、向こうにすっごい大っきいブヨブヨ草があるから、うっかり触らないようにしてね?」
「ああ、リズ。あれは〈トレムリュシュカ〉でしょ?」
リズの言う〈ブヨブヨ草〉、正式には、イヴァンが言った通り〈トレムリュシュカ〉というのだが──は、件の隕石によって齎された、外宇宙の植物の一種で、その名の通りブヨブヨとした実が特徴である。
その見た目は、直径が人の背丈の二倍はある、巨大な腐りかけのトマトといった風で、酸の効いた強烈な臭いを放っている。
しかし、この植物の最大の特徴は何より、実に触れると破裂するという点にある。
トレムリュシュカの実は、圧力を感知すると、凄まじい勢いで破裂する。人間の何倍もある実が破裂するのだ。当然、触れた者はただでは済まない。
しかも、トレムリュシュカの果肉は強酸性である。破裂し、飛び散った果肉が肌に付着する苦痛は、想像を絶するという。
現在地球上には、こうした危険な植物が至る所に生息しているのだ。
閑話休題。
「何だい、イヴァンったら、またお得意のラテン語かい?」
「得意とかそういうんじゃなくって、本にはそう書いてあるじゃない。ラテン語は古くて変化しづらい言語だから、名前に使われる事が多いって」
「そんなの今更だよ。今となっちゃ、大抵の言語は変化しづらいだろ」
「まあ、そうだけど……」
リズが肩を竦めると、イヴァンは小さく唸って、口を開く。
「…正直に言うね?」
「うん?」
「幾ら何でも〈ブヨブヨ草〉はネーミングセンスなさすぎだと思うよ?」
「え」
「幾ら何でも〈ブヨブヨ草〉はネーミングセンスなさすぎだと思うよ?」
「二回も言わなくていいんだぞ…」
「っていうか、ずっと私はネーミングセンスがないって、思ってたのかい…?」
「うん」
「うわぁぁぁあ!!『うん』じゃないよ!」
リズは大袈裟に叫びながら地団駄を踏む。
イヴァンは、そんな彼女を見て、首を傾げる。
「むしろ、今まで気づいてなかったの?」
「気づいてる訳ないじゃないか!大体、『これからは名前に縛られずに生きよう』って、二人で決めたんだろう!?」
「そうだけど、流石に他の人にまでリズ語を使うのは、ちょっとゴーイングマイウェイが過ぎると思うよ。私、恥ずかしかったんだからね」
イヴァンは頬を膨らませる。
どうやら二人は、少し前に別の生き残りと接触したらしい。そしてその時に、リズは堂々と〈ブヨブヨ草〉などのリズ語を連呼しまくったようである。
「別に、私といる時には好きに呼べばいいと思うけどね、でも、それを他の人にまで押し付けちゃダメだよ。あの子、ぽかんとしてたじゃない」
「うぅ…」
「共通の名前っていうのはね、人類にとって必要だから生み出されたんだよ。嫌だからって、やっぱり完全に無視する事は出来ないよ。…まあ、リズの気持ちも分かるけどさ」
「だから私、リズには好きに呼ぶだけじゃなくって、共通の名前も知っておいて欲しいな」
イヴァンは、諭すように言う。
「分かったよ…」
リズは、イヴァンの言葉に肩を落とし、そのままトボトボと数歩歩いていった。
が、唐突に目を見開くと、迷う事なく一直線に駆け出した。その姿は、さながら獲物を見つけた猟犬のようだ。
「あ、ねぇリズ?リズったら!」
「はは、ねぇイヴァン!今いいもの見つけたんだ!来てよ!」
背後からイヴァンの制止する声が聞こえるが、リズは御構いなしに駆ける。
その手足に、次第に鋭い鉤爪が生えて伸びていく。はっはっ、と荒く呼吸する彼女の口の中に、ギザギザの牙が見え隠れする。
リズはいつの間にか、獣のように四足で走っていた。吐息の靄を後方に残し、彼女は夜の〈ネオトーキョー〉を駆けていく。
「待ってよ、リズ!」
その後ろから、のろのろとイヴァンが付いていく。
イヴァンには、リズにとっての「いいもの」が、殆どの場合食事であると分かっていた。
リズは、狩りをしようとしているのだ。
そして、狩りをする上でイヴァンがするべき事はただ一つだった。
「獲物を逃がさない事」である。
「はぁ。私、そんなにお腹空いてないんだけどな」
イヴァンはそう呟くと、静かに目を瞑った。
次にイヴァンが目を開けた時には、菫色だった彼女の瞳は、鮮やかな緑色に変わっていた。
「もう、リズったら、一人でどんどん進んじゃうんだから」
イヴァンはぼやく。
彼女の後ろには、いつの間にか、暗闇の中から現れた、巨大な植物の群れがつき従っていた。植物の群れは、各々蔓や茎、根を蠢かしながら、主人の命令を待っている。
やがて、彼女の瞳が毒々しい緑光を放つと、外宇宙の植物達は、まるで飼い慣らされた私兵のように行軍を始めた。
「さあ、囲って」
イヴァンが命じれば、植物の群れは二手に分かれ、凄まじいスピードでリズの進行方向に向かっていった。リズが追っている獲物の逃走を妨害するのだ。
植物私兵が自身の命を果たすのを見届け、イヴァンは悠々と歩き出す。
そろそろリズが仕留めた頃だろうか。
彼女達の名前は〈ミュータント・チルドレン〉。新たな環境に適応した人類である。




