オムラ男爵の告白
こんにちは、諸君。オムラ男爵だ。この寒い中よくぞ我が荒ら屋まで足を運んでくれた。まあ、疲れただろう。とにかく椅子にかけたまえ。とっておきのダージリンティーを一杯ごちそうしよう。家内がいれば持ってこさせるのだが…私の淹れたもので我慢したまえ。
そうだ、遠慮せずに寛ぎたまえ。年を取ると枯れ木が朽ちていくように友が少しずつ倒れていき、落葉が降り積もるように寂しさが心の器を満たしていくのだ。老人の病とは孤独だ。諸君の来訪に本当に感謝している。
ほら、淹れたてだ。このティーマットは娘が編んでくれたものだ。リナリアという花をあしらったそうだ。私は花についてはよく知らぬ。だが、春先から長い間に渡って咲き続ける香り高い花だそうだ。さあ、この紅茶で体の冷えをとってくれたまえ。
ところで、先に諸君に謝っておくことがある。老人の悪い癖なのだが、近頃ことあるごとにとるに足らないことを長く話しがちになる。今日も例に漏れず退屈な世間話に賓客を付き合わせることになるかもしれない。だが、是非これは諸君に聞いてほしいことなのだ。
◇◇
昔、人里から外れた山深くに一人の男がいた。男は遠くの町から来たものだった。同時に市井にいる決して少なくない、ひどく失敗してしまった人々の一人だった。失敗の原因は怠惰とか不思慮といったありふれたものだった。何もかも一切をなくして市街にいられなくなった男は、辺境の山にささやかな小屋を建てて隠棲するつもりだった。
男が山に入ってから数ヵ月たったころ、事件は起きた。山菜を採りに行った帰りのことだった。いつも通り小屋のある辺りに戻ってくるとぎらついた西陽の中に人影が見えたのだ。
人影は初老の女だった。ふくよかで人のよさそうな顔をしている。こんな山奥に何をしに来たのか全く検討のつけようがなかった。男は恐る恐る婦人に近づいた。すると婦人はすぐに男の存在を認めたようでこういった。「お帰りなさい、あなた。」
男は戸惑った。男にはそもそも妻はおろか親類縁者もいない。誰かと間違えているのではないか。そう告げたが婦人は声をあげて大きく笑うだけだった。今日は珍しく男が冗談を言ったのがおかしかった、男と婦人はずっと一緒にここで暮らしている、というようなことを言っていた。
男は気味の悪さと悪寒を感じていたが、婦人があまりに当然のごとく語るので否定することができなかった。どうしたものかと考えていたが、とりあえず収穫した山菜を小屋の中に運び込んでみて外を見ると婦人はいなくなっていた。
男はひどく混乱した頭を抱えながらその夜眠りについた。男は巷間にいたころの経験で人間を恐怖していた。恐怖に対する反応からか腹部が痛んだ。だが、婦人はそのまま現れず、日が登り朝になると男も少し気を持ち直した。白昼夢を見ただけかもしれない。山での生活で思った以上に身体が堪えているのだ。そう自分に言い聞かせた。
しかし、昼頃に薪を割っていると青い服を羽織った男たちが小屋の前に集まっているのが見えた。男はいよいよ当惑し、木陰に隠れた。なんということだ。しばらく見ていると青服の男たちは小屋を解体し始めた。隠れたはいいもののこのままでは大切な住み処をなくしてしまう。仕方ないので男は意を決して話しかけた。
青服の男たちの返事は意外なものだった。「私たちはあなたの家の改築を依頼された大工です。あなたの奥さまに頼まれました。その間、この家は使えないので麓にあるあなたの友人の家に泊まるようにと、奥さまから言伝てがあります。」
用意された馬車に乗り、御者に連れられるままに男の友人であるという者の家を訪ねると、そこは男が今までに見たことのないような豪邸であった。男が半ばやけくそになり門を叩くと、驚くべきことに礼儀正しい使用人たちがにこやかに屋敷に迎え入れてくれた。
応接間では白髪の混じった紳士と昨日の婦人が待っていた。この紳士が男の友人であるという男で、婦人が男の妻であるという女であることは容易に推察できた。男は本当のことを打ち明けようと思ったが紳士と婦人は余りにも親しげだった。何より町にいたときにも滅多にお目にかかることのなかった豪勢な料理に目が眩んでいた。
男はどうやら大層な貴人ということだった。もともと何もかも失った身だ。男はあえて誤解を解かないまま生活していくことにした。
男が山に戻ると小屋はすっかり様変わりしていた。小屋だった場所にはちょっとした洒脱な洋館がたち、庭先には色とりどりの花が咲いていた。婦人や使用人たちもいた。
それから男は悠々自適な生活を送った。幾度となく来客が来たが、男の正体が露見することは一度としてなかった。大分前に嫁いで出ていった娘、昔住んでいたという家にいた家政婦、男が以前資金を援助して助けたという商人。客人の来訪の度に男は今の生活が終わることを覚悟した。しかし、みな男との再会を喜びこそしたが、何故か疑うことはなかった。
そのうち男には一つの疑問が芽生えた。一体自分はどんな人物と間違えられているのだろう。いや、もともとこの山深い地に初めて小屋を建てたのは自分だ。とすると婦人の話を信じればもともと婦人と一緒に暮らしていた男など存在しようがない。とすれば婦人たちこそ何者なのか。
調べても曖昧な情報しか分からなかった。下手に婦人や来客にそのことを尋ねても怪しまれてしまうかもしれない。今の生活を捨てたくない男にとってはそれは避けねばならないことだった。聞き知ったことをパズルのように繋ぎ合わせて、何とか想像してみたりした。紅茶の中でもダージリンティーが好きなこと、花鳥風月といったものにあまり興味を示さない無骨な人物であるということ、娘から貰ったティーマットを大事に持っているということ…
そのうち婦人は亡くなり、使用人たちもそれぞれの理由で館を離れていった。また一人館に取り残された男だった。それでも男の知己であるという客人の来訪は続き、男のものであるとされる財産が多量に残されていたが。そして男も病にかかった。症状こそひどくなかったが、不治の病であり、男は自分が近いうちに死ぬことを悟った。
死ぬ前に来た最後の客に自分のことを打ち明けて話を聞こう。この不思議な現象を解明するのだ。それが男の最後の決断だった。
◇◇
もうお分かりだと思うが件の男とはこの私である。ここまで長い話に付き合ってくれた諸君に礼を言いたいと思う。そして不躾だが諸君にいくつか尋ねたいことがある。本物のオムラ男爵とは一体何者なのか、そもそもそのような人物は実在するのか。そして、オムラ男爵の知己を自称する諸君は何者なのか。
そう言うとオムラ男爵は静かな笑みをたたえながらも、しっかりとこちらを見据えた。
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自称人類学者シモヤマの所見(一部抜粋)
「…このように時間や空間、そして自己に対する認識は非常に曖昧で、それらが何らかの理由によってねじ曲げられることは特に稀ではない。″オムラ男爵″が発見されたとき、瞳孔の散大、血圧の上昇、吐気が確認されたが、これは示唆的である。ただこのような場合においてもなお、彼がかように早まらずに一杯の紅茶までで我慢していれば、悲劇的結末を迎える可能性は低かったであろう…」