注射の中身は全て使い切ること
「さあ、もうこんなところ出ちゃいましょう」
軽く赤い筋が付いてしまった首を撫でていろはが言った。
幾度も幾度も撫でられる首筋の下方…… 肩は僅かに上下しており、その速度は早い。
先程までと現在の僅かな変化がなければ、きっとナヴィドは気が付かなかっただろう。それほどまでに彼女の表情は明るい笑みを浮かべていた。話し方もなにも変わらない。少し暗めのトーンで、相手が子供ならば安心感を、相手が別ならば少し大人っぽく感じるような一定の抑揚とテンポ。
ただその笑顔を見ただけでは首が絞まる前に事を終えたのだと思っていた、とナヴィドは考える。しかし彼女の変化を見る限り、ダメージが無いわけではないのだ。呼吸が早くなっているのだからそうだろう。
苦しい思いをした筈だ。なのに何故、先程のように顔を顰めさせないのか。
「いろはちゃん、一旦保健室に寄ろう」
「え、そんな大袈裟ですよ」
そこでようやく、いろはは顔を顰めて見せた。
その様子を見てどうやら満足したナヴィドは一歩、二歩と彼女と距離を詰め、その頭にぽすりと手を乗せる。
「赤くなってる。それにさっき怪我をしたんだから、せめて絆創膏でも貰いに行った方がいいだろう」
「…… はぁ、そんなに言うなら行きますけど」
間の抜けた声を漏らしながら、目を丸くしていた彼女はそう言った。
「保健室のことはよく分からないんですけど」
「行ったこと、ないのかい?」
「…… ええ、怪我なんて滅多にありませんから」
「そうか」
ナヴィドは先程の無鉄砲さから、彼女なら細かい怪我をよく負っていそうだと判断していたのだが、少し間を置いて答えた彼女に否定され、予想が外れたことに生返事となった。
しかし、なにか含んだような彼女の言い方に嘘を吐いているのかもしれないと思い至る。
「私は血が苦手でね、気になるから治療させて欲しいんだよ」
「分かりました。お願いします」
それは彼女を治療するためにと咄嗟についてでた言葉であった。
先程妙に冷静な状態で首無し死体だとか、生首だとかを見ていた人物とはとても思えない嘘に言ってから気がついたようだが、いろはは怪訝そうな目は向けるものの追求することはなかった。
いろはも目を伏せ、その碧眼をパチリ、パチリと瞬かせて笑みを浮かべる。気遣いともとれるその嘘を追求するのは野暮だと判断したのだろうか。
トートバッグを肩に掛け直して彼女は硝子の扉に手をかけた。
「ちゃんと開きますね」
「開かなかったらもうどうしようもないからね」
コツ、コツ、と靴音を響かせながら二人は移動し、保健室の前までやって来た。
途中、窓を叩く音や手形が次々と貼りつけられることがあったが、二人は今更驚くこともない。
「先生、血が苦手なんじゃなかったの?」
「横目だったから平気だったんだよ、きっと」
「自分のことなのにきっとなんですね」
「きっとだよ、きっと」
悪戯っ子のような笑みを浮かべて彼の顔を覗き込む彼女だったが、言った本人は目線を逸らすように横を向き、頬を掻く。先程、壁に連続に付けられた手形はドロドロとしたペンキのようだったのだ。
それを見て先程のようにトマトケチャップかなと戯けられる程場は穏やかではなく二人は黙っていたが、互いにチープだなぁだとか、文化祭でお化け屋敷をやることになったらペンキを使おうだとか、心の中はわりと呑気であった。
「先生、入るなら早く入りましょう。覚悟は…… あっ」
保健室前の扉に手をかけ、振り返りながら言ったいろはの体がガクンとよろめく。
目を丸くして間抜けな声を漏らした彼女の腕がなにかに引っ張られ、次の瞬間、10㎝ほどしか開いていなかった扉が一気に開かれた。
「いろはちゃんっ!」
「せ、んせ…… !」
いろははナヴィドに移していた視線を引っ張り込まれる方向へと目を向けた。
扉の奥から飛び出して来た包帯が彼女の腕をグルグルと巻き、山吹色の月光が差す保健室の中に引き込んでいく。
ナヴィドが咄嗟に伸ばした腕に、伸ばしかけた手を握り、俯いたいろはが 「大丈夫」 と一言だけ呟いた。
そして、呆然とするナヴィドを置いて一つだけ笑みを残した彼女の表情は、無情にも目の前で閉まった扉により一瞬で捉えられなくなってしまったのだった。
「分断されるとは思ってなかったけど……」
保健室の中は山吹色の月光で照らされ、さながら夕方のように明るい。
そんなに強い光が差しているというのに、暗い窓の外は相変わらずなにも見えなかった。近くにあるはずの校庭も、植木もなにも真っ黒で塗りつぶされてしまってまるで黒いキャンバスに月だけを描いているような…… そんな世界が広がっている。
「出し巻き卵みたいな、色」
黒いキャンバスに輝く月はまるで卵の黄身の色をそのまま落とし込んだような綺麗な山吹色をしている。それを眺めて彼女は拘束されていない方の手でトートバッグを探り、緊急用のカッターナイフをどこからか伸びている包帯に突き立てた。
「これだから保健室には来たくなかったのに」
包帯を解いていくと、強く絞められた腕が圧迫されて赤くなっていた。それをさすりながら彼女は独り言ちる。そしてカッターナイフを丁寧にバッグへと戻し、包帯の端と端を持って簡単に手放さないようにぐるりと手首に巻きつけて固定する。
「あ…… あぁ…… わた、わた、し、わたし」
「こんばんわ。名前は…… 知らないや」
ドンドンドン、廊下から叫びながら自身の名を呼ぶ声が聞こえる。
それだけのことに薄く笑みを浮かべた少女は抑揚のない声で言い、首を傾げた。
ベッドの下から這い出して来た〝 それ 〟は落ち込んだ眼窩に血の涙を溜めながら言葉を放ったいろはに近づいていく。そんな恐ろしい姿を目にしたのにも関わらず彼女は、立ち上がり、足音一つさせずに向かって来る〝 それ 〟の攻撃を躱す。
「目は見えてるんだね……」
試しにと極力足音を出さずに大きく移動した彼女を正確に〝 それ 〟は追いかけている。眼窩の中身がないからと言って見えていないわけではないようだ。そうしてゆっくりと迫って来るそいつの手の中には紫キャベツよりももっと濃い色をした毒々しい液体の入った注射器がある。
…… 状況を考えればとても良い効果があるとは思えない。いろははそれをじっと見ながらゆっくりと保健室の中を後ろ向きに歩いた。
〝 それ 〟の進む速度は欠伸の出るほど遅く、歩いてでも十分に距離を置けると判断してのことだった。
「あの人をどうにかするには……」
そして、彼女はおもむろにトートバッグを保健室のベッドへと投げ捨てた。
「こんなに狭いんじゃ〝 描けない 〟」
不満そうにそう言ってからいろははその歩みを止める。
「注意書きをそのまま考えるとわたしが注射されるしかないんだろうけれど……」
ぶつぶつと何事かを呟きながら迫る〝 それ 〟の左手を、いろはは両手で固定し真っすぐと伸ばした包帯で一気に絡め捕りにかかった。
さして力の強くないその少女の腕は巻き付いた包帯により、振り上げられたところでガクンと動きを止める。
「…… そんなに注射したいなら、あなたがすれば?」
――…… ら………… おまえ…… が…… なさい
記憶をなぞるように絡みつけた包帯で少女の腕を振り払い、よろけたその瞬間にいろははその手の中にあった注射器を奪い取る。
そして、酷薄な表情を浮かべて倒れた少女へと一気に振り下ろした。
××× ×××
「いろはちゃんっ!」
いろはが保健室内に引き込まれ、初めて隣の注意書きに気が付いたナヴィドは後悔していた。いくら治療のためだとは言え、こんなおかしな状況になってしまったときに調べもせず保健室というある意味で特別な場所に連れて来てしまったことを。保健室には古今東西不吉な噂が付いて回るものである。
油断していた…… そうナヴィドは思ったのである。
「また、笑っていたな」
―― だって、慣れてますからね。
笑み。
マイナスの感情を外に出さないわけでもないのに、決まって彼女は笑うのだ。
( そう、あのときだってそうだった…… )
叫びもやめ、最後に一つドンと扉を叩こうとしたときだ、丁度いろはが扉を開け、その光景に少なからず驚いて一歩足を引いた。
「……」
「……」
扉を開けた状態で固まっている両者の間を沈黙が落ちる。
そして、スケッチブックを腕に抱いている彼女がくすりと笑みを浮かべ、 「大丈夫だったでしょう?」 と彼に問うた。
「あ、あぁ、そうだね」
面食らったようにナヴィドがそう返すといろはは腕に抱いていたスケッチブックをそっとトートバッグに戻し、ナヴィドのエプロンを控えめに引いて顔を見上げる。
「治療、してくださるんでしょう?」
「怪我はないかい?」
「はい、どこにも」
静かに視線を交わし合い、ナヴィドは安心したように息を吐くと保健室の中に歩み入った。
「キミになにかあったらと冷や冷やしたよ。でも、無事でよかった」
「それは先生としての言葉でしょうか」
伏し目がちなった彼女の顔は見えない。だが、相変わらず抑揚などないというのにどこかその口調は責めているような色を含んでいた。
その言葉に彼女は保健室に来るのを渋っていたな、と考え付いたナヴィドは先程考えた通りに口にする。
「ごめんね、安易に保健室を選んだことは後悔しているよ。もっと考えてから来るべきだった。私は守る者だというのに」
「なんですかそれ、ヒーローかなにかのつもりですか?」
顔を上げた彼女は笑みを浮かべていた。
「うん、ヒーローっていい響きだよね。私は好きなんだよ」
「ふふふ、なんか変な所で子供みたいですね、先生って」
励ましを兼ねた冗談だと判断したいろはが笑う。
それを見て複雑そうな顔をしていたナヴィドが困ったように笑い、バタバタと音を響かせながら風に靡くカーテンを五月蠅そうに見つめた。
「治療をしたあとは、もういっそそこから外に出てみようか?」
開いた窓を半分ほど閉め、ナヴィドが冗談めかして彼女に問いかける。しかしそれに対して真剣に 「いいですね、それ」 と言ってきたいろはに対して目を丸くした。
「ほ、本当にここから出るのかい?」
「閉めたら開けられなくなりそうですし、そこから出てみましょう。保健室から出てしまえば閉められてしまうかもしれません」
勿論、ナヴィドもそう考えて窓を完全には閉めなかったのだ。
しかし彼は職員玄関などが全滅してしまった際にここに戻ってくれば良いと考えていたが、それもいろはの言葉によりあっさり否定された。
「そうだね…… 校門が開くかどうかは分からないけれど言って見る価値はあるだろう」
「先生も、ちゃんと周りを調べてくださいよ」
「ああ、それはさっき実感したよ。キミが危ない目に遭うのはよくないからね」
「…… そういう意味ではないのですが」
「いろはちゃん、ちょっとそこに座って」
最後にボソりと発せられたいろはの言葉は、薬品棚を調べて彼女に背を向けている彼には届かずに消える。
それから消毒液と大きめの絆創膏を持ち出した彼はいろはをベッドに座るよう促すとキャスター付きの椅子をベッドの近くまで引き寄せた。そしてそれに座り、お互いが向き合ったような状態となる。
「傷はええと、左手…… だったよね」
「ええ、まあ小さな傷ですけど」
彼女が差し出した左手を手に取り、コットンを消毒液で濡らして切れた指先をつつく。
「普通に絆創膏を貼ればいいと思いますけど……」
「ダメだよ。最近は風邪も流行ってるし、あとで熱でも持ったら大変だ。それに、キミはよく左手を絵具で汚しているからね。気を付けてと言ってもきっと直らないだろう?」
呆れた表情でそう言った彼と、巻かれていく絆創膏を見つめ、いろはは首を傾げる。
「左手を怪我していても絵は描けますよ」
「筆を持たない手だって大事なものだよ。はい、できた」
絆創膏が巻かれた左手を見ながらいろはは 「大袈裟」 と呟く。グー、パーと調子を確かめるように手を動かした後、彼女はベッドから立ち上がりコツコツと床を靴で叩く。
トートバッグを肩にかけ、何の気なしに窓の外を見ると今度は真っ暗闇ではなく、そこにはきちんと校庭が存在していた。
―― 同時に、ひどく異様な光景が広がっていたのだが。
「キンギョに、カメに…… コイ。あとニワトリ……」
校庭のグラウンドの上に、空中に浮かぶ巨大な金魚や鯉などの姿があったのだ。一匹だけいる亀のようなものは真っ黒に塗りつぶされたように影だけがそこに浮かんでいる。いや、空中をあれらは泳いでいると言っていいのかもしれない。優雅にヒレを動かして移動するぎょろ目の金魚はこちらに見向きもせずただひたすら校庭の中を泳いでいる。
そして鶏小屋から逃げ出して来たのか、小さな影が五つ。そのどれもが一定の間隔をあけてバラバラに移動しているようだ。
校門は2m程もある大きな金魚に遮られ、見ることができない。
「突っ込んでいくのもアレですし、もう少し様子でも見ましょうか」
「そうかい? じゃあちょっと絆創膏とか、包帯とか、使えそうなものを回収しておくとするよ」
窓際に立ち、じっと窓の外を見る彼女の顔は真剣だ。そんな彼女の横顔をチラと盗み見てナヴィドは薬品棚から役に立ちそうなものを回収していく。
「いろはちゃん、寒くはない?」
不意に、ナヴィドがいろはにそう問うた。
「はい? …… そうですね。このくらいの気温なら全然」
「そうか…… そのブレザーの下は夏服だろう? これから寒くなってくるから早めに衣替えしておいたほうがいいよ」
「分かるんですね…… まあその通りですし、気を付けますよ」
彼女は相変わらず外を見ながらスケッチブックを取り出し、手元の鉛筆を弄んでいる。その線は薄く、タッチの柔らかい曲線を描いていく。
引っかかることなくスケッチブックに迷わず線を引いていき、そのページが捲られる。早描きだと知っているナヴィドもその完成の速さに驚かされながら笑みを浮かべた。
「コンクール用の絵は進んでるかい?」
「ええ、あと二日くらいで完成すると思いますよ」
スケッチブックから顔を上げ、緩く笑みを浮かべたいろはが言う。完成した姿を想像しているのか、細められた目はどこか遠くを見るように見えた。
その碧眼が山吹色の月光を浴びて、彼にはとても儚げに見えただろう。ナヴィドはそんな彼女の様子を微笑ましく思っているようだ。
「そうかい。完成して見るのが楽しみだね。キミはいっつも完成するまで人に見せないんだから」
「人にわたしの絵を見せること自体がマレなんです。あなたが勝手に見た上あんなことを言うから仕方なく、ですよ」
誇ってもいいんですよ、とでもいいたげなその言い方は通常一生徒が教師に発していい言葉ではない。しかしこともなげにそう言ったいろはにナヴィドはイラつく様子もせず明るく笑っている。
「そうだったね。感謝してるよ」
「……」
こちらも当たり前のように出た言葉であったが、再びいろははスケッチブックに視線を下げ、黙ったまま右手を動かし始めた。涼しい顔はしているが俯き、照れ隠しとも取れるその行動に彼は深く追求することはなかった。
「…… そういえば、携帯電話が機能してませんけどこの6時66分ってどういうことなんでしょうか」
「ああ、それ? きっと悪魔…… 獣の数字ってやつだね」
鉛筆を滑らしながら質問した彼女に、考える素振りもなくナヴィドが答える。
「日本ではそうでもないだろうけど、海外じゃあ不吉な数字としてよく挙げられるね」
「ああ、なんか映画なんかでそういうのがあった気がしますね」
「日本だともっぱら4とか9が不吉な文字として言われるけど、まあそれと似たようなものだよ。13もそうだね。でもこれは宗教関係が理由だから自然信仰の日本にはあまり関係ないことかな」
スラスラとそう述べる彼にいろはは興味が湧いたのかスケッチブックを仕舞って、同じく回収作業を終えた彼と向き合うようにして座った。
「へぇ…… 先生はそういうのは信じてるんですか?」
「…… 信じてる、というよりは…… そうだな、私には関係ないことだと考えているかな。私の古い友に関わり合いのある者もいるけれど、私はあまり気にしていないよ」
「そうですか」
なんだ残念、とでも言うように抑揚のない声で返事を返したいろはは暫し考えるように黙ると、再びナヴィドに問いかける。
「先生はこれ…… 出られると思いますか?」
「校庭もあんな感じだし、学校の敷地内は普通に出られる気がするね。ただ玄関が空かなかったことに意味があるのかってところが謎なんだけど……」
顎髭をさすりながら窓の外を視線を向けた彼は、先程まで金魚がいて見えなかった校門を見た。しっかり閉まっていて、傍目にもとても開けそうにはない。上から無理に脱出しようとするのも危険が伴うかもしれないのだ。
しかしそれは玄関が開かないこととはなんら関係がない。玄関が開かないのにはなにか理由があるのかもしれない。そういう意味で話した彼の言葉にいろはは頷いて自身の推測を口にする。
「なにか…… ちゃんと玄関から出ないとこの変になった学校からでられない、とか」
「ありそうだね…… 注意書きと出口についてはちゃんと考えた方が良さそうだ。特に注意書きは……」
「その注意書きも怪しいんですけど…… まあ、今はアレしかヒントになるものもなさそうですもんね」
おかしな出来事が起きている学校の中で、親切にもヒントを示す張り紙があるなんて、罠にしか思えない。いろははそう言いたいのだ。真剣な表情で。
「ヒントは鵜呑みにしないほうがいいと思うんです」
「ああ、そうだね…… 文字も赤い絵の具みたいなもので書かれているし、あまり良いものではない気がするよ」
いろはが最初に見た滲んだペンキの文字も、中庭にあったテーブルの文字も、保健室前の張り紙も文字は血のように赤かったのだ。血で書かれた注意書きなど、信用できるかは分からない。普通の文字で書かれていたとしても、普通は疑心が湧くものだ。二人はそう話し合い、注意書きは鵜呑みにしないことに決めた。
そして話し合いが終わるとベットに座ったいろはが足を揺らしながら再び空を見上げ、ふと思いついたように言葉を零した。
「あの月…… もう少し色を薄くしたら先生の髪にそっくりですね」
「そうかい? まったく、キミは本当に絵が好きだね」
軽く笑いながら、左肩の下で結んだ長めの髪をナヴィドは手に取って色を比べて見ている。
暗い海のような瞳が赤ぶち眼鏡の奥で細まり、視線をいろはに向けた。
「そう言うキミは、綺麗な色の髪をしているよね。地毛なんだっけ? かなり珍しいんじゃないかい?」
「ああ、はい。大変だったんですよ。黒染めしても戻っちゃいますし…… 今はきちんと診断書を取って学校に許可を得ています」
いろはも肩についた自身の髪を手にすくって眺めている。しかし窓から降り注ぐ山吹色の月光によってその髪の色はいつもよりも心なしか明るく見えるようだ。次いでナヴィドのエプロンを指さして微笑む。
「美術準備室は先生の絵ばっかりですよね。いろんな鳥の絵…… 教卓の近くも鳥の絵が多いし、授業で外に出た時も先生は一人で野鳥の絵を描いてますよね」
「キミは風景画をよく描くよね。あとは動植物なんかの写実画だ。いつも時間一杯までキミは外にいるけど、キミは早描きだよね?何枚描いているんだい?」
ナヴィドは教師として、そして自らが美術部に誘った生徒だからか、少々変わり種な彼女のことをよく知っているようだ。そんなナヴィドの話に、一瞬言葉に詰まった彼女は目を伏せてから彼の言葉に答える。
「…… 風景画は片手間でも描けますし、動物は描きやすいモチーフですからね。それに…… 喜んでもらえますから、結構な枚数描いてますよ。スケッチブックもすぐ一杯になっちゃいます」
トートバッグを胸の前で抱きしめながらいろはが言う。
相変わらず目は伏せられ、声に抑揚はなかったが表情は豊かに、口元が緩く笑んでいる。
「今日持ってるのは比較的新しいスケッチブックだよね」
「昨日切らしてしまって、買いに行ったんですよ」
「そうか」
そこで、二人の会話は途切れた。
「キンギョ、減ってますよ。もうそろそろ行きましょう」
いろはが外の景色に目を向けると、先程大量にいた金魚はその数を減らしていた。
いろはに次いで目を向けたナヴィドもそれを確認し、静かに頷く。
「本当だね、今のうちに校門が開くか調べに行こうか」
「はい。窓は…… つっかえ棒でもして、閉められないようにしておきましょうか」
「うーん、カーテンじゃあ閉まってしまうかもしれないし、栄養関連の本でも開いて窓台にでも引っかけておこうか」
そう言って彼は大きくて、そこそこ分厚い本を片手に持って来た。
いろははそれを見て、一つ頷く。
「あんまり分厚くても小さい辞書だと落ちちゃいそうですもんね。引っかかりやすいそれくらいの本だったら安心できそうです」
「よし、じゃあ外に出たらこれを窓台に開いて置こう」
「はい」
二人は一冊の本を持ち出し、山吹色の月光が降り注ぐ校庭へと降り立った。
「これで良し」
いろはが言う。そう高くない窓台に本を挟んで固定したのだ。
そうしている彼女は上履きのままであったが、気にしてはいないようだ。ナヴィドも外で履くような革靴ではないが、気にするそぶりも見せない。
「行きましょうか」
月光の中、二人は再び歩き出した。