'四日目の新世界'
鳥のさえずりが聞こえ、僕は瞼を開いた。
静かに、敷き布団から身を起こす。隣には、僕の大切な人が、スヤスヤと寝息を立てて眠っていた。
僕は彼女の美しい顔に見惚れて、しばし時間が経つのを忘れた。
いつもは豪快で姐御肌な彼女も、寝顔だけは天使の様に愛くるしい様子だった。
彼女の寝顔に満足し、洗面所に向かおうと立ち上がると、足首に何かが絡まる。
予想はつくが念のため、目視した。
彼女の指が、僕の足首を掴でいる。
やはり予想通りだ。
布団を見下ろすと、彼女のガラスの様な美しい瞳が、僕を見つめていた。
『おはよう』
彼女が、ムスッとしなが呟く。少し怒りの篭った口調だ。
『おはよう』
満面の笑みで返した。
彼女の寝起きはいつも不機嫌な事が多いので、対応には慣れている。
そして彼女は、また口を開く。
『私と一緒にいて』
彼女からこんな言葉が聞けるとは思えず動揺し、聞き返した。
『だ…だから…その…あの…えと…』
彼女が口籠る。
どうやらあの可愛らしい台詞は、僕の聞き間違えではなかった様子だ。
耳まで真っ赤に染めると、彼女は掛け布団に顔を埋めてしまった。
その姿は、普段の彼女からは決して想像も出来ない光景だった。
少し意地悪をしてみようぜ、と心の中の悪魔が囁く。
僕は悪魔に賛同すると
『それは無理だよ』
と、言い捨てた。
布団がモゾモゾと動いたと思うと、中から上擦った声で『なんで?』と問われた。
彼女を泣かせてしまったらしい。
僕は小悪魔に罵声を浴びせ彼女に伝えた。
『嘘さ。君を一人になんかさせない』
小っ恥ずかしい、キザな台詞を吐く。
今なら顔の上で、目玉焼きを焼ける気がした。
彼女も真っ赤な顔を、掛け布団から覗かせた。
布団に潜る前よりも、一層真っ赤に染まった顔の彼女が、『良かった』と安堵の息を漏らす。
愛されているという充実感が、とても心地良かった。
しかし、愛で空腹は満たされない…
ぐ~~。
僕のお腹がエネルギーを要求する。
『さて、まずは顔を洗いに行きますか』
僕は彼女を抱え、車椅子に乗せた。
彼女は、運動している最中に脛骨を骨折し、現在歩く事が困難な状況にある。
おそらく、先程の彼女らしからぬ行動は、怪我による精神的負担から来るモノなのかもしれない。
青年は女性を乗せた車椅子を押し、洗面所に向かう。
寝室から数秒で到着するその場所には、二本の歯ブラシを立てかけたプラスチック製のコップが置かれていた。
つい先月買い換えたそれらは、まるで未使用の如く綺麗な状態でそこにあった。
僕たちは口をゆすぎ、リビングへと場所を移した。
彼女をリビングに置き、キッチンへと進もうとすると、彼女が僕に呼びかける。
『私もキッチンに行くわ、見ている事しか出来ないけど』
『分かったよ』
僕は、彼女の望み通りにキッチンへと連れて行く。
コンロに火を灯し、フライパンを温める。熱の通ったフライパンに、油を垂らし、卵を割り入れる。卵に熱を加えている間に、食パンをトースターにセットする。芳ばしい、食欲を掻き立てる香りが漂う。
一連の動作を、青年は華麗にこなした。
見よ!とばかりに派手ながら、無駄の無い動きをする。
パチパチパチ
僕の背後からは拍手が聞こえてくる。
彼女も、僕の手際の良さに感動をおぼえたようだった。
完成した朝食は食器に乗せられ、彼女と共にリビングへと運んだ。
彼女を車椅子から降ろし、僕も席に着く。
『いただきます』
お互いが手を合わせ、食事を取り始める。
『目玉焼きにはやっぱり、塩コショウだね!』
彼女が言った。
『だよね!』
その意見には、大いに賛同だ。
塩胡椒以外は邪道に他ならない。
その後も、他愛ない会話を続けながら僕は洗い物まで終えた。
『今日さ、どっか行かない?』
彼女が尋ねる。
その言葉の裏には「楽しい場所に連れていけ」との要求が隠れていそうな口調であった。
昼間出歩くのは、暑過ぎなので遠慮したいな…
夜に行ける場所だけを考慮する。星見、散歩以外には何も思い浮かばなかった。こんな田舎には、夜遊べる場所など存在しない。
『星見なんかどう?今日は天気もいいしさ。ここいらは、沢山見れるじゃんね』
彼女が眉をひそめる。
駄目だったのだろうか…
軽い不安がよぎる。
『オッケー。星を見よう。』
彼女の顔がパッと晴れ、僕は安堵した。
『で、昼間は何する?』
駄目だ。このままでは昼間出掛けたく無い事や、それを理由に星見を提案した事が露呈してしまう。
『ひ、昼間は寝ておこう!星見の時に、眠くなツてしまったら元も子もないヨ』
少々棒読みになってしまった…
『それもそうね』
彼女は納得したようだ。このやり取りだけで、僕の寿命が十年縮んだ気がした。
普段の彼女はこれでは納得しなかっただろう。
会話を一段落終え、時間が既に昼で有る事に気づく。
僕は朝と同じ様に彼女を、調理風景の見える位置に移動し、食事の支度をした。
「やっぱり暑い日は、素麺を食いたくなるよね」
僕は既に麺を茹でている。
「そうね、さっぱりした物が食べたくなるのよね〜」
「夜も素麺にしちゃおうか!」
流れでる汗を、Tシャツの袖で拭う。白いシャツには汗を吸い込んだシミが沢山出来て、マダラに模様が出来ていた。
「いやよ!」
漸く彼女が、平常運転に戻れた様で安堵した。
素麺が茹で上がり、湯切りして、盛り付ける。
したり顔で、一連の動作を又も手際良く行った。
しかし、拍手は無かった。素麺を茹でるだけという簡単な調理をしたり顔でする僕は、もしかすると彼女の瞳に滑稽に映っていたのかもしれない。
僕らは、会話をしながら食事を終えた。
満腹になりやる事も特に無かったので、ラジオを少し聞いた後予定通り寝る事にした。
ラジオの電源を、彼女が着ける。
ザーザーザーザーよザーまえザーザーゆくザーザー
調子が悪いようだが、四日前と女性という単語だけは辛うじて聞き取る事が出来た。
四日前に何かが起きたのだろうか。急に頭痛がした。
彼女は具合の悪いラジオを切った。
僕は具合の悪い頭を抱え横になった。
『どうしたの?』
彼女が心配そうにこちらを見ながら、問いかけた。
「食後は少しお腹を休めて、それから寝よう」
そう提案したのは僕だったからだ。
『頭が少し痛むんだ』
有りのままを伝える。
『大丈夫?』
『うん、少し横になってれば治ると思う』
根拠など無かった。彼女の不安そうな声を聞いて、自然と口にしてしまっていただけだ。
彼女を見つめると、その大きな瞳を少し潤ませていた。
『死ぬ訳じゃ無いんだ。泣かなくても』
『でも…もし…死んじゃったら…』
鼻声になりながら話す彼女。
そして、堰を切ったように泣き出してしまった。
何が彼女をここまでも、不安にさせるのだろうか。その何かを恨みながら、体を起こし彼女を抱き締めた。その体は朝抱き締めた時よりも、軽く感じた。
彼女の体から、腕をほどく。
彼女の汗が涙が僕のTシャツを、少し湿らした。
彼女はもう泣いてなどいなかった。
しかし僕の頭痛まで治まるとはいかず、再び横になり目を閉じた。
『私も少し寝たい気分だわ』
鼻声の彼女が僕に、車椅子から降ろして欲しいと要望を出した。
僕は彼女を横に寝せ瞼を閉ざして、少し会話をする事にした。
彼女がそれ程眠そうには見えなかったのだ。
『今夜楽しみだね』
『夏の星座と言えばやっぱり、ベガ、デネブ、アルタイル、の夏の大三角形かな』
『そうね、一番有名どころよね』
『ベガが彦星で、アルタイルが織り姫なんだっけ?』
『違うわよ。逆よ逆!』
『あ~、そうだったそうだったー』
じょじょに瞼が重くなる。
『僕達が織り姫と彦星だったら、耐えられないな。神様…を殺しに…いっ…しま…よ…』
『殺しなんて良くないわ…そ…まるで…あ……』
意識は遠のいていった。
……青年は、気づくと暗闇の真ん中にいた。荒涼した闇の中だ。
何者かの声は聞こえるが、視覚から得られる情報は皆無であり、不安感を煽る。
暗闇の中の声、それは女性の喜ぶ声や悲鳴などの様々な感情を内包していた。
しかし、声の主自身は同一人物であると直感が囁く。
『そう…ぼくは…この声を知っているはず…』
『よく知っているはずなんだ…』
女性の声を背景にして僕とそっくりな声が、今にも消え入りそうに呟いた。
その小さな声は暗闇の中を反響し、闇の先までも響いて行く。終わりが有るのかも分からない、闇の先まで…
『きみはぼくだ』
その言葉は、僕に向けられたものだと、理屈抜きで理解できる。
『君は誰だい?』
僕は問う。
しかし、僕の声は闇には響かず、この空間に淘汰されてしまった。
『きみは、いやぼくらは消えなくてはならない』
『この世界から』
暗闇が何を言いたいのか、さっぱり分からず当惑した。
『ぼくたちは罪人さ』
その言葉を待っていたかの様に、闇は僕に絡みつき、ぼくの身体は溶解しはじめた。動悸が起こる。
闇はとても暖かかった。僕という人間を完全に理解している。身体の奥へ奥へと入り込んでくる闇は、ただひたすらに心地良い。僕は闇と同化し、その一部となり、全てを理解した。
罪は顕在化し、僕の体は断裂する。
それが延々と続き、永遠へと変わる…
『生きてるうちに、星を見たかったな』
『ごめんな』
それが、僕が、個として、発しタ、さイごの、こトバ、ダツタ…
僕は、大粒の涙をこれでもかと流し続けていく。
痛みが身体を襲うが、そんな事は些細な事だった。
先程の女性の声は、意思を保たず虚しく闇の中に響き続けている。




