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街角に降る雪

作者: 哀姫

「今年はホワイトクリスマスだね」

 と、誰かが嬉しそうに言う声が聞こえた。私はそれがおかしくて、少し笑った。毎年ホワイトクリスマスなのに、どうしてそんなに嬉しそうなんだろう。それはクリスマスに浮かれる少女を軽蔑するような、嘲笑になったかもしれない。いきなり鼻で笑った私を訝しく思ったのか、隣で一緒に歩いていた汐梨が不思議そうな顔で「なに笑ってるの」と聞いてきた。

 私は思ったことをそのまま答える。いつもホワイトクリスマスなのに、今年は、なんておかしいと思って。

「確かにそうかも。おかしいね」

 そう言って汐梨はくくくと笑った。二つ結いにしている髪が揺れる。赤いマフラーを見て、クリスマスに赤いマフラー、ベタだなあ、とぼんやり思った。そういう自分も汐梨とおそろいの赤いマフラーなのだけれど。

 去年はピンクで揃えた。その前の年はベージュで揃えた。そして今年は赤。中学校なんてあっという間で、もうかれこれ三年間も汐梨と、親友という関係を保ち続けている。一年生の頃、クラスが同じだったのだ。二年、三年と離れてしまったけれど。

「あ、そういえば由利香ちゃん」

「なに」

「伊吹君と、上手くいってる?」

 汐梨は楽しそうに聞いた。私は早瀬の顔を思い浮かべてみた。早瀬伊吹。同じクラスになったことはないけれど、どちらも陸上部と、部活が同じだったので、割りと話はしていた方だと思う。男女の人数が極端に少ないため、一緒に部活をしていたのだ。

 しかし、引退してからは接点がなくなり、唯一の繋がりといえば、学年の他には受験生であることぐらいだった。

「早瀬ねえ……」

 私が呟くと、その反応が薄かったからか、汐梨は憮然とした面持ちで「なによう」と言った。別に気分を損ねるようなことを言ったつもりはないから、こっちの方こそ「なによう」なのだが。

「噂んなってるよ。一組の早瀬と三組の中村が怪しいぞ、って。帰り道一緒なんでしょ、よく二人で帰るのを見かけたって人がいっぱい」

「そんなの、何ヶ月前の話よ。大体、私と早瀬は部活が同じ、帰り道が同じ。それ以外に接点なんてないの。汐梨が吹奏楽部だから、汐梨の代わりに帰ってただけ」

 一、二年生の頃は一人で帰っていた。しかし、急に怖くなったのだ。一人で帰ることが。汐梨は、時間が遅くとも、吹奏楽の友人と一緒に帰っていた。周りを見ると、楽しそうに会話をしながら歩いていく生徒の姿。男子でさえも、冗談を言い合いながら固まって帰っていた。私はその中で一人ぼっちになることが嫌だったのだ。だから、同じく一人で帰っていた早瀬を誘った。

 それだけ。

「あ、そ。つまんないの」

 案外あっさりと引き下がってくれたな、と私はほっと胸を撫で下ろす。別に、嫌だとか、詮索されたくないとか、そういうわけじゃない。ただ、早瀬の名前を出されると……少しだけ。

 ほんの、少しだけ。ピリッとくるんだ。

 それがどんな感情なのか、わからなかった。ただ、恋ではないと思っていた。恋はとても激しい感情なのだと、一日中その人のことを考えているものなのだと、聞いたことがあったから。

「そういう汐梨はどうなの。渡瀬と」

「ゆ、有紀君!?」

 汐梨は耳まで赤くした。わかりやすい。

 私はそっと溜め息をついた。からかうつもりで言ったんじゃないのに、ここまでわかりやすい反応をされると、セオリー通り少し意地悪を言うべきか。

「どこまでいったの」

「ど、どこまで、って」

 汐梨は恥ずかしそうに顔を伏せた。渡瀬有紀と西田汐梨が付き合っているのは周知の事実だ。まさに公認カップル。なのにいつも、汐梨の隣を陣取っているのはつまらなそうな顔をしている私であって、渡瀬じゃない。汐梨はあまり気にしていないようだが、渡瀬には少し申し訳ないような気もした。その反面、これが親友の特権、絆なのだと渡瀬を見下している自分もいる。

 クリスマスには、しっかり渡瀬と予定を入れているようだが。

「ちゅーまでいったの」

「え? う、あー……う、ん、まあ」

 声が段々と小さくなっていき、終いには体まで縮こまってしまった。人を散々からかうくせに、自分がからかわれるのには慣れていない。可愛いというより綺麗で、繊細で、細い指。秀才だけれどどこか危なっかしくて、まさに男が放っておかない人材だ。渡瀬は幸せだと思う。

 そして、汐梨を精一杯愛してくれる渡瀬を恋人にできて、きっと、汐梨も幸せだ。

「…………」

「どうしたの由利香ちゃん……あ、もう着いちゃった」

 気がつくと汐梨の家の前にいた。ゆっくりゆっくり歩いて来たはずなのに、なぜかいつも家につくのは早い。私は汐梨にばいばいと言って、汐梨が家の中に入っていくのを見届けた。それからゆっくりと歩を進め始めた。この先に商店街があり、そこを抜けないと家には帰れない。どうせ時間がかかるのなら、存分に冬を肌で感じてみようと思った。


 ――疎外感、というものを感じていないわけではなかった。

 気がつけば周りは恋話で盛り上がっていて、しかし話を聞きながら恋をしていなかったのは私と、汐梨だけだと思う。少なくとも、私のクラスの、その恋話をしていた輪の中では。いつからだろう。唐突に汐梨が、「渡瀬君と付き合うことにしちゃった」と、照れ臭そうに私に報告したのは。いつからだろう。汐梨が渡瀬を有紀、と名前で呼ぶようになったのは。

 辺りを見渡すと、クリスマスに浮かれた人たちが楽しそうに話をしながら隣を過ぎ去っていく。木々に巡らされた青のLEDがちかちかと点滅している。誰かが大きな声で笑った。笑い声に比例して、LEDがどんどん輝きを増すように思えた。

 何か、プレゼントを買っていこうか。という声が聞こえた。振り返ると、ショーウィンドウを見つめて頬を赤く染めた女の子二人が嬉しそうに話し合っていた。好きな男の子にでもあげるのだろうか。わからない。私には関係のないことだ。

 そうやって強がることが私にできる唯一の防衛手段だった。

 恋愛に、クリスマスに興味のないふりをして、それらに浮かれる女の子達を見下して、嘲笑って。そんなことでしか自分を守れなかった。自分だけ、と寂しがるのは自分のプライドに反したし、恰好悪いと決め付けていた。

「ユウキ君にあげるの!」

 不意に、そんな声が聞こえて、驚いて私は振り返った。今、確かに有紀、と口にしたからだ。

 しかし、それは本当に渡瀬有紀なのか、確かめる術ははない。有紀なんて、ありふれた名前だ。

「でも有紀君、彼女いるんでしょ」

「いいのよ、気持ちだけ伝われば。汐梨さんには敵わないし。ベストカップルだって、私も思うし」

 そんな風に、割り切れるものなのだろうか。きっと、そういうものなのだろう。

 どうしてそんなに、嬉しそうに話すことができるのだろうか。いわゆる失恋、というやつだ。なぜ笑って敵わないと言えるのだろう。気持ちだけで、と。

 きしり、きしりと雪を踏みしめると、そのタイミングに合わせて店のネオンが明滅しているように感じた。空を見上げると群青色で、小さく丸い雪が顔に当たった。なぜか心が躍った。きっとクリスマス効果だな、と思って、なんだ、自分も結局浮かれてるのか、と少しがっかりした。

 ショーウィンドウには可愛いクリスマスプレゼント用の服やら靴やらバッグやらがたくさん売っている。

 ふと、中に入ってみようか……と思った。

 そう思った理由はわからない。けれど。

「……クリスマス効果だ」

 呟きながら私は、やはりがっかりした。

 中は小奇麗な雑貨店のような感じだった。感じ、というかそうなのだけれど。

 その中で私は見知った背中を見つけ、心拍数が跳ね上がった。早瀬伊吹が、女の子と一緒に売り物を見ていたのだ。別に早瀬がどうこうではなく、単純に、自分がこんなところにいるのは場違いだということを指摘されそうで、自分を知った人間に会うのが嫌だった。

 しかし、商店街の小さな店だったので、すぐに見つかった。早瀬は私に気がつくと小さく「あ」という声を上げ、恐らく迷った挙句、私に声をかけてきた。隣の女の子は彼女だろうか。そう思うとどいつもこいつも、という気になった。

「誰かにプレゼント?」

「いや、そういうわけじゃないけど……」

 素直にうんと答えた方がよかっただろうか。私はなるべく短時間で会話を終わらせるように、頭の中で必死にシミュレーションした。その結果、言葉がたどたどしいものになった。

「く、クリスマス効果でッ」

「やっぱりプレゼントじゃん」

 早瀬の中ではきっと、クリスマスに私がいれば、それは必然的にプレゼント選びのためになるのだ。普段はこんなところにいないから、プレゼントのために仕方がなく店に入っている……と、思っているのだ、きっと。そう考えると、顔が熱くなった。

「わ、私だって女の子なんだから」

「……まあ、恋くらいしてもいいんじゃね」

 私は益々顔を赤くした。私がいいたいのは、女の子だから自分だって恋をする、ということじゃなくて、女の子だから自分だって可愛い物を買いたい、ということだ。

「好きな人はいません」

 何度となく繰り返してきたためか、その言葉だけははっきりと言えた。早瀬はふーん、と、特に興味もなさそうに相槌を打った。早く話を切り上げたい。じゃないと羞恥で死にそうだ。私はわざとらしく携帯を開いて時計をチェックしたふりをし、これまたわざとらしく「あっ」と声を上げた。

「私、今日は早く家に帰って手伝いしなさいって、お母さんに言われてたんだった」

 それじゃあね、と言うとああ、と短い言葉を返してくれた。そして早く店を出ようと一歩足を出した瞬間、ロザリオが目に入った。

 シンプルな十字架と、交差している部分にかかっている小さなリングに目を引かれて、私は思わず足を止めた。そのロザリオをまじまじと見つめてしまった。

「……帰んなくていいの」

 と、早瀬に声をかけられるまで、私は自分がそのロザリオを手に取ろうとしていたことに気づかなかった。伸ばしかけた手を慌てて引っ込め、私は足早に店を出た。

 最悪だ。


 クリスマス・イブは土曜日で、クリスマスが日曜日だった。

 きっと今年はクリスマスのためにある年なんだな、とぼんやり考えながら私は机に頬杖をついてどんどん白く汚い文字で侵蝕されていく黒板を見つめていた。黒板の右端には、綺麗な文字で『十二月 二十日 (火)』と書かれていた。その下に『鈴木真由美』とあった。真由美は習字教室に通っていて、その手のコンクールで何度も金賞を取っている。汚い先生の字が黒板の上を蔓延っている中で、その文字だけは酷く清純なもののように思えた。

 先生が手を止めないのは先生がマグロだからで、動きを止めたら死んでしまうんだ。あまりの眠さに、そんな妄想までした。退屈だった。

 先生だけじゃない。みんなマグロだ。やれ恋だ、やれ彼氏だ。そうやって恋とか青春してないと死んでしまうんだ。友達の話についていけなくなればきっと死んでしまうんだ。

「……で、この公式が……」

 眠い時は、数学の黒田先生の声が子守唄に聞こえる。という友達の証言は本当だった。瞼が下がっていくのを抑えることができなかった。

「みんな眠いだろうが、もう少しだからな」

 もう少し。そう聞いて私は顔を上げた。確かにあと三分だった。しかしその時計は狂っていたようで、一分くらいしたらチャイムが鳴った。

 途端、眠気が覚める。

 先生が軽く舌打ちをして、「いいか、んじゃ、これは宿題」と舌打ちと同じ軽さで言う。すると素早く真弓が立ち上がった。

「姿勢を正して。これで数学の授業を終わります」

 綺麗な良く通る声で、号令をかける。聞いていて心地よかった。

 がたがたとみんなが立ち上がり、口々に「ああ、眠かった」などと話し合っている。私は本を取り出した。栞を挟めたページを開き、読み始める。しかし、読み始めた途端、後ろから声をかけられた。

「中村さん、ちょっといいかな」

 声をかけてきたのは、鈴木真由美だった。この中学校では、肩まで髪を伸ばしてはいけないという規則があるため、長い髪を二つに結わえている。それをほどいてもっと伸ばしたら綺麗だろうな、と思う。端正な顔立ちをしている真由美は、僅かに私の中で汐梨と重なった。ツインテールであったからだ。

 私は驚きながらも頷くと、隣の教室へと行った。隣の教室は珍しく誰もいなかった。

「あの、単刀直入に聞くけど」

 思い切った様子だった。真由美は私の瞳を覗き込むようにして問う。

「早瀬伊吹君のこと、好きなの?」

「早瀬ぇ?」

 昨日の汐梨の言葉と重なって、何となく面倒な気分になる。もともと恋愛の話などしない私はみんなほどハイテンションにはなれなかった。

「好きではあるけど、愛してるの好きじゃないよ」

「そう、よかった」

 よかった。そう言った。私は瞬時に真由美の言いたいことを理解した。つまり、真由美は早瀬のことが好きで、私と早瀬の仲を心配していたが、それが杞憂でよかった、と言いたいのだ。目の前の真由美は、心底安心した様子である。そして、スカートのポケットから何か……手紙のようなものを取り出した。それを何も言わず渡される。思わず受け取ってしまったが、それはやはり手紙だった。

「それ、伊吹君に渡してくれないかな」

「……なんで私なの。早瀬と仲いい人、もっといるでしょうに」

「男子は駄目、絶対に回し読みされるもの」

 確信があるような言い方だった。過去に辛い思いでもしたのだろうか。

「それに女子はね、伊吹君と仲良くなろうとする人はみんな、伊吹君のこと好きなんだもの。伊吹君て、無口な……硬派なタイプじゃない。友達になろうとしても、会話すら成立しないことが多くて、友達になろうと近付いた子は諦めちゃうの。陸上部の子も、みんなあまり親しくないからごめん、って言われた」

 そこで私が出てきたのは、私が早瀬と家まで一緒に帰っていた仲で、しかし恋とかそういうのには縁がなさそうだから?

「中村さんて、誰かを好きになるようなイメージ、なくて。あ、ちょっと悪い言い方だったかな、ごめん。とにかく、伊吹君を好きだとは、思えなくて」

「……わかった。渡しておくね」

「本当、ありがとうっ」

 真由美は私の右手を両手で握ると、ぶんぶんと上下に振り回した。それから何度もお礼を言いながら、教室を出て行った。私は彼女が行った後、手紙を握りつぶそうかと思った。真由美に馬鹿にされたような気がしたのだ。気のせいであることはわかっている、でも。どうしても、「どうせ恋なんてあなたはしていないんでしょう、だったら届けてよ」と言われた気がして仕方がなかったのだ。

 真由美は恐らく、顔にこそ出さないが、自分に絶対の自信を持っている。恐らくこれはいわゆる、ラブレターというやつなんだろう。それはとても勇気のいることで、恥ずかしいことに違いない。なのにあそこまで楽観的になれるということは、そういうことなのだ。

 ……派手にふられてしまえばいい。

「……っ」

 今、私はすごいことを考えた、と思った。恋愛に興味のないふりをして、自分から遠ざかっていったのに、結局は私も、女の子達の輪の中に、入りたかったのだろうか。羨ましかったのだろうか。

 早瀬は、なんて返事をするのだろう。私は、手紙に書かれた『早瀬伊吹君へ』という整った綺麗な字を見て、なんだかすごく負けた気がした。


 早瀬とは、帰り道で一緒になった。私がそう計算して帰ったのだ。いつも、私と汐梨の後からゆっくり同じ道を来る。だから、汐梨には用事があるから、と言って、帰る時間を(二十分くらいだが)ずらしたのだ。

 しかし、早瀬を見つけたのはいいが、早瀬の隣には昨日と同じ女の子が立っていた。見たところ、腕を組んでいたり手を繋いでいたりなど、あからさまなことはしなかったが、早瀬の性格だから、恋人であることを隠したがっている、という可能性もある。さすがに、彼女の目の前で恋文を渡すのは気が引けた。

「早瀬」

 と、名前を呼ぶと彼はすぐに振り返った。そして少し驚いたような顔をする。私から話しかけるなんてことはほとんどなかったので、珍しいのだ。

「ちょっと、いい」

 私が手招きをすると、早瀬は軽く頷いて、隣にいた女の子に「ちょっと行く」とだけ言い、私に近付いてきた。女の子は無邪気に「いいよー」と、笑いながら言っていた。

 私はちらっと、女の子を見た。

 その子には聞こえていないとわかっていても、一応声を顰める。

「彼女?」

「……いや」

 早瀬はややあって答えた。

「男女が一緒にいると、そう誤解されるのは仕方がないけど。違う」

 前までの私みたいなものか。私はそう解釈した。

 早瀬は紺色のマフラーと、紺色の手袋を身につけていた。温かそうな色だ。私は赤い手袋を脱いで、コートのポケットの中からピンク色の封筒を取り出した。一瞬、渡すのを躊躇った。なぜかはわからない。なぜか、真由美の自信満々の笑顔が浮かび、それが私の手を止めたのだ。不自然に視線を泳がせると、早瀬はそんな私を訝しげに見つめた。

「……何?」

「あ、えっと、これ」

 私は後ろ手に持っていた手紙を早瀬に突きつけた。早瀬は驚いていたようだったが、私がすぐに「私からじゃなくて、真由美から」というと、頷いて受け取った。

「……付き合うの?」

「いや」

 軽い調子で早瀬はそう答える。なんとも言えないもやもやが私の中に広まった。確かに、真由美の自信は鼻につくところがあったが、ふられたらふられたで、可哀想な気もする。

 ――いいんだ。私には関係のないことだ。早瀬とももう、話すことはなくなる。真由美とも。

「それじゃあ」

 と、言って私は踵を返すと、昨日の店が目に入った。そして、そこのショーウィンドウを見つめる赤いマフラーの見知った顔を見つけて、私はあれ、と思いながらも声をかけようとした。

 しかし、それはできなかった。

 汐梨は、渡瀬と一緒にいたのだ。

 近付きかけた足を止めて、その場に立ち止まる。

 ――私じゃなくても、汐梨はいいんだ。

 いや。私よりも、渡瀬の方がいいに決まってる。恋人、なのだから。私が友人を、親友を失いたくないという自分勝手な理由で、汐梨の隣を譲らなかっただけなのだ。本来汐梨の隣は、渡瀬がいるべき場所で。

「中村」

 私と同じ方向に戻るはずだった早瀬が、立ち止まった私を見て声をかける。その視線の先にいる二人を目にして、渡瀬も立ち止まった。二人の空間は、他の誰の侵入も許さなかった。

「早瀬の隣にいたあの女の子、誰。本当に彼女じゃないの?」

 気がつけば、そんなことを聞いていた。

「……彼女じゃない。ただの友達だ」

 そういう早瀬は、どこか困って見えた。

「みんな、隠したい時は友人だとか、親友だとか幼馴染だとか、適当なことを言って誤魔化すのよ。最初は汐梨もそうだったし、渡瀬もそうだったでしょ」

 渡瀬と早瀬は同じクラスだった。二人とも同じ漢字が苗字につくので、最初の頃はよく間違えられたと、一緒に帰ったときに早瀬がぽつりと愚痴を漏らしていたのを思い出して言う。

「ああ、そうだったかもしれない」

「親友と恋人じゃ、やっぱり恋人だよね」

「人によるだろ」

「恋人って、世界で一番大好きな人じゃない。親友はやっぱり、その次だと思う」

「まあ、普通はそうだろうな」

 私は急にむしゃくしゃして、くるりと振り返った。早瀬と目が合う。私の方から視線を逸らして、そのまま歩いていった。こっちは家に帰る方向じゃない。でも、あそこを通りたくはなかった。どこか、風の当たらないような場所にいて、時間を潰そう。彼女達が帰るまで。そのうちに、早瀬も、早瀬の彼女かもしれない人も、帰ってしまえばいい。

「恋人がいない人なんて、いくらでもいる」

 呟いてみた。

 負け犬の遠吠えに聞こえた。

 路地裏はなかなか、居心地がよかった。

 私にぴったりだ。自重気味に言ってみた。

 ――照れ臭そうに手を繋ぐ恋人達。クリスマスの約束を交わす恋人達。商店街のショーウィンドウを見ながら笑いあう、幸せな恋人達。私みたいな人だってたくさんいる。わかっているのに、私は隣の人の温もりを感じることのできる、そんな人達しか目に入らなかった。

 ずっと壁に寄りかかっていると、手が冷たくなっていることに気づき、手紙の代わりにポケットに詰め込んだ手袋を取り出してはめた。

 路地裏にも、ネオンやイルミネーションの光が漏れて入り込んできて、私はそれをぼんやりと見つめていた。ピンク、青、黄色。耳をすませると、いろんな人たちの声が聞こえる。楽しそうに笑いながら歩く女子高生達。笑いながら雪道を駆け回る子供と、その母親の宥めるような声。聴覚の全てが笑い声で支配されているように思えた。

 手袋をはめても、いつまで経っても手が温まることはなかった。


 用があるから、というと汐梨はそう、と言って私が先に帰ることを承諾した。

 その時、嬉しそうな表情をしていないか、目の奥を覗き込んでしまう私は嫌な奴だなと思った。

 今度はいつもより二十分早く先に家路を辿った。

 先日入った店に入り、一目惚れをした十字架を迷わずに買う。なぜか急に思い出して、急に欲しくなった。でも、本当はただ汐梨の隣を独占することに罪悪感が芽生え始めたんだということに、私は気づいている。だからむしゃくしゃして、買ったばかりのアクセサリーを、紙袋の上から握り締めた。

「あの、中村さん」

 振り返ると、真由美がいた。

「昨日の手紙、渡してくれた?」

「渡したよ」

「じゃあ、なんで返事、返ってこないのかな」

 それは自分に問いかけるような調子の言葉だった。

「……あのさ、あれって、ラブレター……だよね」

 真由美は、今更何を言っているんだ、という口調で「そうだよ」と答えた。私はあまり目を合わせないようにしながら、「失礼なこと聞くけど」と言った。真由美は不思議そうな顔で私を見つめる。

「早瀬が自分と付き合ってくれるって、確信とかしてる?」

「顔と、頭と、スタイルなら自信あるわ。でも、早瀬君だからね。どうかな」

 くすくすと笑いながらそう言う真由美は、やはり自信に溢れていた。どうかな、という言葉は謙遜のつもりなのだろう。

「あのさ」

 真由美に対して腹を立てている自分に気づいて、でも止めることができなかった。止めようとも思わなかった。今更誰かに嫌われたってどうでもいい。そもそも、真由美とは接点がなかったし、これからもないのだ。壊れるほどの関係が築けていないのなら、怖くない。

「私、聞いたの、早瀬に。付き合うのかって。そしたら早瀬、付き合わないって言ってたよ」

 真由美は驚いたように瞠目して、そんな重大なセリフをさらりと言ってのけた私を睨みつけた。唇が震えている。屈辱に震えていた。

 私はその怒りの視線を受け止めきれずに、黙って自分の足元に視線を落としていた。告白の答えが、本当に重要な意味を持つものだということはわかってる。ただ、鼻についたんだ。いらいらしたんだ、見ていたら。

「中村さん、あなた――」

 その時、声がした。

 怒りの言葉を述べようとした真由美を遮るように、その場にそぐわぬ、明るい声が響いた。

「その子が、伊吹に真由美ちゃんのこと悪く言ったんだよ」

 私と真由美は同時に右横を見た。すると、いつの間にいたのか、早瀬の隣にいた女の子が笑いながら立っていた。真由美に近付くと、「私聞いたもん」と言った。

「亜優」

 真由美が驚いたように呟く。どうやら早瀬の隣にいつもちょこんといる女の子はアユというらしい。亜優は挑戦的な目で私を睨んできた。真由美より頭一つ分小さい亜優は、真由美の腕にしがみついて「見たもん、聞いたもん」と盛んに喚きたてた。ショートカットにした髪が揺れた。私は場違いにも、なんて繊細に髪なんだろうと思った。

「真由美ちゃんはマショーの女だって、やめておけって。この子が」

「……中村さん。あなた、伊吹のことが好きなんでしょう」

 私は訳が分からず混乱した。

「私、そんなこと言ってない。別に早瀬のことも好きじゃないよ」

「嘘よ」

「本当だって」

 これでは堂々巡りだ。途方に暮れかけた頃、真由美が軽蔑するような眼差しで「最低ね」と言った。亜優もそれに同調して、「うん、最低」と頷いた。

 私はどこか自分が、とても嫌な奴のように思えた。本当に最低なことをしたような気分だ。否定しようとしても、口が動かない。堂々と嘘をつく亜優と、その嘘を信じる真由美に、呆気に取られていたのかもしれない。どちらにせよ、私はもともと饒舌ではないので、こういう時にどんな言葉を言えば納得してくれるのかわからない。

 どうしよう。どうしよう。

 周りでは幸せそうな人たちが楽しそうに歩いているのに。


「……ごめん」


 ――謝る、ということは。

 自らの罪を認めたことになる。

 もうそれでいいや、と思った。

「ごめんね、でも私はあなたが嫌いなだけだよ」

 早瀬は好きじゃない。そう言うと、僅かに亜優は非常に微妙な顔をした。苦虫を噛み潰したような表情、とでも言うべきか。

「魔性じゃないとは思ってるよ。ただ、自信家なだけだよね」

 私は早口にそう言うと、くるりと踵を返し、そのまま走って、真由美の表情を思い浮かべながら、とにかく走った。追いかけてくるのを恐れて(真由美は足も速い)、途中で路地裏に入り込んだ。ポケットから、紙袋を取り出す。ロザリオを、マフラーを外して首にかけると、それをぎゅっと手で握り締めた。今はただ、信じられるものが欲しかった。

 苦しいなんて、寂しいなんて言わない。思わない。私は悪いことなんてしてない。恋したい人はすればいい。付き合いたければ付き合えばいい。私を悪者にしたければすればいい。罵りたければそうすればいい。私は一切、悪いことはしていない。

「私は……。……」

 ロザリオを、手が痛くなるくらいに握り締めた。そうしていないと、泣き出してしまいそうだった。

 なぜか急に、早瀬と二人で帰っていた頃を思い出した。あの頃は温かかった。隣が、空気が、存在が。

 なんだか、迷子の子供になったみたいだ。

 今日も町は、浮かれている。

 薄暗い路地裏で、その幸せの色をおすそ分けしてもらうように、漏れる光に手をかざす。あそこに私は行けないな。そう思うと、涙が出るより先に、心が空っぽになった感じがした。




「おい」

 と、廊下で声をかけられた時は、正直振り返る気がしなかった。その声が早瀬だったからだ。

 私が昨日複雑な思いをしたのは全てこの男が原因である、そう考えると憎くなってくる。できることなら振り返りたくなかった。そのまま走って逃げたかった。そうしなかったのは、早瀬自信には何も罪はないとわかっているからだろうか。

「何」

「昨日、亜優があることないこと喋ったらしいな。悪い」

「何で早瀬が謝るの」

「いや、話の発端は多分俺だから」

 その通り。と頷くわけにもいかず、「亜優ちゃんは全部早瀬に話したの」と聞いた。

「まあ、大体は。というか、真由美からいろんなこと問いただされて、それで亜優も話さざるを得なかったというか」

 何となく想像はついた。真由美のことだからあの後、早瀬に私に何を言われたのかを質問しに行ったのだろう。亜優と一緒に。そこで亜優が嘘をついたことを話さなくてはいけなくなったのだ。

「ねえ、なんで亜優ちゃんはあんな嘘ついたの。真由美と仲がいいみたいだったけど」

「ああ、亜優と真由美は親友で」

 そこから先を、早瀬は言い辛そうにしていた。私が急かすように「何」と言うと、早瀬は「自分ではこういうこと言いたくないんだけど……」と言った。

「俺、前亜優に告られたんだ。好きだ、って」

「……へえ」

 私はなるべく平静を装ってそう答えた。過剰すぎない私の反応に安堵したのか、早瀬は表情を緩めながら続きを話した。

「だけど、諦める、ってさ。親友が俺のことを好きだから、亜優は身を引く、って。でもそのかわり、折角家近くなんだから毎日一緒に帰ってもいい、っていうのが真由美と亜優の約束らしくて」

 つまり、亜優は早瀬を諦める代わりに、毎日一緒に帰る権利を得たわけだ。

「え、じゃあ真由美が早瀬を好きなこと、早瀬知ってたってこと?」

「俺はね。亜優から聞いてたから。毎日一緒に帰ろうって言われたら、普通いろんなことを疑問に思うだろ。その時に、亜優が説明してくれた。別に俺は誰と帰ってもよかったから、承諾した」

 誰と帰ってもよかった。

 亜優と帰っても私と帰っても、結局同じこと。亜優が下心を顰めていても、隣にいるのが誰でもいいから。

「でも、真由美は俺が知ってることを知らなかったみたいだな」

 真由美の恋は、伝える前から終わっていたのだ。それもそれで、悲しい話だと思う。

「……早瀬さ、いろんな人と噂になってるけど、本当は誰が好きなの?」

 悲しい質問だと思った。なぜか、それが自分にとってとても残酷な質問だと思った。鼓動が僅かに早まる。期待と喪失感。なにを失ったわけでもないのに、心がどんどん冷めてゆく。

「それとも、好きな人なんか……いないの」

 ――ややあって「ああ」と頷く早瀬を見て、私は再び走って逃げ出したい衝動に駆られた。でも、先ほどとは違う。どこか違った感情が心を覆っていた。

 答えを聞いて暫くは、誰かが歩く足音さえも聞こえなかった。早瀬の言葉を脳内で咀嚼し、しっかりと味わった後、聴覚は元に戻った。でも、今は笑い声も廊下を駆ける足音も、誰かの悲しい泣き声に聞こえた。

「そっか。そうだよね」

 辛うじてそれだけ言うと、私は駆け出す人たちに混じって、廊下を全力疾走した。しかし、部活を引退して体力が落ちた私の限界などたかが知れていて、すぐに息苦しくなって立ち止まった。振り返ると、もう雑踏に紛れて早瀬の姿は見えなかった。

 全力出して、よく人にぶつからなかったな、ということを考えながら私はゆっくりと歩き出した。




『一緒に帰ろう』

 その時、私に他意はなかった。ただ怖かった。一人きりになることが。

 だから誘った。同じく一人きりで歩いていた早瀬を。

『……別にいいけど、何で』

『女の子が一人で歩いちゃ、いろいろ危険じゃない』

 軽いジョークのつもりで言ったのだが、早瀬は神妙な顔で頷いた。

 しかし、二人で歩き出したのはいいが、話が思うように弾まない。私は自分から口を開くタイプではないので、どうしたらいいのか困っていた。早瀬は気にしていないみたいだが、私はこの間が苦しかった。しかし、共通の話題と言っても、限られている。

『今度の大会さ、早瀬はどのくらいまで行けると思ってる?』

『……さあ』

『でも、負ける気ないでしょ』

『……まあ』

『賞状、もらえるといいね』

『……ん』

 話が続かない。私はこっそり溜め息をついた。

『早瀬さあ、付き合ってる子とかいないの』

 他に話せる話題と言ったら、これぐらいしか思いつかなかった。女子なら、顔を輝かせて話にのってくるんだけれど。

『別に、いない。……いたら、こんなところで中村と歩いてない』

『まあ、そうだね』

『中村は』

『私? いないよ』

『好きな人とか』

 私は逡巡した。どの程度の感情を「好き」というのだろう。イイヤツだな、と思う男子はたくさんいる。でも、それが恋愛、という言葉と上手く結びつかない。

 結局、

『いないよ』

 と答える他なかった。

『早瀬は』

『俺は……』

 彼も迷っている様子だった。

『俺も、いない』

 そうか、早瀬も同じなのか。なら、私も無理に相手を見つける必要などないのだ。私はなぜか安心して、自然に顔が笑みの形を作ってしまった。

 何だか、温かかった。隣が、すごく。

『……次の大会で終わりだね、部活』

『ん』

『何か、寂しい、な』

 自らのその言葉は、果たして、陸上に向けられたものなのか、早瀬に向けられたものなのか。

 わからなかった。……ただ。

 僅かな胸の痛みだけを、感じていた。




「由利香ちゃん、今日は何もないでしょ。一緒に帰ろう」

 私は頷いた。そこで、みんなとの雑談会……もとい、私にとっての読書タイムは終了する。鞄に教科書、ノート、筆箱を乱暴に入れる。プリントが変に折れた。もう一度入れ直す。教科書に挟んで、丁寧に入れる。教科書が折れたりしなかったことに、なぜか落胆する。もしかしたら自分は、汐梨と一緒に帰りたくないのだろうか。

 ――否。汐梨とは親友だ。いろいろ話もしたい。けれど、私が気がかりなのは汐梨の彼氏のことなのだ。渡瀬は、私のことをどんな風に思っているのだろう。

「あ、由利香ちゃん、私、プリント出しに職員室に行ってくる。先に玄関で待ってて」

 汐梨はたたた、と小走りに駆け出した。私は歩みを止めず、ゆっくりと玄関へ向かう。すると、そこには渡瀬がいた。玄関には他にも数人いたが、大抵は教室で喋っているので(私と汐梨もそれを抜けてきた二人だ)、同学年の人は渡瀬しかいなかった。

 一度目が合って、それから不自然に逸らすのが怖かった。相手がどう思っているのかわからないが、少なくとも私は渡瀬に罪悪感を抱いていた。妙に渡瀬を意識してしまい、声をかけた。

「渡瀬は、いつも一人で帰ってるの?」

 男子は大抵固まる。群れで行動する。そんな先入観があったので、意外だった。

 渡瀬は私をじっと見つめた。

 いや、睨んだ、に近かったかもしれない。

「……あんた、汐梨の親友だろ」

「そうだけど」

「確かに俺、いつも一人で帰ってるよ。だって汐梨、いつもお前と帰るから」

 ――その瞬間。

 ああ、やっぱりな。

 そう思った。

 まっすぐに行ってくれただけ、気持ちが楽だった。影からこそこそ何かを囁かれるのは嫌いだが、いっそこんな風に言ってくれれば、少しはよかった。

「やっぱり、汐梨と一緒に帰りたい?」

「当たり前だ」

 不機嫌そうに渡瀬は鼻を鳴らす。私は酷く、申し訳ない気分になった。今まで我慢していたんだ。汐梨の親友だからって。渡瀬はきっと、親友という立場にあぐらをかいて、恋人を差し置いて汐梨の隣にいるいまいましい奴、と私を認識していただろう。それはとても、悲しいことだった。

 大切な人の、大切な人。その人から嫌われたら、汐梨もあっさりと意見を翻してしまうような気がした。汐梨を信じたいという気持ちは大きい。しかしそれも全て、渡瀬という存在に全て吸収される。渡瀬の放つ感情に。

「じゃあ、いいよ、汐梨と一緒に帰りなよ。これから毎日。私はなんか、上手い口実作っておくからさ。今、汐梨職員室にいるところだから……そうだなあ、私は親に家事を任されていたことを思い出したから先に帰る、ごめんねって言っておいて」

 一気にそれだけ喋ると、渡瀬が何か言う前に、マフラーを手に持って走り出した。胸元で何かが揺れていると思ったら、十字架のネックレスだった。制服の下に隠していたのに、走ったからだろう、服の上でそれは揺れていた。

 一旦立ち止まり、肩で息をしながら私はようやくマフラーを首に巻きつける。真っ赤なマフラー。汐梨とおそろいのマフラー。その赤い鮮やかな色を見ると、今は泣きたくなった。

 どうしようもなく、泣きたくなった。

 私は十字架を握り締め、急いで民家の影に隠れる。

 ――泣けばいい。泣いてしまえばいい。泣けばすっきりすると聞いたことがある。何かが吹っ切れるかもしれない。

 しかし、涙は出なかった。私は狭いそこを出て、再び走った。やがて商店街につき、そこで立ち止まり、また走ろうとして、やめた。人通りの多い商店街で走ったら誰かにぶつかるかもしれない。

 ゆっくり歩いた。私がどんなに悲観にくれていようと、私の隣を急ぎ足で過ぎていく人たちには何の関係もない。悩んでいるのは私だけで、そんな私のことを見ているのはごくごく一部の人間だけだ。そう思うと少し楽になった。それから、口実を考えた。明日から汐梨の隣は渡瀬になる。汐梨は絶対に不思議がる。私の意図に気づく。だから疑問を抱かせないような、壮大な嘘をつかなければいけない。

「中村」

 声をかけられて、心臓が跳ね上がった。恐る恐る振り返ると、早瀬が立っていた。

「あ、は、早瀬。亜優ちゃんは」

 私は早瀬の近くを見回すが。亜優らしき人は見つからない。

「亜優は今日、かぜで休みだってさ」

「あ、そう」

 私と早瀬は、なんとなく並んで歩き出した。

「……今日は帰るの、遅いね」

「別に。亜優と一緒に帰ってたから、亜優が早いんだろ」

「そうなの。……そうかもね」

 私はじっと足元を見つめて歩いていた。なんだか共通の話題がなくて、奇妙な沈黙に困っていた。以前なら部活の話をした。しかし今はもう引退している。恋の話題は、先日済ませた。他にどんなことを話せばいいのだろう。

「……中村は、汐梨と帰らないのか」

「ん、まあちょっとね。渡瀬にあげちゃった」

 よくわからないような微妙な表情をしている早瀬を見て、ふと思った。

「なんで汐梨は名前なの」

「ん。ああ、有紀がいつもそう呼んでたから」

「ああ、そっかあ」

 私は、やはり渡瀬は教室でも汐梨の話題を出しているんだ、と思って、溜め息をつきたくなった。どいつもこいつも、と思った。汐梨もその中に入っていて、私は入っていない。ということを考えると、もう一度溜め息をつきたくなった。もう考えるのに疲れた。

「あ、そうだ」

「何」

 いい口実を、早瀬を見ていたら思い出した。

「あのね、私の擬似彼氏になってちょうだい」

「はあ?」

 無論、早瀬がこんな反応をするのも当然だ。

「私はこれから大きな嘘をつかなきゃいけないの。だから、なるべく信憑性のある嘘のほうがいいでしょう。別に、毎日一緒に帰らなくてもいいのよ。亜優ちゃんいるし。ただ、汐梨の前でだけ、私に話を合わせてくれればいいの」

「何でそんなことするんだ」

「汐梨と、渡瀬が一緒に帰るためだよ。渡瀬の恋は成功してほしいでしょう。私も汐梨の恋愛を潰したくない。汐梨は急に私が一緒に帰れない、なんて言い出したら絶対自分が気を遣わせた、って思っちゃうでしょ。だから、そうならないために」

 早瀬は一応納得したようだが、渋っていた。

「何度も言うけど、ふりだけでいいの」

「……親友を騙すのか」

「仕方がないでしょ。汐梨はとことん優しいんだから」

「その優しい親友を騙してまでやることか?」

 私はいらいらと語調を強めた。

「だからッ、何度も言うけどね、汐梨のためなの。同時に渡瀬のためでもあるの」

「俺は嫌だ。そういうことは、しっかり言った方がいいと思う。それで相手が悪く思ってるようなら、自分がそうしたいだけだから気にするな、って言ってやればいいじゃん」

「そんな簡単に言わないでよっ」

 私は立ち止まった。早瀬も立ち止まる。私の中で、怒りの感情が渦巻いていた。本当、どいつもこいつも。私の気なんか知らないくせに。私がどれだけ必死で行動しているのか、誰もわかってくれない。誰もわかろうとしない。渡瀬がいい例だ。汐梨だってそうだ。真由美も、亜優も、早瀬も。

 腹の奥底から、胸へ熱い熱い憤りが沸き上がる。かあっと、頬が熱くなる。唇が、握り締めた拳が小刻みに震える。早瀬と対峙して、早瀬の無表情を見ていると、更に熱くなった。

「もうやだ」

 片手では、自然に十字架を握り締めていた。

 早瀬は厳しい顔をした。

「俺は、協力しないからな」

 ――ぶち、となって、切れた。

 何が切れたのか。私の中の何か。十字架のネックレス。


 どうして、どうしてどうしてどうして。なんで。みんなそうやって、私を蔑む。憎む、恨む、馬鹿にして……一人にする。


 咄嗟に、切れてしまった十字架を、投げつけた。それは早瀬の肩に当たって、早瀬の手の平に落ちた。

 早瀬は驚いたようだった。呆然としている。

 私は無理矢理マフラーも外すと、地面に投げ捨てた。雪の上に広がり、白の上の真紅はよく映えた。

 そのまま、何も言わずに走り出す。投げられるもの、壊せるものなら何でも壊したい気分だった。そんな凶暴な自分が中に潜んでいたことに、私は驚いたりしなかった。

 私だって、悔しかった。羨ましかった。それを抑えて、何でもないふりをしてきたのだ。

 一度くらい爆発したって、ばちは当たらない。

 しばらく走って後ろを振り返ってみたが、私とは何の関係もない人たちが私の隣を過ぎ去っていくだけだった。


 クリスマス・イブは土曜日だ。土曜日は、部活をしている現役の一、二年生は部活があるが、三年生は特にこれといって用事がない。去年まで習っていたピアノも、今年はない。私はこたつに入って温まりながら、休日を過ごしていた。

 みんなはクリスマスパーティ、というのをやっているようだが、私は招待されない。もともと狭く浅くの付き合いをしていた私を、呼ぶ友達なんていなかった。ましてや、心の中で恋に浮かれる人たちを見下すような奴だ。

「由利香、あんた受験生なんだから、勉強したらどうなの」

 みかんの皮をむいていたら、そうお母さんに怒られた。お母さんはそれだけ言うと、慌しく家を出て行った。

 私は自分の部屋に小走りで行き、無造作に散らばる教科書とノートを手にとると、再びこたつのある居間に戻った。自分の部屋は寒いのだ。灯油代がどうのこうのでストーブはあまりつけるなと言われている。

 居間には、私一人だった。お母さんは午前中のみ仕事、お父さんは一日仕事。おばあちゃんは倉庫で作業をしている。

 テレビをつける。テレビではクリスマスの特番をしていた。

 世界は浮かれている。今日はまだ前夜なのに。私はここで勉強をしていることが、酷く勿体無いことをしているように思えた。そんな自分は寂しいな、と思った。溜め息をつくと、いよいよ惨めになってきた。汐梨は今日と明日、渡瀬と一緒に遊ぶらしい。

「…………」

 テレビの音だけが聞こえる。目を閉じると、笑い声が聞こえた。小さな箱の中で、有名人達が面白いことを言い、みんながどっと笑う。頭の中でそれが、こだました。

 瞬間、チャイムが鳴った。家の呼び鈴だ。

 私はびっくりして目を開けると、急いでこたつの中から飛び出した。そして、「はい」と返事をして玄関を開ける。

 そこには、早瀬が立っていた。

 手には、赤いマフラーと、十字架がある。マフラーはきちんと畳まれていて、その上に十字架が乗っていた。私は反射的に一歩、後退った。

「……ごめん、ありがとう」

 辛うじてそれだけを口にすると、私はマフラーと十字架を受け取ろうと手を伸ばした。しかし、早瀬はひょいと手を後ろに引いて、それを返してはくれなかった。

「あの」

 と、それだけ早瀬は口にする。

「昨日は、悪かった」

「いいよ、気にしてない」

 こんなに不機嫌オーラをかもし出しておきながら気にしてない、というのも滑稽な気がした。しかし他にどういっていいのかもわからず、とりあえずそう言った。早瀬は、案の定私の言葉を言葉通り受けとった様子ではなかった。

「でも、俺の意見は変わってないから。汐梨にでも渡瀬にでも、俺にでも。言いたいことがあったら、言えば、いいだろ。俺が口を挟むことじゃないのはわかってるけど」

「じゃあ、もう放っておいてよ」

「見てると、いらいらするから」

 私はぐっと押し黙った。

 いらいらするのは、こっちの方。そう思ったが口にはせず、黙って早瀬を睨んだ。しかし、早瀬も同じように私をじっと見つめてくる。

 やがて、私は小さく、溜め息をついた。本当、どいつもこいつも。

「もう、いいよ。全部、どうでもよくなった」

 早瀬は黙ったまま、私を見つめた。私はその目を見返す。

「どうせ来年で縁も切れる。四月になれば、今日も思い出になる。いいや、もう。私が何でこんなに悩まなくちゃいけないのか、馬鹿馬鹿しくなってきた」

 馬鹿馬鹿しい。右往左往する自分が酷く滑稽だ。

「そう考えるとさ、みんなが憎くなってきた。真由美も亜優ちゃんも、渡瀬も汐梨も」

 でも、と言う時、不思議と鼓動は落ち着いていた。

「でも、早瀬のことは嫌いじゃなかった。いや、むしろ好きだよ。うん、人を好きになるっていうの、こういう感情のことを言うのかも知れない」

 早瀬の瞳が、驚きの色を孕む。無駄にリアクションが大きいよりはずっといい。

 早瀬のことが好き。口に出すと、妙に納得できた。どうして今まで気づかなかったのか。それはきっと、気づきたくなかったんだ。さんざん馬鹿にした人たちと、同じ場所に行くのは、自分のプライドが許さなかった。

「そういうわけだから――」

「奇遇だな」

 私の言葉を半ば遮るようにして、早瀬は言った。早瀬の表情に変化は見られなかったが、次の言葉を紡ぐ時、確かに一瞬、笑った。微かな笑みだったけれど。

「俺も、中村のことは嫌いじゃない。むしろ好きだよ」

「…………はあ」

 何の冗談かな、と言うと早瀬はこんな時に冗談を言う奴の気が知れない、と言った。

「でも、早瀬好きな子いないって」

「だって、わからないだろ」

「何が」

「人間っていろんな感情を持ってるだろ、その中で好き、っていう感情を探し出すのは難しい。好きっていう感情がどれなのか、俺にはわかんなかった。好きに似た感情だってたくさんあるし。けど、好きって言われて、自然にああ、俺も、って思ったんだ」

 ――なんだ。

 早瀬も、同じだった。私と。

 何が好きなのかわからなくて。どういう感情を好きと言えばいいのか見当もつかなくて。私と同じだった。だからこんなに、遠回りをしてしまったのか。お互いに。

「亜優ちゃんと真由美に怒られるね」

「仕方がないだろ。感情は自制のきくものじゃない。自制する必要もないし」

 私は、亜優と真由美の顔を思い浮かべた。私と早瀬が付き合い始めた、ということを人づてに聞いたとき、二人はどう思うだろう。きっと怒るはずだ。憎むはずだ。しかし今はそれを、怖いとか思わなかった。

「これで、口実ができたな」

「え?」

 と言ってから、ああ、そうか、と心の中で理解した。

 汐梨と渡瀬のことだ。私は頷いた。卒業するまで、汐梨とはいい関係を保てそうだ。

 私が安堵していると、急に早瀬は身を翻して玄関を出た。まだ手には私のマフラーとロザリオがある。私は慌てて早瀬の背を追った。

「外、出ようぜ。家に閉じこもってると鬱になる」

 私は早瀬の手から自分のものを取り返すと、切れてしまったロザリオはポケットに、マフラーは首に巻いた。ポケットの中で十字架を握り締めると、あの時の感情が蘇った。

 デザインがよかったから、買った。しかし、ただ、縋るものが欲しかったという思いもあった。それがこれを買った一番の理由で。

 もう、今は必要ないなと思った。

「折角拾ってきたのに、ごめん」

 と、早瀬に言うと、私は立ち止まった。早瀬も立ち止まる。

 えい、と投げようとすると、早瀬は私の腕を掴み、「勿体無い」と、ロザリオを奪い取った。

「あ、ちょっと」

 私が、何か苦悩を乗り越えた主人公はここで海かどこかに大切なものを投げつけるって相場が決まってるのよ、と言うと、ここは海でもない、ただの道路だ、と言われた。

「こんなところで投げたら、車に散々踏み潰されるぞ」

 早瀬は十字架を素早くポケットの中に入れた。そのポケットを横で見つめながら、私は早瀬の隣にいるんだ、と改めて実感した。

 早瀬は無口で、おまけに歩調が早い。いつも私は早瀬に合わせていたから、もう慣れてしまったけど。でも今日はいつもより更にちょっと早い。小走りで隣に並ぶと、早瀬は自分の歩調に気づいたようで、少しスピードを緩めてくれた。

 恋人らしい会話をするわけでもなく、手を繋ぐわけでもなかった。

 ただ、温かかった。隣が。あの時よりずっと。


 メリークリスマス、と言ってみた。

 クリスマスは明日だ、と言われた。

 じゃあ明日もう一度言うね、と言うと、

「……ん」

 再び歩くスピードが速くなった。

恋愛ものって難しいですね……。

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[良い点] 主人公の心境的なニュアンス、主人公を取り巻く様子が日常的だったのに少し親しみを感じました。とんとんと奏でているのに、登場人物の描き方は個性がでてとても感情移入はできました。それがタイトルと…
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