10月 そして、新たな力が導かれてくる -後編-
ファ―ストフ―ド店の横にある細い路地を通って区画の奥へ奥へと進んでいくと、その建物は現れた。細長くて真紅色に塗られた二階建ての建物で、道路に面した部分は二階も含めてガラス貼りになっている。店内がすべてカウンタ―席のカフェバ―で、ビ―ルの種類とエスプレッソにマスタ―が全身全霊を掛けていた。
しかも、マスタ―の人格と調和するかのように必要以上に騒がしくないから、客もエスプレッソやビ―ルを堪能できる店である。
「君らが揃って現れるのは、けっこう久しぶりだね」
緩やかな声で笑うマスタ―につられて、ケイウォンもL字型カウンタ―の端でスマ―トフォンをいじっている藍澤さんを見た。
「ねぇ、マスタ―。変な事を聞くけど、彼女って初めてこの店へ来たときから車椅子でしたよね?」
彼はカウンタ―越しに、マスタ―から赤い肌の悪魔が描かれているラベルのビ―ルと、宗教画が描かれたラベルのビ―ルを受け取る。
「そうだよ。あの頃は、男の子みたいに髪の毛が短かったんじゃないかな」
「そんな時期もあったね」
不意にケイウォンの首筋へ、静電気に似た微弱な痛みが走った。
― また、この痛みだ ―
彼が慎重に店内を見回すと、店の奥に見覚えのない扉が付いた七段の棚が設置されている事に気付く。棚自体はワインセラ―のような構造になっていて、中に大量のボトルが陳列されていた。しかし、所々ボトルとボトルの間に広い空きが出来ていて歯抜け状態になっている。
「あれ、マスタ―。こんな棚……前からありましたっけ?」
一瞬だけマスタ―の表情が変わったような気がしたが、ケイウォンが視線を向けるとマスタ―はいつも通りの笑みを浮かべていた。
「マディラ・ワインだよ。ポルトガルで造られている酒精強化ワインさ。世界三大酒精強化ワインで、エスプレッソの相性も抜群だよ」
「へぇ、今度試してみます」
ケイウォンはマスタ―から受け取ったサラダやソ―セ―ジが盛られたお皿を持って、彼女がいる席へと戻った。
「ねぇ、これ何処で買ったの?」
藍澤さんへビ―ルを手渡しながらスマ―トフォンの画面を見たとき、彼はまったく見覚えの無いアイコンが羅列されている事に気付く。
― 文字? いや、記号のアイコン? そんな表示方法はないよな ―
ケイウォンが一度彼女を見てから再びスマ―トフォンへ目線を戻すと、彼自身が見慣れた画面へ戻っていた。
― そうだ、記号というよりあの紋様に似てる ―
「どうしたの、自分のスマ―トフォンをジッと見つめちゃったりして?」
「メ―ルとか見られてないか、ドキドキしていたんだよ。ビ―ル、こっちで良いんだよな?」
彼はそう言いながら、赤い肌の悪魔が描かれているラベルのビ―ルを彼女へ手渡した。
「うん、それそれ。どうせ、見られて困るモノなんて携帯の中に入れ続けておかないでしょ?」
― それは、言えてる ―
ケイウォンが彼女からスマ―トフォンを返してもらったとき、突然足音もなく真横に気配を感じる。驚いて振り返ってみると、いつの間にかグラスを持ったマスタ―が立っていた。
「ビ―ルのグラスを忘れてるよ」
藍澤さんの前にはチュ―リップの蕾のように口が広くてすぐ下が窪んでいるグラスを、彼の目の前にはグラス部分と足部分が細長いモノが置かれる。
「ビ―ルは、必ずグラスに注いでから飲む事」
静かに歩き去るマスタ―の後ろ姿を二人で見送ると、藍澤さんはグラスを手にしながらケイウォンの方を見た。
「ところで、そのスマ―トフォン……どこで買ったの?」
大麦だけが使われているとは思えない複雑な香りとほのかに甘い風味、それに力強いアルコ―ルが彼の食堂を通っていく。二口ほど飲んだところで、ケイウォンも彼女の方を見る。
「ネット通販だよ。ネット・オ―クションサイトで売られている……と噂で聞いたから、色々探していた時に通販サイトを見つけたんだ」
彼は藍澤さんに購入した経緯について思い出しながら説明していくが、ふと通販サイトの名前を覚えていない事に気付いた。
― ブックマ―クは付けていたはずだから、後で確認してみるか ―
「ねぇ、私にも後で通販サイトのURLを教えてよ」
「もしかして、藍澤さんもスマ―トフォン?」
「他社のだけどね」
彼女が上着のポケットから取り出したスマ―トフォンは、スライド式のキ―ボ―ドと一体となっている随分と古い機種に見える。彼女のスマ―トフォンに気を取られているうちに、グラスの飲み口を指で軽く撫でたような振動音が聞こえた。
「……ん?」
ケイウォンが自分の目の前に視線を落とすと、そこにはグラス部分と足部分が細長いビ―ルグラスが置かれている。しかし、何口か飲んだはずなのにビ―ルが注がれたばかりの状態になっていた。
― さっき飲んだはずなのに、凄く喉が乾いているような。あれ、飲んでないんだっけ? ―
「どうかしたの?」
怪訝そうながら何かを秘めた表情を浮かべている彼女を見て、彼は小さく首を横に振る。
「つ、通販サイトを保存していたはずだから、帰ったらメ―ルをするよ」
「よろしくね」
彼らは意識せずにグラス同士を合わせると、同時にビ―ルを一口飲んだ。
「……」
藍澤さんが何かを話しているので耳を傾けようとして、ケイウォンは自分の意識が軽く飽和しかかっている事に気付く。
― お、おかしいな。まだ三本目の栓を開けたばかりなのに ―
「何、お酒に弱くなったんじゃない?」
彼とは対照的に、藍澤さんは何事もないかのように平然とした表情で四本目のビ―ルを飲み始めていた。
「そんな事はないと思うんだけど……」
彼女は自分が手にしているビ―ルグラスの飲み口を指で軽く撫でると、テ―ブルの上へ静かに置く。グラスからはビ―ルが増えたと感じたときと同じく、振動音が微かに聞こえた。
「そういえば、今日会ったときに握手をしたでしょ?」
ケイウォンは、何かを押し隠した笑みを浮かべている藍澤さんの顔を凝視するが真意を見いだす事ができない。酔いが回っている事もあって、彼は彼女の顔を見つめたまま無言で頷いて見せた。
「まさか、本気で占いとか言い出さないよな?」
彼女は何も言わずに、宙へ文字を書くかのように指先を走らせる。
― 何だろう、彼女の指先の軌跡越しに何か見える ―
藍澤さんが指の動きをようやく止めると、軌跡は宙で淡く輝きを放ち始めた。光はやがて細い糸となり、束となって収束し、多彩な色を使った使った綴れ折り状の紋様が完成した。
「私ね、あの握手をしたときから分かっていた事があるの」
彼女が作り出した紋様は、さらに文字を形作っていく。
「これが見える?あなたが私に言えなかった事の答えよ。あなたは、もう新しい世界へ踏み込んできているの」
彼女の指が横一直線な線を宙へ描くと、紋様は簡単に光を失って霧散した。
「……」
ケイウォンは何とか気分を落ち着かせるために、ビ―ルを一口飲む。
― 僕が言おうかどうしようか悩んでいた時間は、一体何だったんだろう? ―
ビ―ルによる酔いが強すぎたのか、頭がハッキリとしないままケイウォンは光の文字に見惚れていた。
「この際正直に聞くけど、君が作った紋様みたいなモノといい……これは一体何?」
藍澤さんは車椅子の上で姿勢を正すと、まっすぐに彼を見据えた。
「……魔法よ」
彼女と見つめ合っているのが気まずくなって、ビ―ルグラスを手にしようとした彼は動作を止める。
「超能力か何かって言われれば、なんとか納得が出来るけど魔法って何だよ?」
彼女の言葉を聞いて、ケイウォンは思わずアニメやテレビゲ―ムで出てくる魔法を思い浮かべてしまった。
「長々と良くわからない言葉を叫んだり、虫とか毒々しいモノを鍋に入れたり、火やら何やら色々と敵に放ったり」
彼が思いつくまま適当に口に出した途端、テ―ブルに置いてあった未使用のスプ―ンで彼女に頭を軽く叩かれる。
「そんな遊びと妄想の産物を汚らしく混ぜ合わせたモノじゃないわ」
藍澤さんは、皿に盛られている大きめなソ―セ―ジをフォ―クで突き刺した。
「私の言う魔法は、あなたにも見えるあの模様を作り出したり、直したり、組み替えたり、破壊する事で引き起こした結果の事よ。それはある意味[真実を改竄する事]に等しいの」
彼女が手にしているフォ―クから刺さっているソ―セ―ジにかけて、綴れ織りのような紋様が一瞬現れる。それをそのままケイウォンの口元へ近づけた。
「はい、ア―ンして食べる」
藍澤さんの視線に負けて、差し出されたソ―セ―ジを口に入れて噛み切ろうとする。しかし、石にでも噛みついてしまったかのように、まったく歯が立たなかった。
― 冷たくなかったから、凍っているわけじゃないよな? ―
「何だよ、コレ?」
彼女がフォ―クに突き刺さったソ―セ―ジを自分の口元に寄せて噛んでみせると、ソ―セ―ジは何事も無かったかのように普通に噛みちぎられる。
「顎まで弱くなってきているんじゃないの? というのは冗談で、これも[真実を改竄する]魔法の一種よ。起こりえない現象、起こるかもしれない現象……と偽装して世界を騙して引き起こすものなの」
「……」
あまりの展開に、ケイウォンは言葉を忘れてしまったかのように呆然と藍澤さんを見ていた。
「理解は、ちゃんと追いついてきている?」
「実を言うと、あまり自信がないんだ」
藍澤さんは軽く溜息を漏らすと、固く目を閉じて意識を集中させ始める。彼は目を瞑っている彼女の顔を見続けている事に気まずさを覚え、グラスに残っているビ―ルを飲み干そうとグラスの飲み口に口を付けたところでケイウォンの身体が硬直する。彼の目の前で藍澤さんは何事も無く車椅子から立ち上がると、テ―ブルの上に散乱している空き瓶を何本か店内のカウンタ―へ戻してきた。再び車椅子へ腰掛けた彼女は、酷く疲れているように見える。
― 藍澤さん、小さい頃からどんなにリハビリをしても歩け…… ―
「今、本当に歩いたのか?」
ケイウォンは彼女を久しぶりに見たときの事を思い出した。
― そういえば、僕は彼女が歩いている姿を見た覚えがある ―
「ちょっと、酔っぱらい過ぎじゃないのかい?」
テ―ブルの横から不意に声が聞こえてきたので視線を向けると、生ハムとサ―ディンが盛られた皿を持ったマスタ―がそこに立っていた。
― 一体何時の間に? ―
「ついさっきの事なんだから、オ―ナ―も見たでしょ?」
オ―ナ―は“何を馬鹿な事を……”と言わんばかりに肩をすくめ、空いた皿や残っている空き瓶を持って行ってしまう。オ―ナ―がカウンタ―へ戻った途端、彼女は声を上げて笑い出した。
「今度は、[真実を改竄する事]について理解できたかしら?」
彼が降参の意を込めて無言で両手を上げてみせると、藍澤さんは満足そうに頷いてみせる。
「君は、僕と初めて会ったときからこういう事が出来たんだ。だったら、ずっと歩けるようにするってことはできないのか?」
彼女が着ている上着を少しだけ脱いで肩口をケイウォンへ見せると、色素が黒く変色していてトルソ―素材のような見た目と化していた。彼は言葉を続けようとしたが、ゴクリと音を立てて慌てて飲み込む。
「魔法と呼ばれていても、決して万能じゃないわ。ほら、よく漫画や小説であるでしょ。“得ようと思ったら与えよ”って」
彼女は上着を着ると、襟元を正す。
「この世界の『真実』はね、全人類の『思い込み』で作られた厚い膜なのよ。「“人は空を飛べない”、“人は人を殺してはならない”、“魔法なんてこの世に存在しない”、“ファンタジ―はフィクションである”、誰かから教わらなくても、物心付いた時から当たり前のように知っている事すべて。それら“共通認識”という名前の『思い込み』が、魔法の力を阻害するの」
彼女は生ハムとサ―ディンを小皿へ盛り分けると、彼女自身とケイウォンの前に置いた。
「綴れ織りのような紋様を作ったり、組み替えたり、壊したりすることは、“共通認識”という『真実』をねじ曲げる行為なの。それが、世界に存在する魔法ってわけ」
彼が生ハムを頬張ると、今度こそ塩漬けされた塩味と肉の脂っぽさが口の中を満たしていく。
「何となく理解できたような……出来ないような。魔法ってやつは誰もが同じ力を操るのか?」
彼女は手に持ったフォ―クの切っ先を、テ―ブルの上に置かれている暗青色のスマ―トフォンに向ける。
「そのスマ―トフォンが導いてくれるわ」
「っえ!? これが?」
彼は改めて手に持ったスマ―トフォンから、何か特別なモノを感じる事ができなかった。
― そういえば ―
この暗青色のスマ―トフォンが届いたとき、ハンチング帽が勝手にテ―ブルの上へ乗っていた事を思い出す。
彼女がスマ―トフォンを操作していたら、表示されているアイコンが見たこともないモノになっていたような気がした。
ソ―セ―ジが石のように固くなり、彼女はケイウォンの目の前で何事もなかったかのように歩いてみせる。
― 『真実』をねじ曲げる行為 ―
彼は疑問を含んだ目線を彼女へ向けるが、藍澤さんは気にする事無くマスタ―が次に出した料理の皿に手を付け始める。
「美味しい」
彼女が料理を切り分ける度に、美味しそうなトマトソ―スが匂ってきた。途端に、ケイウォンの腹も空腹を訴え始める。
― お腹空いたし、僕も食べよう ―
いつの間にか彼女が取り皿へ取り分けてくれた料理を口すると、バジルなどの色々な香草が使われたトマトソ―スが何故かケイウォンに安心感を与えてくれた。
「僕にとっては、この料理も魔法な気がする」
「私も、そう思うわ」
ケイウォン達は、同じ料理をもう一皿追加で注文した。