'俯瞰 -分岐点-'
とてもあたたかい光が、ぼくをつつんだ。冷たさなどは微塵も感じさせない程に、優しい光。この世のものとは思えない程に、温柔な光。
ぼくは、その光に身を任せる。
まぶたを閉じ、意識を閉じ、光の中に溶けていく…
『朝よ!早く起きなさい!!』
あまり若くはなさそうな、女性の声がした。その声の主が、少年をゆする。真っ暗だった世界は、徐々に光を帯びていき、明るい世界へと変貌した。
顔を横に傾けると、壮年と思しき穏和そうな女性が立っていた。
そうだった、ぼくは寝ていたんじゃないか。
この女の人は、ぼくのお母さんでぼくを起こしにきたんだ。
少年は、なぜ忘れていたのかと、とても不思議な気持ちになった。
『まあいいや。』
不思議な気持ちは、そのたった一言で霧散し、まるで最初から無かったかの様に、晴れやかな気分になった。
ぼくはお母さんに向かって、いつもの様に、『おはよー』と挨拶をする。
なぜかとても新鮮な気分だった。
お母さんも、"いつも通り"に挨拶を返した。
少年は立ち上がり、洗面所へと歩みを進め、彼の母は朝食の準備に戻った。
その日は夏休み開始から三日が経過した朝だった。
『はぁ、宿題がまだ沢山あるな』
一日の始まりから早くも絶望を抱き顔を洗うのは、既に少年の日課になっていた。
彼は用を済ますと洗面所を出て、味噌汁のいい香りを辿り、茶の間に向かった。
十歩も歩かずして到着する茶の間。
その場所のちゃぶ台には、一人分の朝食だけ置かれている。少年は、朝食の置いてある席に、カラーテレビの電源を回した後腰を降ろした。
箸を進めていると、カラーテレビには兄弟だという子供2人組が、お決まりの爆笑の中で漫才を披露している姿が映った。いかにも漫才師と言った出で立ちで意気揚々と漫才を披露している彼等を、少年が面白いと思う事は無かった。けれど同時に、兄弟がいる事を羨ましく感じた。
『ぼくにも兄弟がいたらなあ~。
でももし兄弟がいたら、このテレビは何を見るかで喧嘩してたかもしれないな。』
『うん、やっぱ一人っ子でいいや』
少年は無理やり自分を納得させ、味噌汁を飲み干した。
食後、彼がだらだら寝転がりテレビを見ていると、電話がジリジリジリと鳴った。母親の足音が聞こえたかと思うと、電話の着信を伝える音が鳴り止んだ。
今度は話し声が茶の間まで響く。
『颯太、あなたに電話よ』
『は~い』
少年はため息をつきながら立ち上がり、渋々廊下へと向かう。
受話器からは懐かしい声が聞き、気分が上がった。
『今日遊べる?』
声の主が大きな声で問いかけた。それは友人であった。
『おう、遊べるぜ!』
少年は嬉々として返す。相手はより一層大きな声になる。
『じゃあ、一時にいつもの場所に集合な!』
『分かった!』
少年は別れをつげ、受話器を置いた。
そして、自分の部屋へ向かい昼食まで宿題をしようと決めた。
早く遊びに行きたかった彼にとって、宿題は僅かな時間を延々に引き延ばす悪魔であった。
それでも、なんとか悪魔を退治すると、母親が少年を呼んだ。
『颯太、ご飯できたよ。』
『は~い。』
首輪を外された犬のように軽い足取りで茶の間に向かい、二食分並べられたちゃぶ台の席に座った。
母は彼が席に着くと、『いただきます』と言った。
少年も同じ言葉を返し、続け様に
『今日一時から遊びに行く』
と友人と遊ぶ約束がある事を伝えた。
『分かったわ、夕飯前には帰るのよ』
『は~い』
そこで会話は途切れた。
少年は昼食をささっと食べ終えたかと思うと、即座に玄関で靴を履き、家を出た。
『さてさて、あそこに向かいますかね。』
一人呟きながら、目的地に向かって歩いていた。
近道だからと、いつもの様に、家の前にある田んぼのあぜ道を通る。草を踏む度にイナゴが少年から逃げようと跳ねた。
『捕まえたいけど、虫かごは秘密基地だよー』
(秘密基地とは、少年達が"いつもの場所"と呼び、今日の集合場所でもある場所であった。
以前テレビで放送していた外国のスパイ映画に影響されて、友人がそう呼び出したのが、始まりだった。)
あぜ道を抜けると、小山にある神社の石段を登った。
より一層うるさくなった蝉の鳴き声と、午後のうだる様な暑さが小さな体の少年を苛んだ。
苛立ちを覚えながらも、昇り続ける。遥か彼方まで続くのではないかとも思われた石段も、残すところ後一段である。
最上段に来ると、彼は目の前に丸っこい小石が落ちているのを見つけた。
苛立ちをぶつけるには、ちょうど良い物であった。
少年は即座にそれを、石段の階下に向けて蹴り落とした。
蹴り落とそうとした。
しかし、その石は蹴り出した右足の靴裏へと滑り込み、背部に転倒しそうになってしまった。転倒しまいと宙に浮いた右足を力強く振り下ろすと、力があまり今度は前方へと体勢を崩してしまう。
どすどすどす
鈍い音が響き渡る。
石段の昇り口には、哀れな状態の男の子が一人転がっていた。
指の一、二本が他の指とは逆の曲線を描いている。
少年は、一段転げるたびに暗くなる世界を、自ら閉ざした。
『僕は…君を…ただ愛したかった…』
意識の扉は完全に閉ざされた。
光の中に飽和した存在は、苦痛以外を感じない。
ぼくはひかりになった。
光の外側で、歯車は逆回転を始める。永遠に回り続ける死の歯車。光は歯車に巻き込まれ、絶対零度の如く、凍てつくような冷たさに変わった。




