鈴を辿って
ナヴィドが五番目の七不思議から場所を聞いた頃には、既に30分は経っていただろう。もはや普通の人間なら絶望的なタイムロスだ。そんなに時間があれば彼女が殺されていまうのも必然。
しかしナヴィドは冷静に家庭科室へと向かうだけの余裕があった。
なぜなら…… なぜなら彼女はただで殺されてしまうほどの人間ではない。それを今までの経験により彼は確信していたからだ。
怪異に〝 慣れているから 〟と笑った少女を、自身が死の淵にいたにも関わらずナヴィドを心配した彼女を、どこか達観したようないろはを、ナヴィドは信じていた。
六番目の七不思議は噂からかなりの恨みを持つ悪霊だと推測できるが、いろははいつも必ずナヴィドの迎えを待っていた。ナヴィドが助けにくるギリギリまで耐えていた。それこそ対話可能ならば話すことで時間を稼ぐことだってできるだろう。スケッチブックがあればなんとか戦うことだってできるだろう。
計算高い自分の頭が最悪の予想をしようとするたび、それを振り切って彼は馬鹿みたいに信じた。
〝 馬鹿みたいに信じる 〟なんてくだらないことができるのが人間の美徳だと、彼は知っている。
( だから私を安心させておくれ、いろはちゃん )
辿り着いた家庭科室は不気味な程静寂に包まれていた。
「いろはちゃん…… いろはちゃんいるかい!?」
そこら中に落ちた刃物に気をつけながらナヴィドは歩みを進める。
その時点で彼の嫌な予感は最高潮まで上り詰めていた。
けれど、最悪な結末ならばそこに七不思議の一人が立っていなければいけない。
いろはと七不思議、そのどちらも見当たらない状況が奇妙なのだ。
「いろはちゃ…… いろはちゃん!?」
そして彼は見つけてしまう。
山吹色の月に照らされ、鈍く輝くその巨大な〝 アート 〟を。
血塗れのままうつ伏せで倒れた彼女の下には、セーラー服の少女と思われる〝 絵 〟が存在した。それも、全体が真っ赤で所々黒ずんだ絵が。
側に落ちたコンパクトミラーにいろはが手を伸ばしたところで力尽きたように動きを止めている。
すぐさまナヴィドは彼女の背に手を当てた。
「生きている………… 良かった」
僅かに響く鼓動がナヴィドの手のひらから伝わってくる。
いろはが生きていたことに安堵し、彼は顔を手で覆った。
「なんて無茶なことを……」
家庭科室の隅に転がったスケッチブックはズタズタに引き裂かれている。七不思議に奪われてしまったのだろう。だからこそ彼女は〝 自分自身の血で絵を描く 〟なんて馬鹿なことをしたのだ。
「酷い血だ……」
普通の人間なら絵を描くなんてことをする前に気絶しているだろう。その上、ここまで血が出ていれば今にも死んでしまうかもしれない。
ナヴィドは自身のエプロンを包帯代わりにすることに決めていたが、やがておかしな事実に気がついた。
「おや…… ?」
彼が特に酷く血に塗れている手のひらを確認するが、血がついているのにどこにも怪我をした箇所がないのだ。
切り裂かれたように血が滴っていた膝の裏をそっと触れてみるが、そこにも傷跡はない。
もしや別のところに怪我があるのかといろはを抱き起こしてみるが、腹部はおろか、制服すら切られた跡がないのだ。
それにうつ伏せで下になっていた部分はほとんど血がついていない。血のつき方も、怪我をしたというよりは流れてきた血が沁みたような印象だった。
そう素早く分析をして彼は辺りを見渡した。
そして少し遠くに血痕と小さな羽毛を発見する。彼女が倒れていた場所とは明らかに離れている。血液が点々と残っているわけではないので、いろはが移動したのはあり得ない。
血溜まりに沈んでいた彼女が動けば動いた後が残るだろう。肌の汚れ方から手足を酷く痛めつけられたのは確かなのだから。
「助かったよ…… 彼女を救ってくれてありがとう引き受け屋のお嬢さん…… いや、Caladrius 」
ナヴィドが虚空に向かって呟く。
その言葉が届いたかどうかは本人たちにしか分からない。しかし彼はそれで満足したようだった。
いろはの元に向かい、再び抱き起す。傷がなくなっているのでやがて眼を覚ますだろうと。
「人間一人守れない先生ですまないね……」
「……………… 先生のおかげで、わたしは、助かってますよ」
「良かった、起きたんだね」
いろはは暫くぼうっと天井を見上げていたが、やがて視力が回復しているのが分かったのかパチパチ、と瞬きをすると彼を見上げる。
気怠そうに体を伸ばした彼女は自身の手のひらを不思議そうに見つめたあと 「痛く…… ない?」 と呟き、ナヴィドの腕の中から飛び起きた。
「傷がない…… どうして…… ? 夢なんて、そんなはずは…… でも血塗れで…… ?」
いろはは自分の流した悲惨な血痕と、汚れたブレザーを確認して安堵したように溜め息を吐いた。むしろ怪我をしたのが現実で良かったとさえ思っていそうな様子に、ナヴィドはなぜそんな風に思えるのかと心底不思議そうにしている。
怪我をしていないのならばそれでいいじゃないかと。
けれど、彼女はそうでないようだ。
いろはは落ちたままのコンパクトミラーをそっと持ち上げ、その内部に刻まれた名前を眺めてワイシャツの胸ポケットにしまう。
それを見ていたナヴィドは気が気でなかった。なぜなら、そのコンパクトになにが入っているのかが分かってしまったから。
今までずっと霊を浄化してきたいろはを見ていたからこそ、その道を選んだことに疑問でならなかったのだ。
なぜ、襲いかかってきた〝 妖怪 〟を浄化せずに生かしたのか。
「先生…… わたしいつもここに来ると、彼女のことが見えていました」
「…… そうかい、キミなら普段から見えていても不思議じゃないね」
彼女が自分からなにか話すときは、その行いの理由を話すときだ。
この一夜でいろはのことをよく知ったナヴィドにはそれがよく分かった。
「桜子さんっていつも授業を見てるんですよ。調理実習のときなんか、ところどころ味見して回ったりなんて悪戯をして…… 誰かが刃物を落としたときは怪我をしないように落下速度を緩やかにしたり…… 怪我をしなかったらそれで安心して笑顔を見せるんです。普段は、復讐に身を燃やしているなんて分からないくらい…… ときどき人の失敗に大笑いしてますけれど…… でも、危険なことはやらないはずなんです」
「それで? キミは彼女に更生の余地があるって?」
「桜子さん言っていました。影に、〝 影にアドバイスされた 〟って。自分を持っていないわたしならカラダを奪えるって、誰かに教えてもらったみたいでした」
珍しく饒舌に話すいろはを見てナヴィドは笑みを浮かべた。
「だから、キミは絵を完成させなかったの?」
「…… ええ」
いろはは既に妖怪に対してもダメージを与えることが可能になっていた。
普通に絵を描くだけならそれは不可能だろうが、血液を用いればそれは別なのだ。いろは自身の血液で絵を描けば、妖怪であっても致命傷を与えることは可能だった。けれど、彼女は絵を完成させず、〝 目 〟を除いて桜子を描いた。
そしてお互いの名前を呼ばせ、彼女の名前に返事をさせ、〝 契約 〟してから道具を用いて目を完成させた。ぶっつけ本番だったのにも関わらず、失敗に終わる可能性が高かったにも関わらず、結果的にいろはの思惑が成った。
桜子はコンパクトミラーに吸い込まれるように消え、封印という形で眠りについている。
「ただの思いつきにしてはよくできたでしょう?」
「…… そうだね。キミは天才だ」
「からかわないでくださいよ、先生」
「……」
「……」
お互いに見つめ合う。
ナヴィドに向かってバツの悪そうな顔で微笑むいろはに彼はとうとう折れた。
「困ったな…… そんなことを言われたら、私からはもうなにも言えない……」
「ありがとう、先生」
「…… いいや、いいんだよ」
彼はふっ、と息を吐いてその手を頭上に持ち上げた。
そこには羽根飾りのついたテンガロンハットが乗っている。肌身離さず身につけていたその帽子を片手で降ろし、羽根飾りを一枚剥ぎ取るといろはの髪に巻かれたヘアバンドに手早く付け、頷いた。
「キミにはこれを渡しておこうかな」
「…… 羽根、ですか?」
いろはが明るい暖色のヘアバンドに軽く触れると、耳の上でふわりと黄色い羽根が揺れた。校章代わりのクローバーの飾りでしっかりと止められている。
「変な目で見ないでくれないかな? これでも真剣なんだよ。…… これはお守りだ」
ナヴィドが困ったように言うといろはは目を細めて羽根飾りをいじる。
「お守り…… 本当に先生は鳥が好きですね。青くはないけれど」
「青? ああ、青い鳥のことを言っているのかな。ほら、遠くにあるものはありがたみがあるけれど、身近なもののほうがなにかと安心できるだろう?」
悪いことなどなにも言っていないのに焦っているような彼に、いろははくすくすと笑って 「…… 屁理屈ですね」 と答えた。
「屁理屈だね。でもちゃんと効果はあるよ」
「どんな効果ですか? 交通安全?」
適当に答えるいろはに彼は苦笑して 「確かに、鳥ならば怪異との正面衝突事故はなくなるだろうけどね……」 と続ける。
「実はそれを燃やすと私がキミのピンチに現れるのさ」
「結局物理的なお守りなんですね。まるでヒーローみたい」
戯けて言う彼に合わせていろはも首を傾げて薄く笑う。
「呆れないでよ、これでも先生は真剣なんだから」
「はいはい、分かりましたよー、ニコー」
わざと無表情を装って口の端を引っ張る彼女にナヴィドは 「ふふふ」 と笑って 「中身のない笑顔じゃ嬉しくないんだけどね…… さっきの笑顔はどこに行ったの?」 と訊ねた。
それに合わせていろはが目を伏せて 「…… ? どこに行ったんでしょう。そっちにはありますか?」 と訊ねると、その場に暫く静寂が続き…… どちらともなく二人は笑い出した。
「あははは! 笑顔の行方なんてキミにしか分からないよ!」
「ふふふ、そこにあったみたいですね」
「そっちにもしっかりあるじゃないか」
「…… そうですね」
いろはは大切そうに羽根飾りを撫ぜてその場から立ち上がる。
それから血液で汚れたブレザーを叩き、自らの先生に 「もう大丈夫ですよ」 と告げた。
「…… 分かっていたのかい?」
「なんのことでしょうか」
傷跡がなくなっても彼女は暫く立ち上がることができなかった。
それを気遣って背を預けたままにさせていたナヴィドは彼女に次いで立ち上がりエプロンを叩く。
知らぬふりをするのなら良いとばかりに 「なんだったかな」と誤魔化し、二人は自然に被服室へと向かった。
「制服は私が洗っておくからキミは予備の制服を借りてきなさい。明日、なんとか理由をつけて私が言っておくよ」
「制服、売り払ったりしません?」
「からかってるの? そんなことするわけないだろう。キミの家は大家族なんだから、そんな格好で帰らせるわけにはいかないよ」
「それ、皮肉ですか…… ?」
相変わらず抑揚がまるでないために分かりづらいが、そう言ったいろはの声にはどこか怒気を含ませているように彼は感じた。
彼女の家は孤児院のため、そのような表現をしたのだが随分と軽率なことをしたとナヴィドは今更の後悔に苛まれている。無神経なことを言ってしまい、和やかだった空気はどこかへ行ってしまったみたいだ。
「すまない、無神経だったよ」
「いえ…… その、心配してくださっているのは、分かっているから…… わたしも、ごめんなさい」
「…… さあ、着替えてきて」
「はい」
逃げるように制服を持って隣の教室へと入ると、その扉はそっと閉められた。
ナヴィドはその扉の外で壁に背を預けると目を閉じる。
桜子の話を聞いたとき、いろはは桜子の言っていた言葉を覚えている限り復唱したのだ。
その中に七番目の七不思議が現在この学校内にいないということが挙げられていたのを思い出し、思案を巡らせている。
( 六番目まで済ませて、七番目がいないならもうやることはない。影のことは気になるけれど、今は脱出方法を探るべき…… だね )
そんなことを彼が考えていれば、すぐにいろはが扉から出てきた。
ワイシャツにブレザーにプリーツスカート。最低限の制服を着用していろはがヘアバンドを整える。
「さあ、帰ろうか」
「まだ帰り道も分かっていないのに…… ? おかしな先生」
「それはこれから見つけるんだ。大丈夫だよ」
抑揚のない声だが、ナヴィドにはもう聞き分けができた。
彼女は彼をからかっている。だが、彼はそれを告げずに彼女が安心できるような言葉を紡ぐ。
「とにかく、玄関は行けないよね」
「ええ、それに校門はアクアリウムの底に沈んでしまって辿り着くのが難しいですね。わたしにエラや水かきがあれば別なのですけれど」
「あるいはこの背中に翼があれば?」
「そうすれば校舎の屋上から飛び出せますね」
「その末路は赤い花畑かな」
「どちらかは花畑に佇む血塗れのお姫様になれますね」
「キミ、自分が助かる気満々じゃないか」
「ふふ…… ?」
冗談を交わし合いながら廊下を歩いていると、ふといろはが立ち止まった。
「どうしたんだい?」
「…… 聞こえますか?鈴の音」
「鈴…… ?」
ナヴィドも立ち止まり、耳を澄ます。
するとどこからか、僅かな鈴の音が響いてくることが分かった。
「鈴…… 罠…… ? でも、もうこの学校に七不思議はいないはずです、よね?」
「あー、辿ってみるかい? キミのしたいようにすればいい」
「いいんですか?」
「ああ、私はキミのしたいことに付き合うよ」
「分かりました」
いろはが廊下の壁に手をついて目を閉じる。
どこからか響いてくるその音を辿り、目的地を聴き定めようとしているのだ。
彼女のまぶたの裏にはかつて見た光景が刻まれ、脳裏にはかつて聴いた音が木霊する。〝 聞き覚えのある 〟その鈴の音に意識を集中したいろはが目を開く。
「いろはちゃん、それ」
「………… ヒント?」
彼女が手をついていた壁には〝鈴をを辿って〟という柔らかな青い文字が浮かびあがっていた。
「先生、こっちです」
いろははなんの躊躇いもなくナヴィドの右手を取ると自分も右手を壁から離し、上の階へと向かう。
上の階へ上がるたび、鈴の音は強くなっていった。
「ここ……」
そして屋上へ向かう階段の途中、踊り場に存在する鏡に辿り着いた。
鏡の前にはいくらか血痕が残っており、普通ならこんな不気味な鏡になど近寄らないような雰囲気が漂っている。
いろはが鏡に近寄ると、その中に真っ白な長い髪の少女が現れた。
そしていろはと鏡合わせで動き、ときおりその首につけたチョーカーや髪に結んだ鈴の音が響くのである。
全体的に白く、首元や腰のリボンだけ黒い少女は平然と鏡の中で立っている。けれどいろはにはよく見えていた。少女はいろはが受けた傷と同じ位置に赤い血を滲ませ、こちらを見ているのである。
「あなたが、わたしを呼んでくれたの…… ?」
「……」
いろはは〝懐かしい〟その少女に微笑みかけるが、鏡の中の少女は笑わなかった。
その代わり鏡の中の少女がこちらに手を当てるようにすると、その上にぼんやりと文字が浮かび上がった。
こちらも見覚えのある青い文字だ。
〝 鏡を割って 〟
ナヴィドは鏡の中の少女と目が合って、その目が吃驚したように開かれるのを眺めていたが、声を出そうとした彼女に対して〝 しぃー〟 と黙ってもらうことをジェスチャーする。そんなことをしたら台無しだとばかりに。
「先生、ちょっと離れていて……」
「分かったよ」
ナヴィドが鏡から数歩下がると、いろはは懐から出したカッターナイフを思い切り鏡に突き立てた。
中にいた少女は突き立てられたカッターナイフに首を裂かれてしまったが、それでも無表情のままだった。
いろはがそれを呆然と見ていると、たった一箇所しか入っていないはずのヒビから全体に広がっていき、最後にはほんのりと薄い笑みを浮かべた少女と共に砕け散った。
「……」
鏡に空いた穴から風が吹き込んで来る。
そこは出口だ。彼女たちが迷い込んだその学校の、出口だった。
「…… 行きましょう」
「そうだね」
ナヴィドは頷くと、いろはの頭をそっと撫でて彼女の手を取って鏡の中に入って行った。
手を引っ張られ、後ろを歩く彼女は俯いているが、その頬に涙は見られない。それどころか遠い昔のことを思い出しているような、そんな表情をしている。
そしてナヴィドはそんな彼女の顔を見まいと先を行く。
暫し、暗闇の中を行く二人は無言で歩いていた。
「玄関や校門から出ていたら、どうなっていたんだろうね」
「きっと、屋上から空を飛ぶことになっていたんじゃないですか?」
「それは…… 嫌だね」
ナヴィドの脳裏に浮かぶのは間に合うこともなく落下していくいろはの姿だ。それがただの空想であろうと彼にとってその最悪な結末は許し難いものである。
翼のない彼女では死を回避することはできないのだ。
「先生、ここまででいいですよ…… 孤児院へは、自分で帰れます」
「そうかい?」
「ええ、汚してしまった制服のことはよろしくお願いします。わたしの方は誤魔化さないでも…… 誰も、気にしませんけれど」
彼女を一人にするべきではない、とナヴィドの理性が囁いている。しかし、これははっきりとしたいろはの拒絶なのだ。それが分かっていて無理矢理家まで送ることなどできない。
ナヴィドは寂しげに笑う彼女の意思を尊重したいと考えていた。
「お守りはしっかり身につけているようにね。それから、自分が危ない目にあったのならその羽根を燃やしてしまうんだ。いいね? 私からのおまじないだよ」
「………… はい」
いろはは燃やしてしまうことに不満を抱いたようだが、しっかりと頷いた。
「もったいないですね……」
「そんなもので良ければ何度だってあげるよ。だから、我慢しないで助けを呼んで。先生との約束だ」
「嘘をついていっぱいもらっちゃうかもしれませんよ…… ?」
「キミの嘘なんてお見通しさ。それに、お望みなら羽毛布団でもなんでも用意するよ?」
「…… ありがとうございます」
いろはが笑ってナヴィドに背を向ける。
お互いの家は別方向だ。いつまでも深夜をうろつくわけにはいかないと、彼女は名残惜しそうにしながらも手を振る。
「では、また」
「ああ、またね」
笑顔で別れて彼女は歩く。
照れ隠しにコンパクトミラーを抱きしめながら、 「お父さんがいたら、こんな感じなのかな」 と呟いた。
コンパクトミラーはなにも返事を返さなかったが、それで満足したのか彼女は帰り道を急ぐ。
ふよふよと耳の上で揺れる羽根飾りは頼もしいボディーガードのように彼女を守る。
しかし、自ら動くことのないボディーガードは彼女の行く先を決定することはできないのだ。
「早く…… 早く……」
早足で道を行く彼女は自身を追うように街灯が消えていっていることに気がついていた。
「そういえば、燃やすものがない…… どうしよう」
マッチもライターもないや、と呟く彼女に追いすがる津波のような影はやがて、その場一帯を飲み込むように広がっていく。
「スケッチブックもないのに……」
唯一の武器を桜子にズタズタにされ、今彼女に残っているのは小さなカッターナイフとコンパクトミラー、そして彼からもらった〝 お守り 〟のみ。
影に飲み込まれたいろはは、ナヴィドには決して聞かせなかった小さな悲鳴をあげて…… その場から消えた。