水は抜かないように
山吹色の月光が校庭を仄かに照らす夜。普段よりも少しだけ不気味なそんな夜に、暗闇から浮き上がるような校舎が聳え立っている。なんてことのない、いつもの校舎がその上部だけを照らされ、校庭から見上げると圧迫感すら感じられるほどだ。
この異常な夜の校庭に人影が二人…… いろはとナヴィドは保健室の窓から下り立ち、周りを確かめるように見回していた。
「やっぱり金魚の数は減っているみたいだね。今のうちに校門を確認しちゃおうか」
「…… そうですね」
いろはの目線の先には水の中でもなく、地面の上を浮遊し、滑るように泳ぐ3m弱の金魚がいた。
赤一色の綺麗な個体もいれば、白や黒の混ざった個体もいる。黒一色の影のように塗りこめられた金魚も一匹だけ混ざっているようだ。それらは決して彼女たちに目を向けず、自由気ままに空を泳いでいる。
最初は警戒していた二人も、襲って来る様子がないことを確認するとあまり気にしないようにしたようだ。しかし、触れるとどうなるかは分からないことから巨大な金魚に触れないようにして移動して行く。
彼女らが歩いていると時折頭上にかかる黒い影があったが、いろはが見上げるとそこには手の届かないところを泳ぐ巨大な亀のような形をした影があった。影と言うものは通常地面にあるものである。空中を自由自在に動き回る影には違和感のようなものがあるが、いろははそれを眺めて眉を顰めるだけで特に反応はない。
逆にナヴィドのほうがその影を食い入るように見つめていたが、やがて興味を失ったように視線を前に向けた。
金魚に混じり、分かりにくいがひときわ大きな姿が一つ。
6mはあろうかという巨大な錦鯉が校舎周りを回遊するように泳ぎ、地面の上には五羽の鶏がそれぞれ好きなように動いている。しかしよく見るとそのうちの一羽には首から上が存在していなかった。
ピチャリ、ピチャリと血を垂らしながら歩いているその鶏が山吹色の月光に照らされ、校庭を余計に不気味な物へと変貌させている。
「キンギョにカメに、ニワトリ…… あとコイ。全部学校で飼われている動物ですね」
「ふむ、ということはどこかに大きなカナヘビなんかもいるかもしれないね。確か男の子達が生物室で飼っていたような気がする」
歩きながらそう言うナヴィドにいろはが首を傾げて指折り数え始めた。
「いち、に…… さっきまではもっといたけれど今はキンギョが7匹にカメが1匹。コイも1匹でニワトリは5羽。そのうち1羽は首切り死体。去年死んだ数と大体一緒ですね」
いろははキンギョやカメなどの浮遊する物体を目で追いながら素早く数え、結論を出している。そんな彼女の姿を見ながら、ナヴィドはうわ言のように 「結構な数だね」 と呟いた。
「そういえば…… ニワトリの首切り事件は怖いから噂になりましたけど、それよりも桑の木に作った鳥の雛のほうが噂されてましたね。まったく、怖いより面白い方がいいんですよ。子供って単純ですね」
さらっと衝撃的な事件を言ってのけた彼女の瞳にはなんの感慨も浮かんでいない。事実を事実だとただ受け入れ、淡々と認識しているだけのようだ。そんな彼女に眉を顰めたナヴィドは苦笑いをして彼女に質問をした。
「キミは鶏を可哀想だとか、犯人は誰だとか…… 小鳥に夢中になった他の生徒になにか思うところはなかったのかい?」
「特に…… ですけど、別に悲しくないとかそういうことではなくてですね、ただわたしは笑顔で見送ることにしているだけなんです。悲しんでも、犯人を糾弾してもニワトリは帰ってきませんからね。忘れられるのは悲しいことですけれど…… それならば、わたしにできることをするだけですよ」
彼女の回答を聴いたナヴィドは複雑そうな顔をして自身の薄い髭をザラリと撫でた。
「キミってすごく大人びているよね…… 自分も高校生なのに、子供は単純なんて言っているし」
「高校生はまだ子供ですよ。馬鹿騒ぎして、くだらないことで喧嘩して、大笑いしたり大泣きしたり…… 表情がクルクル変わる。友達だってすぐにできますし凄いですよね」
どこか遠いところを見るように、透明な笑みを浮かべたいろはは胸に手を当てた。
それを見て不思議そうな顔をしたナヴィドが前を向き、歩きながら疑問符を浮かべる。
「キミだって沢山友達がいるだろう? 同じ学年の子とは大体知り合いでよく他のクラスの子とも話したり食事してたりするじゃないか」
そうナヴィドが言った瞬間、苦々し気な表情になったいろはが目を細めて拳をぎゅっと握りしめた。ナヴィドはその様子に気が付かない様子で、彼女はそれにほっとしたように息を吐いてから返答をする。
「…… そうですね。友達、ですよね。ええ、分かってますよ」
どこか確かめるように呟いた彼女は暗いトーンのままちぐはぐな笑顔を浮かべる。抑揚のない、その声は普段よりも少しだけ寂しそうに吐き出されていた。
彼が気づかぬようにとナヴィドの後ろをついて行くいろはは口をはくはくと上下させて言葉にならない言葉を紡ごうとしたが、それも失敗に終わる。
「目もちょっと死んでるのに、いつも笑顔でいるからって先生方の間でも評判がいいんだよ。成績もいいし、大抵の話題にはついて行けるみたいだし、本当に評判がいいよ。だから友達も多いんだろうね」
「目は死んでません、辛うじて生きてます。見てくださいよこの生き生きとした目。ほらほら…… 今は少し、ただ眠たい目をしているだけですよ。多分、きっと、恐らく」
ずずいっとナヴィドの前に回り込んできた彼女は 「心外な」 とでも言いたげに人差し指で目じりを上に引っ張り、しっかりとハイライトの入ったその瞳を見せる。
それに少しだけのけぞったナヴィドはがくがくと頭を縦に動かし、困ったように頷いた。
「うん、そういう切り返しが上手だからきっと好かれるんだろうね」
「目は死んでません。声はちょっと自信ないですけど」
殆ど抑揚のない声でそう言った彼女の表情はしっかりと感情に溢れている。
それに複雑な表情を浮かべていた彼はしっかりと見つめてからやれやれと頭を振った。考えるだけ無駄だと割切ったのか、目前に迫った校門に手をかけ、勢いよく開く。
「開いた?」
―― チリン
「っ、先生!」
校門が開いたことに驚いた彼が一歩踏み出した瞬間、それをぼうっと眺めていたいろはに涼やかな鈴の音が聞こえた。それは彼女自身の警鐘だったのだろうか。
鈴の音にハッと目を見開いた彼女はすぐさま彼に向かって手を伸ばした…… しかしそれも虚しく、届かなかった手は空を掻き、その次の瞬間には既に彼の姿は消えていた。
いや、彼の姿が消えたのではない。
「また……」
周囲の景色は一変していた。
「プール……か」
足元の湿ったプールサイドと、妙に重苦しい雰囲気に包まれ、一面の苔によって不気味な様相となっている水面。時折風もないのにチャプチャプと音を立てるその水はまるで生きているかのようだった。
まだプールの授業が終わってからそう日は経っていないが、明らかに半年以上は掃除されていなさそうな水面を見て彼女は溜め息を吐いた。
そう、移動してしまったのは彼女の方なのだ。
不気味に揺らぐ水面が一際大きく揺れ動き、その水を割って立ち上がったものに彼女は一歩、足を引いた。
ドロドロとしていて、5メートル近もある細長い物体。一見、苔だらけになった物干し竿のようにも見えるがそんな可愛らしい物ではない。
それが経験則によって分かってしまった彼女は素早くトートバッグに手をかけたが、水面から伸びた〝 それ 〟の細長い腕に片足を取られ、転倒する。
「ああっ!」
そしてその拍子にトートバッグから飛び出したスケッチブックはプールの外へと落ちてしまった。
「これは…… どうしよう……」
ズルズルと水面に引き寄せられていく自身を他人事のような目で見ながらそう、彼女は呟いた。
××× ×××
「また引き離されてしまったな」
校門から一歩出ようとしたところでナヴィドは足を止めていた。
その彼の足元は空。そして手はフェンスにかかったままである。
そう、そこは校門などではなかった。
「危ない、危ない。彼女の声で止まらなかったら落ちてたかな」
屋上の端で焦りの欠片もない表情で言った彼は下を覗きこんでから屋上の内側に戻る。そしてすたすたと歩みを早め、屋上の扉を開けた。
「彼女はプールにいる…… 屋上からだからよく見えたけれど、いいことなのか悪いことなのか。少なくとも時間がかかってしまうから悪いことなのかな」
心なしか、その歩みは早い。
「ああ、遅いな…… 無事でいてくれるといいけど」
歩みはいつしか走りに、そして、飛ぶように走り出した彼は全ての事象を無視して保健室まで走った。
相変わらず山吹色の月光が差し込む窓は、しっかりと開いたままになっている。
「杞憂だったかな」
それを見て眉を顰めた彼は一息に校庭へと出ると、プールの方向へと走り出す。その途中、外から正面玄関の前を通るとき、ふと彼は足を止めた。
「これ、そこな人間」
「おや…… ここにいたんだね、カナヘビ。しかも喋るだなんてびっくりだ」
そこにいたのは正面玄関全体に張り付いた5m程の巨大なカナヘビだった。
「カナヘビではない…… 今はもう、家守だ。そしてあなたも…… 少し違うようですな」
首をもたげ、ナヴィドの顔を覗き込んだカナヘビがうんうんと頷き、敬意を示すように引き下がる。
「それで、何の用だい? 急いでいるから早めに用件を言って欲しいんだけれど」
「なに、簡単なことだ。無理矢理起こされた棒っきれ坊やが怒っているみたいでね。そちらに向かうなら少し忠告をと思ってのう」
あなたには助言など無用だったようだが、と前置きを置いてからカナヘビは続ける。
「決して〝 水は抜かないように 〟な。アヤツと同じになりたくないのであれば…… それだけだ。ささ、早くお行きなさい。お嬢さんを助けたいのだろう?」
「ご忠告、感謝するよご老公」
「ああ、あんたも、ワタシの話を聴いてくれてありがとうよ」
互いに別れの挨拶をしてから素早く駈け出す。
そうして辿り着いたプールには既にいろはの姿はなかった。
いや、正確にはバシャバシャと水飛沫をあげる水面と、時折顔を出してもがく彼女の姿があるので完全に間に合わなかったわけではない。
「いろはちゃん!」
ナヴィドが声をあげると、あぶくをあげながらも水面の合間から覗いた彼女の視線がそちらに向いた。
「………… せ………… あ…… ぅ…… !」
息も苦しいだろうに、声をあげるその姿は眉を顰めただけであり、生死の境を彷徨う人間だとはとても思えない。
「なにか…… なにかないかな……」
巡らせて目に入ったのは排水装置。
しかし、彼はしっかりと家守となった物の怪の言葉を覚えていた。
校舎を守る守護者となった動物は決して嘘は吐かないものであると、漠然とした確信と共に理解している。
それに、目の前。いろはに覆い被さるように身を屈めている巨大な、細長い物干し竿のような真っ黒な怪物。
〝 アヤツと同じになりたくないのであれば 〟
水を抜いてはいけないという忠告と共に告げられたその言葉を、目の前の存在を認識すればおのずと理解できるだろう。
水を抜けばきっと…… いろはごと水は抜かれ、その姿は永遠に錆びついた管の中に保存されてしまうだろう。
それが解放されるのはドロドロに溶けたその後か、異常に気づいた学校側が配管の調査をするか…… どちらにせよ、その命は失われてしまうのだ。
そんな最悪の選択肢となるものを、わざわざ彼が選ぶ筈がない。
「っく、こんなものしかない…… か」
他に目に付いたのは二つの浮き輪。
しかし、自身は飛び込むつもりなどないのだから一つ投げるだけでいい。しかし、本当にそうだろうか?
確かに普通の人間は溺れている彼女を助けるだけで満足できるだろう。だが、ナヴィドは違った。そう、普通とは言い難い彼は理解した。
そうしてナヴィドは焦りつつも素早く、条件反射として両方の浮き輪を投げたのだ。
そうするのが最適解だと、〝 自分自身 〟の最高の答えだと瞬時に紐解いたからだ。
「っぁ、ぐ………… 、げほっ、はぁ…… !」
眉を顰めただけでいくら涼しそうな顔をしていても、やはり溺れかけるのは辛いものなのだ。何度も何度もえずくように咳をして気管に入り込んだ水を吐き出し、彼女は浮かんだ浮き輪にしがみついた。
そして供養のように投げられたもう一つの浮き輪がぐるりと水面で周り、その中に物干し竿のような影を誘う。
影はそれを認めるとそっとそばに寄って行き、いろはからその視線が外れた。
「いろはちゃんこっち!」
緊急用の紐がついた彼女の浮き輪を手繰り寄せ、今が好機とばかりにプールサイドへと引き上げた。
彼女の制服は少々薄着であったことからか水を吸って重たく、そして透けた状態にしてしまっているがナヴィドが動じることはなかった。
それよりも彼女の状態が心配であったからだ。
プールサイドに上がった彼女は時折咳をしながら大きく肩を上下させ、ぜぇぜぇと苦しそうな呼吸を必死に収めようとしている。四つん這いになった状態で崩れ落ちるようにその場に倒れ込みそうになるが、青い顔で持ち堪えて 「少し…………待ってください」 とやっと言葉に出した。
「ああ…… でも……」
ナヴィドの視線の先には今にも浮き輪の中へと前屈みで入り込もうとしている影。
その体はドロドロと溶けて端から水へと変化していくようだ。
水嵩の増したプールは既に溢れかけている。まだまだ影は細長く、大きい。あれらが全て水となってプールに降り注いでしまえば波打つ水がこちらに襲いかかってくることだろう。
もしかしたらあの影の容量を超えて巨大な津波を発生させるかもしれない。そうなればプールサイドはおろか、校庭ですらも危ないかもしれない。
「息を整える暇もないなんて、ね」
言うが早くナヴィドは四つん這いになったままのいろはを抱きかかえてプールサイドから校庭側へと飛び降りた。
「ちょ、先生待って…… げほっ」
「少し我慢していてね…… !」
ナヴィドがいろはを抱えたまま保健室の窓を目指す。
彼が横目で過ぎ去る景色を見れば、影がどんどんと浮き輪の中に飲み込まれていく様が映った。
チャプン
水面が揺らいだ。
そして次の瞬間、浮き輪を中心とした巨大な津波が起きたのだ。
「っわ、先生来てる来てる!」
こうなると分かっていれば2つも浮き輪は投げなかったか?
しかしそれでは影の注意を引き放せはしなかっただろう。
ならば浮き輪ではなく、目に付いた排水装置を使えばよかったのか?
「いいや……」
あれはナヴィドにとっての一番良い選択だったのだ。
彼は〝 大人 〟として、いろはを危険な目に遭わせるわけにはいかない。
彼女をあの〝 少年 〟のようにしてはいけないのだと、彼は首を振った。
「水が…… !」
水はどんどん迫り、校庭の空を泳いでいる魚を飲み込み、その姿を本来のものへと戻していく。
足元には今にも大洪水が押し寄せて来そうだった。
「窓は…… 、開いているね!」
校庭へ出たときに使った窓のすぐそばに来たときには、背後に水の気配が迫っていた。
( 間に合わない? いいや、いざとなったら私が代わりになればいい…… 相性はよくないが、彼女がのみ込まれてしまうよりはよっぽどマシだ! )
「あ、窓が…… !」
いろはが叫ぶ。
大声をあげて焦るなど彼女にしては珍しい。
そんなことを彼は考えながら「大丈夫だよ」と声をかける。
ひとりでに閉まろうとしている窓はしかし、行きに仕掛けた本がつっかえ棒となり完全に閉まることはなかった。
その厚さにより窓の縁に切られることもなく、大きな装丁により窓に弾き飛ばされずに窓台へとうまく引っかかっている。
大きな窓は未だ半分ほど開いていた。
ギチギチと本を圧迫し、圧し斬ろうとする窓はもう少し。
「…… え?」
間に合わないかもしれない。
そう判断したナヴィドは、彼女を…… 投げた。
呼吸を詰めた彼女は咄嗟にか、体を丸めて大きな窓の、半分ほどとなったその隙間をくぐり抜けて床に着地した。
「先生…… !? 無茶を…… っ」
ゴロゴロと転がり、痛みを訴える節々を無視して窓に視線を向けると、その彼女の額にベチャリと冷たい水がかかった。
「…… はぁ、間に合わないかと思ったよ」
轟音をあげて〝 閉められた 〟窓に叩きつけられる大水。
その手前で、水で濡れた髪を梳きながら独り言ちるのは勿論ナヴィドだ。
どうやら間一髪で保健室の中に滑り込んだようだった。
「間に合わなかったらどうするつもりだったんですか……」
不思議とただの硝子でしかない窓が破られることはなく、外の景色はまるで水槽の中をそのまま大きくしたように水で満たされていく。
空を泳いでいた金魚や亀の影はそのまま、そこが水族館になったかのように本来の姿を見せていた。
その中に溶けるように沈む山吹色の月はソーダの中に沈んだサクランボのように幻想的に揺らめいている。
そんな景色を眺めながらいろはは痛む箇所をさすり、呆れたようにナヴィドに言う。
「間に合わなかったら? まさか、そんなことがあるはずないだろう? ヒーローはギリギリに登場するものだからね」
真剣な顔をした彼は、そんな子供っぽいことをこともなげに言ってのけたのであった。
「保健室になら予備の制服があると思うよ。着替えておいで」
「ありがとうございます……」
「……」
「……」
「……」
「…… 覗かないでくださいね?」
「そんなことはしないよ」