第一章 衝突事故
小野神社の前を通る路地を西に百メートルほど進むと、少し広い区道に出る。そこを右折し、北へ五十メートルほど進むと、道路が不自然に曲がっている場所がある。そこは、道路の真ん中に社がある。その社を避けるようにして、車線が二つになっているのだ。その社は、明治初期に建てられ、平成の現在までずっと、姫巫女流の小野宗家が守って来た。付近に住む人達も、それが何故なのかは忘れてしまっているが、守り続けて来た小野宗家の者達は覚えている。
(よもや、あれが今になって破られるとは……)
小野宗家の現当主である小野仁斎は、息が切れるのも構わず、その社を目指して走っていた。
(このおぞましい気は、恐らく……)
仁斎は歯軋りしながらその社へと向かった。
山形県鶴岡市。
日本有数の修験場があるところである。その一角にある一人の修験者の屋敷。
「感じたか?」
山伏姿の老人が、飲みかけのお茶の入った茶碗を卓袱台に戻して言った。その向かいに座っている白装束を着て、前髪で片目を隠し、長い後ろ髪を束ねた若い男が眼光を鋭くする。
「ああ。何だ、これは? 妖気とも神気ともつかない妙な気だ」
「そうだな。しかし、場所が問題だぞ」
老人が言う。若い男はスッと立ち上がり、
「例の社だな。しかし、何故今になって……」
「解せんな。とにかくも、仁斎が危うい。行ってくれ、雅」
老人は若い男、すなわち、小野藍の許婚であった小野雅を見上げる。
「言われるまでもない。あの男が出て来ようとしているのであれば、防がねばならない」
雅は老人を見下ろし、
「すぐに戻る。話の続きはそれからだ」
「ああ」
老人、修験者の遠野泉進は頷いて応じた。雅はフッと笑うと、スウッと消えた。彼の使う黄泉路古神道の秘術で、根の堅州国という異空間を使った移動術である。
「今頃になって、か。いや、今だからこそなのかも知れんぞ」
泉進は残りのお茶をグッと飲み干して呟く。
「建内宿禰が封じられ、巨大な光の神も消えた今だからこそ、彼奴が動いたのだ」
泉進の言葉は謎めいていた。
仁斎が社のあるところまで辿り着くと、そこには野次馬が集まっていた。
「何と……」
仁斎は絶句した。道路の真ん中に建てられている社は、石の囲いで守られており、更にその内側に木の塀も建てられている。それほど頑丈ではないが、人が簡単に打ち壊せるものではない。
「これは一体……」
仁斎は目を見開いたまま、社に近づいた。社の石の囲いを突き破り、木の塀を打ち壊したばかりか、その奥にある社本体に突き刺さるように停止している大型トラックがあった。
「ああ、宮司」
近くの交番から来た制服警官が、仁斎の姿を見つけて近づく。他にも幾人かの制服警官がおり、野次馬達が社に近づくのを制止している。
「これは一体どういう事だね?」
仁斎は大型トラックを見上げて警官に尋ねる。警官は恐縮した様子で、
「それが、私が来た時にはもうこの状態で……。運転席を確かめると、誰もおらんのですよ」
「逃げたのかね?」
仁斎が周囲を見渡して言う。しかし警官は首を横に振り、
「いえ。これだけの事故ですから、大きな音がしたんです。私もその音を聞きつけて来たんですが、我々より早く来ていた近所の方に確認しても、誰も運転している者を見ていないのですよ」
「何だって?」
仁斎は寒気がした。
(しかも、只単に事故を起こしたのではない。このトラック、意図的に社に突っ込んでいる。その上、結界を破っている。これはどういう事だ?)
「む?」
仁斎は、社に封じられている者の気配を感じた。
「いかん、早くこの場から離れるのだ」
仁斎が大声で言った。警官は仁斎の様子に驚き、
「どうしたんです、宮司? 何かあったのですか?」
仁斎は、詳しく説明している暇はないと考え、
「危険なんだよ。野次馬連中はもちろんの事、近所の住民も避難させてくれ。一刻も早く!」
「しかし……」
警官は状況が理解できないせいで、仁斎の言葉を受け入れられないようだ。
「つべこべ言っとらんで、サッサと避難させろ! 出ないと、死人が出るぞ」
「し、死人?」
その不吉な言葉に、ようやく警官はビクッとした。
「しかし、何と説明すればいいのですか?」
機転の利かない奴だ、と仁斎は心の中で思い、
「社の下に不発弾が見つかった、トラックが突っ込んだせいでいつ爆発するかわからん、とでも言え! 早く!」
仁斎の剣幕に驚いた警官は、
「は、はい!」
と慌てて駆け出し、野次馬達にそれを伝える。野次馬達はたちまち、まさに蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。
「後はご近所の方達だ。手分けして伝えなさい」
「は、はい!」
野次馬整理をしていた警官達が一斉に散らばり、辺りの家々に声をかけて回る。ほどなく、各家から住民が飛び出して来て、災害時の避難場所に指定されている近くの公民館に逃げ始めた。
「何とか間に合いそうか」
仁斎は住民の避難を見てホッとしたが、結界の破れ方が早くなって来たのを感じ、社を見た。
「もはや結界を張り直す暇もないか」
仁斎は歯軋りした。
(伝承以上の気だ。まさかとは思うが、封じられながらも、力を蓄えていたのか?)
額に汗が滲む。
杉野森学園高等部の仮校舎で授業中の小野藍も、その異変を感じていた。
(何、この妙な気は?)
授業中ではあったが、それどころではないのを感じた藍は、
「自習にします」
と言うと、教室を飛び出した。生徒達は大喜びだ。普段ならそれを窘める藍だが、今はその余裕もない。
(お祖父ちゃん!)
彼女は祖父仁斎の危機を感じていた。そのまま一気に事務長室まで走る。
「どうしたのかね、小野先生?」
事務長の原田裕二が仰天して藍を見る。
「事務長、申し訳ありませんが、早退します」
藍はそう言って頭を下げると、仮校舎を飛び出した。
「ええ?」
いつもはあまり動じる事のない原田であるが、何が何だかわからないので、混乱していた。
「高天原に神留ります、天の鳥船神に申したまわく!」
藍はそこが学園の敷地内だという事も考えずに飛翔術を使い、飛び立つ。それほど緊急事態と感じているのだ。
「わわ!」
偶然、窓からその様子を目撃した古田由加は、久しぶりに見た飛翔する藍の姿に言葉を失った。
(すごい、小野先生……)
仁斎は社から噴き出す気が強まるのを感じ、
「君達も離れなさい。危険だ」
と警官達に告げた。警官達は顔を見合わせてから、駆け出す。
「来たか?」
仁斎は空を見上げた。社からまるで打ち上げられたかのように気の塊が現れた。
「あれか?」
空に浮かぶ人影。それが社に封じられていた者。
「百四十年ぶりか」
封じられていたのは、壮年の男。衣冠束帯姿で髪は総髪。
「貴様、土御門晴信か!?」
仁斎が男に向かって叫んだ。男はゆっくりと仁斎を見下ろし、
「お前は小野宗家の者か? 如何にも。私は土御門晴信。小野一門を滅するために甦ったのだ」
と言い、ニヤリとした。