8月 本の城で、ある夢物語と出会う
“近代化”とは真逆を突き進んでいるように思える細くて古いコンクリ―ト鋪装の道が交差する下町。大きな国道から離れるように入り組んだ道を歩いていくと、天井の高そうな木造町屋の密集した下町が姿を見せた。スルリスルリと再開発の熱気を避けて通ってきたこの街は、今時珍しく空を貫かんとするような高層ビルが周囲には無い。それがケイウォン・浩二・望月が少し前に引越してきた【神持町】であった。
「……何だ、これ?」
ケイウォンが小声ながら疑念の声を発したのは、短い車両の電車を走らせる都電の駅近くに聳え建つ一軒の図書館。近隣の街のように小さな分室を幾つも連ねているわけでもなく、上空から観ることができたならば前方後円墳のような形をした四階建ての巨大な建築物が図書館として機能していた。
彼が本を探していたのは、民俗学の棚が並んでいる場所。本の題名に“水没”という言葉が使われていたのでケイウォンが思わず手に取ったとき、二つ折りにされた一枚の紙が本と本の隙間からハラリと床へ落ちた。拾った紙切れは手触りからして、かなり時間が経ったモノな気がする。本の装幀を眺めてみるが、ケイウォンが手にした本は年期が入ったモノには見えなかった。
「……?」
二つ折りにされた紙を開いてみると、短い文章が書かれている。
世間はいつものように、平凡に時間が流れているかもしれない。
誰かは幸せを掴み
誰かに不幸が降りかかり
誰かは欲望を満たし
誰かに死が満たされていく
この街は平穏そうに見えて、今日も暗黒が満ちあふれていた
「小説の一部か何かかな?」
不意にケイウォンの首筋へ、静電気に似た微弱な痛みが走る。
― 誰かが僕の背後にいる!! ―
勢い良く背後へ振り向くと、どことなくヴィクトリアンメイド風な漆黒色のロングドレスに、深緑色を黒く深めたような色をした作業用エプロンを着用した女性が立っていた。その人は、ケイウォンに向かって一冊の本を差し出している。表紙には『ヨ―ロッパにおける太陽信仰』という題字が書かれていた。
お礼を言うと小走りに去っていく司書さんを見送り、ケイウォンはその場で受け取った本をパラパラと捲っていく。ザッと目を通しては、ケイウォンは使い込んでいる牛革素材のカバ―を掛けた手帳を開いて、走り書きした内容と本の記述をいくつか照らし合わせていった。
― あぁ、やっぱり僕の仮説は正しかった ―
両手を塞いでいた本と手帳を脇に抱えてから、ケイウォンは最初手に取った本へ視線を戻す。『水没世界の水面を渡る者』という題名のこの本は、学術資料といよりは、無名の小説家が書いた文学作品のようだ。
「これは……」
ペ―ジを捲っていく程に、この作者のテ―マが彼の書こうとしているテ―マと似ている事に気付く。
「僕以外にも、こんな事を考えている人がいるんだな」
カウンタ―へ本を持っていたとき、受付カウンタ―で貸し出し作業をしている司書さんに不思議そうな顔をされた。
― まぁ、普通の人にとっては不思議な本か ―
ケイウォンは何事もなく、貸し出し手続きが済んだ本を手渡される。
「この図書館は、探したら他にも関連しそうな書籍がありそうだけど」
彼が図書館の外へ一歩踏み出した途端、背中から冷たい汗が吹き出た。
「ここへ来る度に、変な疲労感があるよな」
ケイウォンは手の甲で汗を拭うと、マウンテンバイクにまたがってペダルを漕ぎ出す。
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砂利や石を敷き詰めた玄関を上がって、左手にある四畳ばかりの接客室に入った。その奥には二階へ続くかなり急勾配の階段があり、ケイウォンは階段を登って自分の作業部屋へ入る。そのまま壁掛けに帽子や上着を掛けると、南側の壁沿いに寄せている二つ並べた机の右側に鞄や郵便物を置いた。この部屋を借りるときに安く買ったこの二組のワ―キングデスク、右側のデスクは水没したモノを修理した逸話があるらしい。
彼が部屋の戸を開け放ってカ―テンを開けると、赤みかかった木の床を太陽の光が照らして部屋の中が一気に暖かくなった。揃っている家具や雑貨の影響もあるのかもしれないが、ケイウォンにとっては二階建ての長屋ながら古い洋館のようなイメ―ジがある。
「まぁ、先生の趣味全開っていう部屋だよな……」
右側の机上に置いてある背の低い棚から数冊のバインダ―ノ―トを取り出すと、部屋へ帰ってくる前にコピ―を取っていた書籍のペ―ジを整理していった。その後で、ケイウォンは別の引き出しから取り出したレポ―ト用紙に色々と記録を書き留めていく。
それがケイウォン・浩二・望月のライフワ―クであって、【神持町】へ引越してきた理由であった。彼は科学的ではなく、文学・文献的に【吸血鬼という存在】を検証しようとしている最中である。“趣味”と表現するには、いささか情熱を注ぎすぎている……と周囲から言われることもあるが。
「これが、新しい議題の検証内容である“吸血鬼は太陽崇拝者の揶揄なのではないか?”についての考察である……っと」
ケイウォン・浩二・望月はこの世に『吸血鬼』なる空想の化け物が存在している事を検証しようとしていた。ただ、科学的ではなく文学的に検証しようという不思議な試みなのである。
彼のライフワ―クが始まった発端は、まだ学生だったときの事。その頃のケイウォンは、学校で環境社会学と民俗学を合わせたような奇抜な授業をしていた教授の手伝いをしていた。教授は学生全員から『ルタ先生』と呼ばれていて、『水没信仰に関して』というテ―マであれこれ研究を今も続けている。先生が喜々として話してくれた内容を要約すると世界はすでに何度も水没していて、僕達が生きている今は更なる発展へ向けて大地が英気を養っているとか。人間は太陽や月と同じく、“水没した世界”を信仰の対象とみなして神格化している地域や国があるのではないか?
ルタ先生は住む場所を転々としながら、その土地や地域で見つかる文献などから世界が水没していた確証と歴史を得ようと旅を重ねていた。ケイウォンが今住んでいるこの長屋も、元々はルタ先生から住んでいた所を譲り受けたのである。
彼のライフワ―クは、ルタ先生の研究が下敷きとなっていた。ケイウォン自身も元々は怪奇小説が好きなオカルト趣向があったが、ルタ先生の研究を手伝ううちに
“水没信仰と他人の血を吸うことでしか生きられない吸血鬼というのは、何か関係があるのではないか?”
と思い立って、吸血鬼という存在に関心を抱いていく。
人体を構成するのに必要な90%以上もの水分、および血液の成分は地球の深海……原始の海とほぼ等しいのだ。さらには、水没信仰を崇拝する人々の中でもごく限られているが、水だけで人間が生きていく上での全栄養素を摂取できるベジタリアンも確かに存在している。
これらの漠然とした文献と聞きかじった知識により、
「世界は人間を構成するために大地の土台、もしくは安定剤となる太古の水分(原始海成分)を過剰に消耗したために水没したのではないか?」
「吸血鬼とは世界がすでに水没した真理に気づき、寿命が淀んでいくに連れて淀んでいく体内の原始海成分を他人から供給する事で長寿を得る生命体ではないのか?」
ケイウォンは、夢物語みたいな仮説を立てて検証を行っていた。
― “世界に魔法は存在しない、吸血鬼なんて存在しない” しかし、それこそが偽りの共通認識である。 ―
「何か、そんな事を書いていたオカルト作品があったな」
もう少しで思い出せそうだったが、空腹を知らせる音が彼の思考を阻害する。
「腹が減っては、良いアイディアも浮かばびませぬぞ―」
ケイウォンは冷蔵庫の中に入っている残り物を頭に浮かべながら、急勾配な階段を下りていった。
昔同人小説冊子用として作ったお話を少しずつ投稿していく企画第3段。水没世界の旅人を書いた後でしばらく印象に残っていた「水没信仰」という言葉をキーワードに書いていたお話。
ちょうどTRPGを再び遊び始めた時期で、その影響も含まれているのがよくわかる。登場人物が発狂しないで良かった(これこれ
これは、全6回。毎日正午に1話ずつ追加していきます。最後までお付き合いいただけると筆者としては嬉しい限り。