三章
心と晩飯を食べた後、ソファに腰掛けてぼんやりとリビングの明かりを眺めていた。
あの悲劇から五年が経過し長い人生で見れば大した年数ではないが、それでも多くの出来事があった。あの日からもう何も失うつもりはなかったのだが、それでも大切なものを失い続けた。だが、それでも身近に希望はある。
「お兄ちゃん、ぼんやりしてどうしたの?」
「あ、いや、なんでもない」
慌てて笑顔を作ったつもりだが、付き合いの長い妹だ。すぐに感づいたようで、食器を洗い終わった妹はエプロンで手を拭きつつ、俺の隣に座る。
「もしかして……昔のこと思い出してる?」
訝しげにそう言われれば、図星だ。もう頷くしかない。
「ああ、今でも昨日のことのようだよ」
「私は……あの日のこともよく覚えてない。それよりも昔の記憶も曖昧になっちゃったし……私はお兄ちゃんの苦しみや悲しみを共感することができない。私は悔しい」
心はエプロンの裾をぎゅっと握った。心底、悔しそうに。心の頭を俺は優しく撫でた。 心はあの日から記憶がぼんやりとしている。勉強していたことや生活の方法、自宅の場所になどは覚えていたが、両親の記憶が抜け落ちたような状態だ。俺の記憶も虫食い状態らしい。だが、あの時の心を救うには仕方のない代価かもしれない。
「昔は俺も悔しく思った。今は何ともないかと言われたら嘘になるけど、それでも悔しいだけじゃなにも変わらないことに気づいたから」
「うん、お兄ちゃんは本当に強くなったもんね。……お兄ちゃんばっかりずるいな」
拗ねたように言う心に思わず笑みがこぼれる。
「強くなったのは俺だけじゃない。心も強くなった。お前の優しさは間違いなく強さだ。俺は心みたいに人に優しくするのが苦手だ。迷子で泣いている子供がいれば、俺はうろたえてしまうが……お前は子供の為にお菓子をあげ、頭を撫でて、優しく励まし続ける」
そう言うと心は照れたように苦笑いを浮かべた。
「あ、この間出かけた時のことだね。お兄ちゃんがあんまりおたおたしてるから、助け舟を出しただけだよ。でも、あの時のお兄ちゃんは傑作だったな。わんわん泣くあの子の前で、ひたすらおろおろしてたよね」
心にとっては良い思いでになったかもしれないが、俺はあまり面白い思い出ではない。母を捜して泣き出した子供をあやそうと思えば俺は怖がられ、手を差し出せばさらに泣きだす。久しぶりに心を頼もしく思ったものだ。
心の優しさに感謝しつつ、再び頭を撫でた。心は頬を赤くして口を尖らせた。
「……なんですか」
「この間のお礼。ありがとう、心」
心はうつむくと、しばらくの沈黙の後小さく声を出した。
「お兄ちゃんずるい」
この幸せで温かい時間に感謝し、俺は心の盾となり剣となることを改めて心に誓った。温かいその空間を壊すように電話が鳴る。それは、俺が仕事用と呼んでいる黒い携帯電話だった。
「……もしかして、また仕事先から?」
神妙な面持ちで心が言う。心を心配させてはいけない、と思い頭を優しく撫でた。
「面倒な上司がいて、俺が行かないと後々めんどうなんだ。ごめんな」
「高校生でお仕事してるなんて変だよ、やっぱり。……叔父さん達の仕送で生活できるんだよ。お兄ちゃんはダメだって言うけど、私もバイトして頑張るし。それに昔住んでいた家に住み続けるために、お兄ちゃんが大変な思いをして仕事するなんて……私はお兄ちゃんに甘えすぎてる」
俺が仕事していることには理由が三つある。一つは、両親との思い出が残るこの家で暮らす。二つ目は。心を守る。そして最後の三つ目は、あの事件の日に起きた心と俺の呪いを解くこと。
隣に目を向ければ、不安そうな瞳。安心させるように心の頭をくしゃくしゃと撫でる。
「心配するな、俺が望んでやっている仕事だ。今夜は遅くなるから寝とけよ」
「うん……必ず帰ってきてよ」
「当たり前、かわいい妹を一人にできるか。けど、この間みたいに明け方まで待っているのはなしな」
「むぅ……それも私の望んでやっていることです」
子供のようにふてくされる心を見れば、苦笑を浮かべる。
行こう、彼女の喜怒哀楽を見続ける為に。ソファから腰を浮かせれば、窓にはヤツのシルエット。あの悲劇の引き金となった青い鎧……ブルーと呼ぶソイツが俺を見つめていた。今では仕事仲間であり、俺の呪いそのものだ。
※
場所を変えてある小学校の校庭。そこに立つのは複数の人影、彼らを照らすのは三台の大型トラックのライト。男女複数いるが、その誰もが黒いスーツ姿だった。そして、その中で声を出すのは一人の男、年齢は三十代半ば。
「ええ、ええ。はい……準備はできています。ブルーも輸送中ですよ」
男は電話の相手と親しげに会話を交わす。まるで慣れ親しんだ友人とのお喋りである。しかし、男の電話相手は上司。黒いフレームのメガネからは、どこか冷めたような瞳をしていた。
「ああ、すいませんすいません。え、二回も言葉を続けるのはやめろって? 癖ですからね。二度も相槌打つのは。はいはい、あ、また言っちゃいましたね」
上司からも指摘を受けたらしい。相手を馬鹿にしたその口調は、応対する相手の神経を逆撫でするには十分だったのだろう。電話のスピーカーから漏れる音が大きくなったところで男は肩をすくめる。
「あ、電池切れそうです。ブルーも到着したみたいなんで、そろそろ、はいはい」
そう唐突に言えば手にしていた黒い携帯電話を切る。男の隣に立っていたスーツ姿の女性が呆れたような声を発した。
「犬飼さん、ふざけすぎですよ」
年齢は二十台半ばの女性。大きな目は年齢よりも幼く見せ、セミロングの髪はより小さな顔を強調させた。手に持った資料を胸元で強く握る姿は、慣れない仕事への緊張感を男へ感じさせた。
「はいはい、ごめんなさいよ。句読君も緊張しないで僕みたいに肩の力を抜いて」
「抜きすぎです!」
「いやぁ、鋭いツッコミ。僕の下に就いてからウデあがったんじゃないかい」
声に怒りを帯び、句読登紀子が声を荒げる。
「知りません! 好きでウデを上げたんじゃないですよ、もう!」
「まあまあ、落ち着いて。おっと、そろそろ僕らのオトモダチもやってきたようだ」
そんなやりとりを繰り返していると、一台の黒塗りの車がゆっくりと二人の前で停止した。学生のように騒いでいた二人は口を閉じる。周囲の人間たちの視線も車のドアへ向けられる。そこから出てきたのは一人の青年。
「待たせた、行くぞ」
短くそう言う。その姿は、またもや黒いスーツ。しかし年齢が若いせいか、スーツを着ているというよりは、着せられているという表現が正しいのかもしれない。長い前髪をかき上げれば、暗闇に大羽凛渡の顔が浮かんだ。