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涙と君と太陽と

 今日も今日とて、満員電車。

 俺の右脇下、左腰の横からはスマートフォンが顔を出し、一定のリズムで身体にぶつかってくる。

 右肩には文庫本、左耳の下からは爆音のウォークマン。


 …なんか俺、人だと認識されてないのかな。


 自分のことに夢中な人々を、窓越しに眺めた。今日はツイてないな、と溜め息を漏らし目をつぶる。

 今日行わなくてはならないことを思い出しつつ、今日も電車に揺られる。



 理事会も無事終わり、穏やかな日が続いていた。

 …そう思っていたのは、俺だけではなかったはずだ。だが、嵐はすぐ側までやって来ていたのだった。



 天気だけは穏やかだったある日。それは事務室の入り口で、雷鳴とどろく嵐を巻き起こしていた。

「あなたねぇ!!」

 響き渡る葛西理事長の怒号。怒りMAXなのが、一目瞭然だった。驚いてパソコンから顔をあげると、葛西理事長が篠原に当たり散らしていた。

「なんなの、さっきの初回相談は!!私が何度通りかかっても声をかけてこないし、無視したでしょ!」

「無視なんてしてません…」

 小さな、泣きそうな声が俺の耳に届く。

「じゃあ、何で私に声をかけなかったの!一時間半もぐだぐだ話なんかして、あなた自分が分給(ふんきゅう)いくらだと思ってるの?」

 出た!イライラしたときに葛西理事長が必ず発する一言。この後、決まってこう言うんだ…『誰が給料出してると思ってるの!!』って。

「誰が給料出してると思ってるの!!だいたいね、あなたの面談は事務的に介護保険の説明をダラダラとするだけ。面接は、あなたの講釈を聞く場じゃないの!あなたの独壇場じゃないのよ!!時間の無駄!!」

 どんどん大きくなる葛西理事長の声に、事務室内で電話をかけていた職員はそっと受話器を置いた。

 当の篠原は、ジッとうつ向いたまま動かない。

 何も返せないのではない、あえて何も返さないのだろう。葛西理事長には逆らわない…どんなに理不尽な事を言われても、どんなに罪を擦り付けられても。

 それが…この場所で上手くやっていく秘訣。

「それで、あなたはちゃんと情報収集出来たんでしょうね?さっきの来ていた人は家族?本人の収入は?預貯金は?持ち家?家族の年齢は?職業は?」

 出た、出た!お得意の相談しに来た人の金持ち調査。いくら介護に金がかかるからって、相談しに来たその時に金の話をされたら不信すぎるだろうに…。

「…分かりません」

「分からないじゃないでしょ!!聞いていないだけでしょ!一体何をやってるの!!」

 久しぶりに白熱する葛西理事長の怒りに、聞いていた職員もうつ向いてしまった。とばっちりを受けたくなくて…。あまりに責められていて、可哀想すぎて、聞くに耐えられなくて。


 俺はつい、とある電話番号を押した。

 電話の主は、機嫌良く話しをする。保留を押すと、そ知らぬ顔で葛西理事長に声をかけた。

「葛西理事長!田中様がどうしても葛西理事長とお話がしたいようでして、電話に出ていただいても宜しいですか?」

 他の職員の唖然とした顔が見えるが、気にせず話し掛けた。一瞬、怪訝な顔をした葛西理事長だったが、葛西理事長信者である田中様を無視することはできず、いそいそと自分の席に戻っていった。


「まぁ、田中様!どうされました…」

 さっきの怒鳴り声とは真逆の、猫なで声。

 事務室の緊迫した空気は一気に弛んだ。


「ナイス、樋山」

 書類を差し出しながら、間宮が小さな声で話しかけてきた。

「ブレイクタイムがないと、倒れちゃいそうだろ。…なんせ、おばあちゃまだからな」

 暗に葛西理事長の血管が切れそうな位お怒りだったことを伝えると、間宮は苦笑いをして見せた。

「そっち…。なんにせよ、ブレイクさせたことは間違いないわね。一時的な緊急避難でしかないけど」

「まぁな。しばらくは…大人しくしてないとな」

 先程とはうってかわって、にこにこ顔の葛西理事長を盗み見て、溜め息を漏らした。

 チラリと篠原に視線を向けると、上司である地域包括支援センターのセンター長に声を掛けられ、自席に戻っていった。

 俯いていたから、顔は良く見えなかったが…あの愉しそうな顔が陰ってしまわないか、心配しつつパソコン画面に視線を戻した。



 つい一年前まで、俺と篠原は同じ訪問介護部門で働いていた。だが、急に俺は居宅介護支援事業所に、篠原は『いきいき安心センター』と言う名の地域包括支援センターへ異動になった。

 絶対に嫌!!と拒否していたが、拒否権が俺たちにある訳はなく。

「あなた達がこれ以上訪問介護で学ぶことなんて、一つもないですよ」と施設長に一括され、異動は言い渡された。


 引き継ぎの時間として与えられた1ヶ月。常に人手不足の訪問介護としては、1ヶ月丸々引き継ぎには使えなかった。ケア(利用者のお宅に訪問し、介護をすること)とケアの間に引き継ぐ利用者に挨拶に行き、あらゆる情報を頭に叩き込んでいった。

 訪問介護の上司からは、最後だからと行きたいケア先に行かせてもらい、利用者に異動の挨拶をさせてもらえた。

「急な異動なんだろ?やんなっちまうねぇ、家族は大丈夫かい?」

「勤務先は変わらないから、大丈夫ですよ。ありがとうございます」

 真剣な顔で、言われた一言に涙が溢れそうになったのは内緒だ。…認知症ゆえに一言一句間違わず、何度も同じことを言われたが。言われる度に、少しずつ違う返事を返していたが、かけられる言葉にやるせなさが募った。

 利用者の家族やその孫からも「大丈夫なの?何しでかしちゃったのよ、あんた」と心配されたり、笑われたり。最後にはみんな、「寂しくなるわね」と半泣きになりながら、見送ってくれた。

 …ケアマネとして担当した利用者の中には、ヘルパーとして関わったこともある人もいて、後日ものすご〜く驚かれた。

「あんた…紛らわしいことするんじゃないよ。私の涙をお返し!」

 笑いながら、利用者に背中を叩かれた時は、一緒に笑ってしまった。


 同じようなことを篠原も体験したようだった。寂しそうにしながらも、やっぱり愉しそうな顔をしていた。


 二度と戻らない日々を、どうしても思い返してしまう。現状に満足していないからなのか、繰り返される日々に嫌気がさしたからなのか…。



 ふと、ロビーから賑やかな声がして顔を向けた。

 もうすぐ夕方か。

 同じ建物内にデイサービス(日帰りで、介護を必要としている人が食事や入浴、レクリエーションをして過ごすサービス)の場所を設けており、ちょうど帰りのバスをエントランスで待っているところだった。

 知った顔がチラホラ見え、無意識に席を立っていた。

「こんにちは〜」

 利用者と利用者の間の空いている椅子に腰を下ろすと、すぐに隣の利用者から声を掛けられた。

「あら、樋山さん。今日はお外に行かなくても良いの?」

「はい。今日は、事務所の日なんです。たまには大人しくしていませんとね」

 ニヤッとして見せると、若い声が返事をした。

「樋山が大人しい時は、ロクなことがないからなぁ。早めに謝っとけよ」

「宮坂…何もしてませんよー!」

「どうだか。さぁ、みなさん。バスの準備が整いましたから、参りますよ」

 同期でデイサービス職員の宮坂建吾が、にやけた顔をしながらエントランスで待つ利用者に声をかけた。

 クスクスと笑う利用者達に声をかけ、見送った。するとまた、新たな集団がエレベーターから降りてきた。

「樋山さん、久しぶりだね。どこほっつき歩いてたんだい?」

 笑顔で話しかけて来たのは、ヘルパーの新人の時からケアに行かせていただいていた、利用者の葉山さんだ。

「いや〜、素敵なお姉さんがいたんでちょっと…って、違いますよ。事務所で大人しくしていたんです」

 軽いノリ突っ込みで返すと、立ち上がり葉山さんを椅子へと誘導する。

「ちょっと間違えちゃった!って言って、遊びに来ないと。私はずっと待ってるんだから」

 葉山さんの言葉に、頬が緩む。いつもいつも、本当の孫のようにケアワーカー(ヘルパーのことを、あえてこの施設では、そう呼んでいる)を可愛がっていた。どのケアワーカーも分け隔てなくだ。もちろん、篠原も。


「篠原さん、こんにちは!」

 葉山さんは事務所窓口付近に座っていた篠原に声をかけた。

 ジッとパソコンを見つめついた篠原が嬉しそうに顔をあげると、葉山さんの元へと駆け寄ってきた。

「こんちは、葉山さん。体調、どうですか?」

「私はいつでも元気さ。…篠原さん、困ったことがあったらいつでも、このおばあちゃんに言うんだよ。必ずどうにかしてやっからね」

 葉山さんの言葉に、篠原の動きが固まった。

「えっ…」

 今日の昼間の出来事を知っているかのような、葉山さんの口振りに驚いた。

「顔みりゃすぐわかるよ。篠原さんはいつもニコニコしてるから。樋山さんはニヤニヤしてるけどねぇ」

「えっ…そんな風に見えてたんですか?」

 ニヤニヤって、何か嫌だ…。

「樋山さんみたいに、『間違えたー!』って言って、遊びにおいで。大歓迎するよ」

「いや、遊びに行ったわけではなく…あ、いや…間違えて訪問したことはありましたけど」

「あの時は笑ったねぇ。後で来た子と大笑いしたよ」

「クッ…確かに、笑いました。訪問していたケアワーカーから話を聞いたとき、みんなで大笑いしましたよ」

 篠原に自然と笑みが浮かび、葉山さんは屈んでいた篠原の背中を撫でた。

「篠原さんは、笑顔が一番似合うよ。体の力を抜いて、いつもみたいに笑っときな。きっとまた、いいことがあるから、ね!」

 葉山さんの言葉に、篠原はただただ頷いていた。

「今月は訪問月でしょ。何回でも会いにおいで。待ってるからね」

 篠原にそう声をかけると、葉山さんはバスへと向かっていった。

「樋山さんも、いつでも間違って来て良いからね!」

「はい!そ〜っと内緒で間違えて行きますよ」

 手を振りつつ、葉山さんを見送る。葉山さんの担当ケアマネージャーは篠原だ。俺が葉山さん宅に訪問することはもうないが、話を合わせて返事をした。実行することは業務上無理なのだ。だか、本心は別だ。気持ちだけをいつも伝える。期待させるだけで、申し訳ないと思うが、無理なものは無理だから。


「樋山…今日は、黄色ね」

 目元をハンカチで押さえながら、篠原は立ち上がった。

「了〜解〜」

 軽く返事をすると、自席へと足を向けた。



 黄色=「大衆居酒屋 東北」。家庭料理が多く、日本酒が旨い。何より安く、多くの同僚が利用している所だ。

「はぁ〜、やっぱり米どころの酒は美味しいねぇ」

 今日の出来事が嘘のようなご機嫌な篠原のお猪口に、俺は大吟醸を注いだ。

「ご機嫌ね〜。それで、昼間の怒鳴られた件は大丈夫なの?」

 たまたま早く仕事が終わった間宮と共に、沢山の料理といつもよりちょっと高めのお酒で篠原を慰めていた。

「んー…大丈夫ではないけど、大丈夫…だと思いたい」

「結局、どっちなのよ」

 苦笑いをする間宮に、篠原は苦笑いで返した。

「篠原が大丈夫だと言うときは大抵大丈夫じゃないけど、大丈夫と思いたいから…大丈夫ということにしておこう。な、間宮」

「なんなの。その根拠の欠片もない、憶測的希望的観点は…」

「昔さあ、大学の定期試験の問題にさ、『〜的〜的理論』って文章にあって。結局何が言いたいのか分からなかったなー」

「分かる!だいたいさぁ…」

 篠原と間宮の二人の会話によくある、突然の話題変更を眺めつつ、俺はグラスを傾けた。

 昼間の嵐の後。

 篠原が葛西理事長に謝りに行っていたのを見かけた。必死に頭を下げ謝罪し、初回相談の仕方を教えてほしいとお願いをしていた。頼られることが嫌いではない…好きな葛西理事長は、『あ〜でもない、こ〜でもない』とネチネチ言いつつ、ウンウンと頷いていた。『あなたには期待をしてるの。頑張って学びましょうね』と手を握られていた。それは、嘘ではなく葛西理事長の本心なんだろう…と信じたい。


 一人クスリと笑みを浮かべると、俺は篠原に声をかけた。

「篠原、笑おうぜ。お前の笑顔は、きっと誰かを幸せにしてるからさ」

「…なんなの突然。その脈絡のない、憶測的楽観的観点は」

 俺の一言にポカンとしている篠原をよそに、間宮はつかさずツッコミを入れてきた。

「間宮…その『~的~的観点』、気に入ったな」

「…分かる?なんか無駄に頭良さげな感じがするのよ」

「間宮のそのよく分からない感性、嫌いじゃないわ」

「何だかよく分かんないけど…ありがとうよ、残念なイケメン」

 わざとらしくニヤリとした間宮の隣で、篠原が呟いた。

「笑顔…」

「ん~?大丈夫だよ。お前の笑顔は、きっと沢山の誰かを幸せにしている!!」

「ぷっ…、憶測的楽観的観点だよ。…いいね、その考え方」

 篠原は、その日一番の笑みを浮かべた。


 今日のお言葉

『笑おう。あなたの笑顔は、きっと誰かを幸せにしている』


 憶測的楽観的観点じゃなくて、あなたの周りに居る人達が、周りに居る人達の笑顔が、それを証明しているよ。

 さぁ、いつもみたいに笑おう。


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