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三十話  オルディング商会での日々 9 -アイリスの剣術指南2-

「さて、次は歩くことを教えよう。普段人は歩くと言う事を当たり前の事と思っているだろうが、よく考えるとこれはとても難しい事なんだ」


そう言うと小次郎は横を向いた状態でアイリスの前を数歩、歩いてみせる。


「足の筋肉を使って足を上げる。その時両足で立っている時より不安定になる、体が倒れないようにしながら足を前に出して着地、後ろ足側にあった体重が前足側に移って後ろ足を引き寄せる。単純に言ってこれだけの事をたった一歩でやっている。人というものは体を動かす上で無意識に色んな事をやっているんだ、それこそ余計な事もね。私が教える歩くとは、そういったものを極力除いて無駄な動きを無くす物なんだ。とりあえずそこの壁まで歩いてごらん」


そう言うと10mほど離れた壁を指差した。

指示されたアイリスは言われる通りに壁へと向かって歩いて行き到達すると振り向いた。


《着きました。》

「うん、まずは君の歩いていた形を真似して見せるから見ていなさい」


歩き出してアイリスまであと5m位で立ち止まり「どう見える?」と言った。


《普通に歩いているように見えます》

「うん、そうだね。じゃあ、次は私の歩き方だ」


言うや小次郎は残りの5mを歩き始めた。


《あれ?》


歩き始めて3歩位だろうか、アイリスが不思議そうな声を上げた。


「何か気付いたかい?」


《なんでしょう、よく解らないのですが大平様が歩いているのは解るんです、解るのですがそう解った時には思ったよりも進んでいるというか・・・どうやって進んで来たのかがよく解らないというか、思い出せないというか・・・》


「ん、それでいい。そう言う歩き方なのだから。人というものはね結構いい加減なものなんだよ。

見えているようで見えていなかったり、出来ているつもりでも出来ていないという事がよくあるんだ。武術はそう言う事を正しく理解して、正しく用いることが出来るように稽古して行く事なんだ」


そう言うや残りの2m程を進み、アイリスの顔面に当たるギリギリで拳を止めた。


《えっ?、あぁ!》


「相手に気付かれずに接近し、一方的に攻撃できれば一番楽だがそんな都合の良い事はあまり無い。だったら対峙している相手に気付かれ難い、若しくは気付いた時にはもう遅いと言う動きをすれば良い、そう言う事だ」


《わっ私には突然拳が目の前に現れたようにしか見えませんでした》


「うん、慣れないとそう見えるだろうね。でもこれは横から見てると普通に動いているようにしか見えないんだ。だから相手以外には何故相手はこんなに驚いているんだろうって事になるんだ」


数歩下がってアイリス対して横を向き、たった今取ったばかりの動きを再現して見せた。


「どうだ、見えるだろう?」


《えぇと…これは同じ事をしているのですか?普通に動いたようにしか見えませんが》


ニカリと笑った小次郎はその場からまたアイリスに向かって同じ様に拳を突き出した。


《やっぱり同じようには思えません。速さがまったく違うと思います》


若干仰け反り気味になりながらアイリスは答えるが小次郎は

「同じなんだよ、これが見えている筈なのに見えない、若しくは見えにくい動きの効果なんだ。相対している相手と横から見ている相手とで見え方が全く違ってくるんだ。だからこそ戦いに有効なんだよ、自身ではそんなに早く動いていなくても相手にはとても早く動いたように錯覚させることが出来る。正しく体を操作する事が出来れば力の強さや体の大きさなんかの差を覆すことも出来るんだ。それが武術……武の術なんだよ。ただ単に体を鍛えただけでは到達できないものさ」


《武…の術、ですか》


「だが、何にせよ身体操作の基本である歩くと言う事から始める。これは基礎にして奥義とも直結している事だからね、どんなに上達しても基礎を忘れて我流に走ればあっという間に駄目になってしまう。だから、一番大切なことだと思ってくれ」


少し離れた所まで下がると今度は見え易い様に横向きに説明を始めた。


「基本的に体に必要以上の力は要らないんだ、力が入れば動き出しにはその力を緩めてから動かないといけない。力が入っていれば入るほど極々僅かだが動き出しが遅くなる。それは致命的な欠点になる。歩く時もそういった事を常に意識しながら歩くんだ。最初は慣れないかもしれないが、毎日やってれば一年位で慣れてくるだろうよ、私もそうだったから」


ゆっくりと歩く動作を見せながら歩いて行く。

前へ後ろへ斜めへ横へ…たまに回って見せたりする。

その動きは揺れる事無くまるで地面を滑っているかの様に見えた。


「どうだい?」


《ええと…何と言いますか、いつ動き出したのか、いつ方向が変わったのかとかよく解らなかったです。少し・・・ほんの少しですが動きに遅れると言いますか、気が付くのが遅いと言うか》


「まあ、最初はそんなもんだ。焦る必要は無い、一つ一つ進めば良い。見ているから自分の思うとおりにやってごらん」


壁へ向かって歩き、戻ってくるアイリスを視覚に置きながら木刀を構え、いつも通りゆっくりと素振りをする。

素振りを一通り終えた所でアイリスへ休憩を指示し、見取りをさせる。

刀を差し、正面へ座った小次郎はひとつの居合形を段階ごとにゆっくりとやって見せた。


現代の武道は改悪・改竄を経ており初級者・中級者・上級者がそれぞれ課題を与えられつつ行う形がごちゃ混ぜになっていて、一の形と言ったら一つしかない事が殆どだが小次郎は連盟や協会と言った団体に所属せず、明治維新前からの指導を行う師に運よく巡り会えた為、師に協力を仰ぎ多くの流派が残した伝書と改竄された形を照らし合わせ元々の形への回帰を行っていた。

特に師が陰流系であり、当時皆伝者であった高祖父から現在までの覚書や他流派の業への考察などがかなりの量が遺されていた。

指導者として優れていたのだろう、甘やかしてしまうことを避ける為に子を自ら指導せずに同系他流の指導者へ預けていた。

その事から、師がその系統の分派した流派の形をかなり叩き込まれており再編する事は難しくなかった。

その中からどの系統でも最初にやる形を選んだ。

立膝から刀を鞘ごと正面に突き出し、そのままの状態を維持したまま左手と体の捌きだけで刀を抜いてみせる。

この形は右手及び右半身を使わず、左半身のみで刀を抜き扱う事を要求しそれを体に理解させる為の物であって、実戦には使えない。

だが、これが出来なければ実戦に役立つ業の習得など出来やしない。

これが出来るようになってから右半身のみ、左右の半身を同時、最後に両半身をバラバラに使うことが出来るようになって初めて一瞬にして刀を抜き打つことが出来るようになるのだ。

これだけの内容があるのだから、ひとつの型であっても実際には3つか4つの形が存在してしまうのだ。

それを過去の指導者たちは見た目が良い様に改竄してしまったのだ。

見た目が良い…それは相手に見えると言う事、相手に対し見え難く理解し難い動きを要求している筈なのに見えるとはどういう事なのか、形それぞれが要求する課題を理解することが出来ずに行ったことの影響は計り知れない。

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