'いつか見た笑顔をもう一度'
『ふぁ~』
目が覚めて、最初に行ったのは欠伸だった。
昨晩も熱帯夜であり、ここ何日か寝苦しい夜が続いている。
それに何だか、嫌な夢を見ていた気がする。
俺は寝ぼけ眼をこすりながら、隣に寝ている女性に声をかけた。
『朝だぞ~、起きろ~』
『・・・』
寝息をすやすやたてている彼女には、全く聞こえていないようだった。
『このまま、もう少し寝せといてやるか。寝顔もこんなに可愛い事だしな。』
その寝顔を見ていると時間が経つのをつい忘れてしまった。
それから何分経ったのだろう、彼女はようやく目を覚ました。
ぱちぱちと瞬きを繰り返し、俺の方を向くと、『おはよう』と微笑んだ。
余りの可愛さに、抱きつき俺も朝の挨拶をした。
彼女は少し驚きつつ、直ぐに俺の背に腕を回してくれる。
彼女にとっても、やはり昨晩は暑かったようで、汗の香りが俺の鼻腔を満たした。
その香りすらも、とても愛おしく感じる。
抱き合っている時間、それはとても幸せな時間であった。
その状態でまた数分が経ち、彼女のお腹が、ぐるるる、と鳴いた。
このまま永遠に抱きしめ合っていたかったが、彼女のお腹はそれを拒んでいた。
『顔、洗いに行こうか?』
『うん、そうだね』
抱きしめる時とは打って変わり、未練がましくのろのろと、彼女を解放して、俺は立ち上がった。
そして、彼女を抱きかかえ、車椅子に乗せた。
彼女は最近事故に会い、足に傷を負ったのだ。
車との衝突事故だったが、幸い軽い骨折で済み、今ではもう月に数回通院するだけになっている。
俺は車椅子を押しながら、洗面所へ向う。
『この家はバリアフリーじゃないけど、段差が少ないから、あまり不便は無いよ』と彼女が言っていたのを思い出した。
こうして車椅子を押していると、確かにそれを実感する。
そして洗面所で用を済ませ、茶の間に向かった。
『朝は、パンかご飯どちらをご所望ですかな?』
少し気取って聞いてみる。
『今日はパンを頂きましょう』
彼女も合わせてくれた。
『フ…アハハハハ』
どちらから共なく、笑いが起こる。彼女の笑い声は、心地良く鼓膜に響いた。
茶の間に着き、彼女を車椅子から降ろす。
俺はそのまま台所へ行き、調理を開始した。フライパンに油を落とし、熱を加え、卵を割り入れると、とてもいい香りが台所中に広がった。
卵に熱を通している間に、パンを二枚、トースターに放り込み、食器棚から皿を出した。慣れたもので、料理を始めた最初の内は、卵から目を離して他ごとをすると、焦がしてしまっていたのだが、今では手際良くこなせてしまう。
俺は鼻を高くしながらも油断せず、卵とパンをこんがりと美味しそうに焼きあげた。
また、鼻が高くなった。
それを皿に盛り付け、彼女の待つ茶の間に向かった。
『できたぞー』
『待ってました~』
彼女は目を輝かせて歓喜した。
『いただきます!』
二人共が子供のように、手をあわせた。
郷愁を感じる光景だ。
『やっぱり、あなたの作る食事は美味しいわね~』
彼女はにやけながら、俺を褒める。
『褒めたって何も出ませんよ~』
とても嬉しかったが、素直に嬉しいとは恥ずかしくて口に出来なかった。
他愛ない会話を挟みながらも、食事は徐々に減っていく。
『お粗末さまでした』
朝食の時間は、幸せな朝は終わり幸せな一日が始まる。
『私の足が治ったら、一緒に山に登ろう!』
彼女は突拍子もなく、口にした。
彼女の突拍子の無い台詞には、
慣れているので『なんでイキナリ⁉』などと驚いたりはしない。
『いいね、それ』
俺は平然と返した。
それは想像するだけでも、心躍るような魅力的な提案だった。彼女と共に汗をかき、彼女と共に美しい景色を見るのだ。
楽しみな事が一つ増えた。
それから様々な話題でひとしきり話し、俺は洗い物を始める。
水道から流れる冷たい水が、とても心地良かった。
食器は二枚しか無かった為、すぐに洗い終わった。
茶の間に戻り、ラジオのニュースに耳を傾けている彼女に話かける。
『すごいニュースでもあったかい?』
『ええ、女性が四日前から行方不明だそうよ。物騒な話よね』
『怖いな~、その女の人にも、家族や恋人が居たんだよね、きっと。なんかなぁ…』
『えぇ…やるせないわね…』
重苦しい空気になってしまった。
『そ、そういえば私達が初めて会ったのも、今日みたいな暑い日だったわね』
彼女はラジオの電源を落とし、
引きつった笑顔で話題を変えた。
『あぁ、懐かしいな。確かにあの日も暑かったね。俺はあの時君に一目惚れしたんだ』
俺も同様に笑顔を作り、その話題に答えた。
『あの時は、貴方の事なんて、ただの子供だと思っていたわ。まさか、こんないい男に成長するなんてね』
照れ臭そうに微笑しながら、視線が交差する。
そして、お互いが顔を寄せ合い、唇を重ねる。
彼女の頬は紅潮している。
俺の顔にも、血が昇るのを感じた。
その状態で数分が経ち、触れ合った唇を名残惜しく離す。
『そういえば、あの日蝉取り合戦したけど、どっちが勝ったっんだっけ?』
『どっちだったっけね?』
直ぐには思い出せなかった。
あの日を、朝から順に思い出そうとしてみる。
あの日は確か、夏休みも後半に差し掛かった八月の猛暑日だった。
山間部にある俺の住む村に、彼女が遊びに来ていた。
俺の従姉だと聞かされた。彼女は健康的な日焼け肌の、可愛らしい少女だった。一目見て、心が鷲掴みにされ、しばらく呆然と立ち尽くしていたことを覚えている。彼女の容姿、纏う雰囲気、その全てが新鮮で神秘的だった。
俺よりも少し背の高かった彼女は、初対面の俺の頭を撫でながら『虫取りしようよ!』と提案したのだ。確かに、彼女は虫を捕る気満々といった格好であった。
思えば、彼女はこの頃から既に、突拍子も無い事を言う女性であった。この頃の、無垢な俺は『挨拶も無しに、随分とイキナリですね』なんて事は微塵も思わず、可愛いお姉さんに遊ぼうと誘われた事を唯々嬉しく感じていた。
お姉さんに話し掛けられた事で緊張がほぐれ『はい!』と張り切って頷いた俺は、虫取り網と虫カゴを装備すると、お姉さんを近くの小山にある神社に案内した。その神社には長い石段があり、そこを競う様に駆け上った。
最上段をやっとの事昇り終え
鳥居を潜ると、木陰で休憩している少年ふたりの姿を見つけた。彼らは友人だった。
地べたには、虫カゴと虫網が置いてあり、カゴの中には数匹の虫がいる様だ。
奴らはぼくに気づくと近寄って来た。
『その姉ちゃん誰?』
初めて見る綺麗なお姉さんに、興味津々のご様子だ。
『蝉取り合戦をしよう!』
お姉さんは、自己紹介もせず唐突に宣戦布告した。
勝負事が大好きだったぼくは、当然了承した。奴らも名前なんて後で聞けばいいと思ったのか、あっさりと参戦してきた。
『時間制限は夕陽まで、一位が王様!』
いきなりのルール発表をしたかと思うと、お姉さんは風の様にその場から去っていった。
王様とは何なのか、分からなかったぼくらだったが、勝負には負けたくないと各々別れ林に入っていく。
楽しい時間とは、あっという間に過ぎる物だ。夕暮れ時になり、境内に再集合する。結果はお姉さんの断トツ勝利だった。
虫カゴに溢れんばかりの、蝉。『皆で蝉を逃がそう!』
王様は蝉解放宣言を行った。『なんで~?折角捕まえたのに〜』などとヤジが飛び交う。
『王様の命令は絶対』
王様は言い放ち、囚われた彼らを開放した。
蝉達は我先にと飛んで行き、瞬く間に虫カゴは空室状態になる。ぼくはお姉さんの言う事を、素直に聞き入れ開放し、次いで渋々虫を解放する友人達であった。
……『そうだ!思いだした!』
俺は立ち上がる。時計を見ると既に午後四時を回っていた。
再度時計を見直す。やはり四時だった。五時間近くも眠ってしまうとは…
眠り過ぎである。
俺は、思い出した事を語ろうと、彼女の方を振り向いた。
彼女も眠りに落ちた様子だった。
そっと、しゃがみ込んで彼女の顔を覗く。彼女の美しい寝顔からは、寝息が聞こえてこなかった。不審に思い、彼女を起こそうと呼びかける。
しかし、反応は無かった。それは何時もの事なので、少し安堵しながら彼女の身体に触れた。彼女には生きている者の温もりが、無かった。彼女をジロリと見回す。透き通る様な肌も、唇の艶も、彼女と生者との共通点。そんな物は皆無だった。
『今日はとても暑い日だった。今日もとても暑い日だった。』俺は彼女から手を離さず呟いた。
『俺の…本当の記憶…』
俺は思い出した。
全てが海馬に染み込んでくる。
両親の、笑顔が…
近所に住んでいた優しい叔父さんや、おっかないお婆さん、優しいお兄さん、色んな顔が…
底から浮かび上がってくる。
彼女の、悲しい、表情が…
言い知れぬ哀しみが、心の底から這い上がってくる。
言い知れぬ憎しみが、心臓の内側で、針を纏い膨れ上がる。
痛い痛い痛い痛い痛い。
『ぎゃぁぁぁぁ』
喉元を震わせながら叫ぶ。自分の意思とは無関係に。
骨の髄から狂気が滲みだす。それは同時に正義でもあった。
僕の身体を、台所へと向かわせる。自分の意思で。
そこで全てを終わらせる。
『嫌だ!嫌だ!』悪魔は往生際悪く、拒んだ。
しかし、次第に狂気に、正義に飲み込まれ、僕は包丁を手に掴むと、それを、胸に、突き立てた。
『ぐばぉぁ』
血液が口腔を満たし、声に成らない断末魔をあげる。
肺に、血が流入する。
辺りには血飛沫が、付着した。
胸が、内側から爛れていく。
薄れゆく意識の中で、俺は彼女の元に向かった。
這いつくばりながら、重い身体を引き摺りながら、ゆっくり、ゆっくりと。
彼女が見えた。重たい瞼を、力尽くでこじ開けながら、彼女を見据える。
涙が滲んだ。
段々と、彼女が見えなくなっていく。
目と鼻の先に彼女が入るのに、見えなくなって…
俺は真っ暗闇の中で、彼女に手を延ばした。
しかし、延ばした指は何も掴む事が無く、心臓は小さな鼓動すら止めた。
闇の中で僕は一つになった。




