ミキの苦悩
「……う~ん……」
ミキは唸った。普段あまり使わない頭をフル回転させているからだ。
「……う~ん……」
彼女がコレほど唸っているのは『何をしたかったのか』忘れてしまったからだった。直前まで何かを渇望していたことは間違いないのだがそこだけが落とし穴にでも落ちた様にまるで空っぽになってしまった。そのまま忘れておくのも据わりが悪いのでこうして思い出そうと苦戦を強いられているのだった。
「もとはと言えばこいつさえ拾わなかったら忘れなかっただろうに……」
そう言ってミキは右手に持っているトランクケースを恨めしげに見つめる。
「あんなにはしゃぎゃなければ……」
河原を歩いていたミキはこのトランクケースが地面に捨てられているところを見つけた。辺りを見ても持ち主らしき人もいなかったので、いけないことだと思いつつ現金一千万円を頭に思い浮かべながらトランクをあけてみた。しかし大層なトランクケースに入っていたのは用途不明の、ボールのような機械であった。
ミキの落胆は少なからず、というには少しばかり足りない程度に大きかった。今までの目的を見失うほどに。
「一千万円あったら謝礼の一割で富豪になれたのに。中身はガラクタ、しかもど忘れときたもんだ! まったくふんだりけったりこの上ないよ! ……でもまぁ仕方ないや。コレを交番に届けるか」
とりあえずの目標ができたところでミキは歩き出す。こうして時間を稼げば思い出せるかもしれないという期待もこめて。
最寄の交番に行く途中、ミキはアーケード状になっている商店街を通っていった。人懐っこいミキは商店街の人たちとは全員面識がある。
八百屋の前を通れば
「おっ! ミキちゃんお出かけかい!」
肉屋の前を通れば
「ミキちゃん。今ならコロッケ出来立てだよ。一個どうだい?」
といった具合だった。いつもなら軽口のひとつもしゃべって見せるのだが今は先を急いでいる。
「今それどころじゃないの!」
これ以上他のことにかまけていると思い出せるものも思い出せないと思い、ミキはわき目も振らず歩き進める。決意だった。しかし怒った顔もどこか愛嬌のある顔なので、誰も悪い気はしないという幸運な体質なのだった。
口をへの字にしながら進軍していたミキだがふと喫茶店の前で立ち止まった。
「のど乾いたなぁ……」
ミキの決意はもろくも崩れた。
扉を開けると冷気とかすかなコーヒーの匂いが押し寄せる。ミキはこの匂いが好きだった。
「あれ? ミキチャン」
マスターは中年の男性で、数年前脱サラしてこの喫茶店を始めた。ミキや商店街の人たちとは対照的に物静かな物腰だがどことなく存在感のある男だった。
「やっ、店長!」
「いらっしゃい。お姉さん来てるよ。奥のテーブル席」
「お姉ちゃん?」
奥をのぞくと確かに姉のカオリがいた。文学少女らしく小説を読んでいる。
「マスター……いつもの」
「はいよ」
牛乳が差し出された。コップを握り席まで歩く。カオリが顔を上げるのと同時にミキは席に着いた。
「お姉ちゃん、ちょっと聞いてよ」
いきなり話を切り出す。カオリは少し間をおいて
「もう……なんなのよ。そのこれ見よがしのトランクケースのことかしら」
「えっ。……ああ、違うよ!」
少しあせったのは今、少しトランクケースのことを忘れていたからだった。
「コレは落し物で、今、交番に届けに行く途中なの! 話はそっちじゃなくてね……」
「またメンドクサイことに巻き込まれてるのね……で何?」
「それが……わからないの」
頭をはたかれる。厚めの文庫本だったので割りと、痛い。
「いたぁい! 何するのよ!」
「余計な時間を取らせるんじゃないの。それで何なのよ」
「だから何をやろうとしてたのか思い出せないの!」
一瞬、沈黙。本気の目である。
「……何をやろうとしてたかって……。そんなの私が知るわけないじゃん」
「何かあるでしょう。助言とか」
「あ~、もう知らないし、興味もない。早くトランクケース交番に届けてきなよ」
「まったくなんて冷たい姉だろうね。この牛乳より冷たいよ」
冷えた牛乳を一口。
「……そもそもそのトランクケースを見つける前はどこに向かってたのよ」
「えーと……帰る途中」
「じゃあ家で何かするつもりだったんじゃないの?」
「う~ん……。家で何かするっていうのとも違うような気がするんだよなぁ……。でも家に帰る途中何かに気がついて戻ろうとしたような気がする」
「へぇ、じゃあ何か忘れものでもしたんじゃない」
「う~ん……」
何か思い出せそうな気がする。少なくとも今までよりは忘れ物に近づいたような気がした。
「なにかに近づいたような気がするよ……、でもこの届きそうで届かないこの思い……、まるで『ザンキンセン』だね……」
「(ザンキンセン?)……ああ漸近線ね」
「えっ? 何か言った?」
「なんでもない。とにかく私にできることはもうないわ。さっさとトランクケース届けに行きなさい」
「まったく薄情な姉だね。一緒についてきてくれても――」
「これ以上私の時間を奪うつもりなのかしら?」
「いいえ! 失礼しました」
怒ったカオリは、怖い。触らぬ神にたたりなしと残った牛乳を飲み干し、ミキは足早に去っていった。
「まったく……あっ」
カオリは気づいてしまった。そして絶望した。
「どこまで読んだのか忘れちゃったじゃない……」
「あっ」
それは突然訪れた。思い出したのだ。
(帰る途中、宇宙人みたいな変なおじさん見つけてそれから『宇宙探偵ホームズ』の最新刊が出てること思い出したんだ。それで買いに戻ろうと思ってたところでコレ見つけたんだ!)
思い出せばなんともくだらない。ただ胸の使えが取れた爽快感は味わえたので良しとした。そして何故突然思い出せたのかというと、交番からその宇宙おじさんが出てくるところを目撃したからだった。おじさんがこちらを向く。その視線はトランクケースを貫いていた。
「いやぁ本当にありがとうございます」
サラリーマン風で、どこにでもいそうな中年男性だ。しかし笑顔だが不思議と全く感情を感じない。まるで仮面をつけているような違和感。ミキが宇宙人のように感じた原因だった。
「いえいえどういたしまして」
「これを無くすと上司にこっぴどく怒られるところでした……本当にありがとうございます」
「もう無くさないようにね! ちなみに興味本位なんですけど、中のボールって何に使うんですか?」
「おや? 中身をごらんになられたのですか?」
「あっ……まずかったですか?」
「いえいえ! では実際に使って見せましょう! コレはですね、まず使う相手の目線の高さに掲げます」
「ふむふむ」
「そして裏にありますこのスイッチを押すと……」
「ふむふむ」
「相手の記憶を消せる装置でございます」
「あれ? ミキちゃんどうしたの? ぼけッと突っ立って」
巡査が交番から出てきた。怪訝そうな顔をしている。ミキは半分ほうけたように突っ立っていたからだ
「……えーと、今から帰る途中なんだけど、その前に何かやろうと思っていたような? そうでもよかったような? 何かやろうとしてたんだけど……。なんだったけ?」
怪訝な顔が二つに増えた。ミキの苦悩は未だ続く。
了