26話 シナリオと現実
「いったあ……」
椿は、強かに地面に打ち付けた腰を摩り、周りを見渡した。
すると、すぐに泥だらけで地面に横たわる千鶴子を見つけることが出来た。
斜面の上からではよく見えなかったのは、青々としげる茂みのせいだろう。
随分と長い距離を滑っていたような気がする。
考えるよりも身体が先に動いてしまった椿は、身ひとつリュックサックひとつで勢いよく斜面を滑り降りた。
しかしなにぶん斜面は低木だらけ。枝がチクチクして、これがまたなかなかに大変だった。
「五条さーん!! 大丈夫ー!?」
上から、メガネくんと星野くんの声が聞こえた。その声には不安と焦りが滲んでいる。
「なんとかー!! 申し訳ないのですけれど、先生を呼んできてくださるー!!」
そう声を張り上げると、すぐに了承の声と遠のいていく足音が聞こえた。
よし、まずは安否確認だ。
まだ少し痛む腰を上げて千鶴子の元に駆け寄ると、彼女はどうやら気を失っているようだった。
ええと、こういう時はどうするんだっけ。気道確保? AED? 救急車? は、無理だ。まずは、呼びかけ、そう呼びかけだ。
「千鶴子さん!! 千鶴子さん!!」
そう耳元で名前を呼ぶも、返事はない。ただ、弱く胸が上下しているだけだ。
「千鶴子さん!! 千鶴子ちゃん!!」
それでも、反応はかえってこない。
不安で押しつぶされそうになった。冷静に冷静にと考えていたはずなのに、目の前で誰かが目を覚まさないなんて経験が無かったことと、どうしようもない心細さで、泣きそうになる。というか、気づけば涙と鼻水が出てきた。
泣くな、子供を守るのは大人の仕事だ。泣いたって始まらないぞ。
そう言い聞かせるも、この椿の身体は思考に追いつかずボロボロと涙を流した。
涙なんてここ数年流していなかったのに。いや、前に一度寝てる時に流したんだっけか……。いやでも、それも椿の身体だ。
大人になって泣くことが少なくなっていた椿は、止め方が分からなかった。
ただボロボロと流すだけだ。口に入って、少ししょっぱい。
一向に目を覚ます気配のない千鶴子に、縁起でもなく、死という単語が頭を掠めた。
乙女ゲーム、ゲームの世界、そうどこか頭の片隅で考えていた椿にとってそれはあまりにも現実的ではない言葉だった。今までは。
ゲームの中では高校生になっても生きているのだから、ここで死ぬはずがない、なんてことはどうしても考えられなかった。
ゲームのシナリオが関係していようと、この世界は既に椿にとっての現実なのだ。それを痛いほどに感じさせられる状況に置かれていた。
つい先程まで張り合い、クイズを解いて笑っていた彼女が、ただ小さく息をするだけのこの現状が、否応なしに椿を現実に突き落とすのだ。
椿は、千鶴子の肩を叩きながら声をかけ続けた。
「千鶴子ちゃん!! どうしよう起きない頭打ったかな!? 起きて!! 寝ちゃダメよ!! いやもう寝てるんだった起きて!! 千鶴子ちゃん!!」
もうお嬢様なんてやってる余裕はなかった。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を服の袖で拭いながら、必死に声をかける。
お願い、起きて。
声をかけ続けて数分、ピクリと小さく千鶴子の瞼が動いた、ような気がした。
「いっつ……」
顔を顰めながら、千鶴子がゆっくりと目を開けた。
椿は、とめどなく流れていた涙と鼻水が揃って増量したのをたしかに感じた。
「椿さん、ですの……?」
そういって彼女は、片手で頭を押さえながら少し顔を上げた。
「ああああ起ぎだあああああ!! 起ぎないがどおぼっだああああ!!」
恥も外聞も演技も全て忘れて、椿は思い切り千鶴子に抱きついた。肩口に顔を押し付けてワンワン泣いていると、やんわりと彼女の手によって引き離されてしまったが。
心做しか顔を引き攣らせた彼女は、ポケットを探ると淡い薄桃色の可愛らしいハンカチを差し出した。
椿なんて面倒くさがって、ハンカチティッシュは持ち歩かない。流石はお嬢様というか、千鶴子ちゃんというか。
「縁起でもないことを……ああもう、耳元で叫ばないでくださる? ほら、これでそのお顔をお拭きなさいな」
その言葉は、やけに弱々しかった。
やはりどこか痛むのだろうか。
椿はハンカチを受け取ると、顔を拭いた。桃のような甘い香りがする。そしてついでに、いつもティッシュでするように流れのまま鼻をかんでしまった。やっちまった。
ハンカチが見る間にベタベタになっていくその様子に、千鶴子は思わず頬を引き攣らせたが、弱く頭を振ると小さく息を吸った。
まだ少し、短いですね……
でも、頑張りますので、あたたかく見守ってくださると顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにして喜びます。誰か桃の香りのハンカチをください。