9月 海の中で、一瞬だけ真理と出会う
「世界は水没した……。先生、一度水没した世界には浮上する力が残っているんですか?」
ケイウォンは6.2フィ―トのサ―フボ―ドと共に海の中に浸かり、浜まで運んでくれる波を待ち望んでいる。ルタ先生の元で研究の手伝いをしていた最後の月、彼はルタ先生からサ―フィンを教わった。【神持町】が海からそれ程離れていない事もあり、ケイウォンは空いた時間を見つけて海へ来るようにしている。
力のある波が浜に向かってやってくるのを待ちながら、漂っている場所から見える範囲の風景を眺めていた。
ケイウォンから向かって右側は防波堤越しに近代的とも言える建築物が密集していて、霞が掛かる程の遙か当方に背丈の高いビルがようやく見える。
向かって左側は、防波堤の後ろに規則正しく並んだ背の低い住宅群が見え、その背後にはまるで大地へ深く打ち込んだ楔を連想させる深い森の緑を身に纏った岩山がそびえ立っていた。
― 何と言うか、現実と非現実の境界みたいだな ―
『……』
そんな考えが彼の脳裏を過ぎったとき、誰かの囁き声が聞こえてくる。
「……え?」
ケイウォンが風景から目を離して海の方へ振り返ると、力強いうねりが間近で波を起こそうとしていた。
「おっと、ヤバいっ!!」
顔を上げて浜の方へ向けられる程度に胸元をサ―フボ―ドから反らし、彼はその姿勢のまま顎を引く。背後から迫り来る波のスピ―ドに負けないように、水を掴むイメ―ジでサ―フボ―ドの下にある水を掻き出すようにパドルを続けた。
サ―フボ―ドの前へ進む慣性が強まって、波の上を滑り出した途端にケイウォンは身体を起こす。サ―フボ―ドの後方に置いた右足に重心を掛け、心なしか前に出した左足を前へ出す。そのままサ―フボ―ドの上で立ち上がれば、彼は映像や写真で誰もが見知った波を乗る姿勢へと持って行けるはずだった。
― 立ち上がれない ―
ケイウォンの脳裏にはサ―フボ―ドの上で立ち上がった途端、バランスを崩して波にもみくちゃにされるイメ―ジが過ぎっていく。彼が立ち上がるのを諦めると、ものの数秒で浜まで戻ってきていた。
「一体何時になれば、立って波を乗ることができるんだろうなぁ」
ケイウォンは若干だが陰り始めている空を見上げながら、ルタ先生が颯爽と波の上でサ―フボ―ドを使って美しい曲線を描き出す姿を思い出す。
― でも、あのタトゥは真似できないな ―
彼は足首に巻き付けていたリ―シュコ―ドを外してサ―フボ―ドへ巻き付けると、海に背を向けた。防波堤の奥にある駐車場へ歩き出そうとしたとき、再び背後から誰かの囁き声が聞こえてくる。その囁き声は老若男女の区別を付ける事は出来なかったが、
「もう少しで、雨が降る」
とケイウォンに教えてくれていた。
事実、駐車場へ戻った途端に雨が降り始める。
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その日、ケイウォンはすっかり常連となったカフェ・バ―ルの店員から一本のDVDを借りてきていた。その店員は彼と一緒にサ―フィンを始め、彼より先にメキメキと腕前を上達させている。いつものようにカフェ・バ―ルへ立ち寄り、マスタ―と世間話をしながらカフェラテを作ってもらっているときに手渡された。
― 今の僕に合う作品って……本当で言っているのだろうか? ―
その店員の言葉にケイウォンは半信半疑だったが、部屋に戻ってDVDを再生した途端にそんな疑問も吹き飛んでしまう。一秒たりともテレビ画面に映し出される映像を見逃してたくないからか、彼はカフェ・バ―ルからテイクアウトしてきたカフェラテを飲まずに画面を見入っていた。
この手のDVDを一度でも観た事がある人には、ありふれたサ―フィン映画の一つに違いない。様々な乗り方や技を見せつけるような映画とは違い、地理、精神や伝統、文化や人物など様々な切り口に焦点を当てたロ―ドム―ビ―だった。
「……」
ケイウォンはすでにこのサ―フィン映画に対して語る言葉を失っていて、映像から感じ取れる民俗、風土、宗教、娯楽、飲食、精神が彼の心に新しい経験と価値観を上書いていく。
ケイウォンの心の中で渦巻く感情の高まりが納まると、彼の内面が急速に再構築されていった。再構成された新しい彼の視界は、これまで認識できなかったモノも捕らえるようになる。
「何だこれ、綴り織り?」
画面に映し出されている波や海、音だけが聞こえる風の上に、何か糸のようなモノを複雑に編み込んだような綴れ織りの模様が重なって見えるようになっていた。彼は画面から視線を外して、部屋の中をグルリと見渡してみる。部屋の中にあるありとあらゆる家具、書籍やCD、壁に掛けてある上着やサ―フボ―ドにまで、不思議な綴れ織りの紋様が重なって見えた。そして、彼自身の身体も紋様が重なって見えている。
「何だ、コレ?」
その紋様は少しの間だけ見え続けていたが、雪が溶けるかのように彼の視界から消えていった。