イヤホン
月が雲の間から見え隠れする冬夜に、紗枝は一人で歩いていた。辺りは閑散としており、薄暗い道が続いていた。冷たい風が頬を撫で、体をぶるっと震わせる。
紗枝はポケットの中からイヤホンを取り出し、耳に装着した。最近流す音楽はいつも決まっていた。かつて修弥に教えてもらった『愛虜』という曲だ。修弥のオススメしてくれた曲は全て聴いているが、正直好みに合わないものばかりだった。でも、この曲だけは私の好みドンピシャだった。アップテンポが好きな修弥が絶対聞かなそうな曲の系統だったため、そのこと自体に驚いたが、それ以上に嬉しかった。もしかしたら私の好みに合わせてくれたのかも、なんて淡い期待も抱いたりした。
『愛虜』のイントロが耳に入ってきた。
修弥との出会いは、大学の講義だった。顔を見かけるだけで言葉を交わしたことはなかったが、グループ学習で同じ班になったことがきっかけで知り合った。その時は、ただよく喋る明るい人だなぁと思っていただけで、恋愛感情などまったく抱くことはなかった。
ある日の大学終わり、最寄りの駅まで歩いてる時に偶然、修弥を見かけた。いつも周りに人が集まっている修弥が一人なのは新鮮だったため、思わず彼の姿を目で追っていると、ふいに目があってしまった。私は慌てて目を逸らしたが、気さくな彼は私に近寄って声をかけた。
「あの講義以外で会うのは初めてだよね。せっかくだから一緒に帰ろうよ」
私は正直戸惑った。修弥とうまく会話をできる自信がなかったのだ。社交的で陽気な修弥に対して、私は静かで内向的な性格だ。会話のテンション感も合わなくて気まずくなってしまう未来しか見えなかった。ただ、面と向かって拒否をすることもできず、私は笑顔で「うん」と肯き、一緒に帰ることになった。
私はその日初めて修弥と二人きりで話をした。そこで驚いたのが、修弥は二人きりだとあまり騒がない人だったのだ。普段の彼からは想像がつかないほど落ち着いていて、余裕が感じられた。今思えば、彼は私の雰囲気に合わせてくれたんだと思う。修弥は私の話に丁寧に相槌を打って興味深そうに聞いてくれた。彼はきっと、会話をする時に相手が楽しめることを最優先に考えている。気づけば私ばかり好きなことを話していて、修弥の話は聞けないまま駅に着いてしまった。改札の前で「またね」と笑顔で手を振る彼の姿が、脳裏に焼き付いて消えなかった。私はその時から彼に魅了されていた。
『愛虜』の一番が終わり、二番が始まろうとしている。
この曲を聞き始めて今日で三ヶ月になる。もう歌詞もメロディーも完璧に思い浮かべられるほどに聞いているというのに、飽きることはなかった。曲自体がいいのは間違いないのだが、なによりも、この曲を聞けば修弥と過ごした時間を鮮明に頭の中に映し出せるのが嬉しかった。
目の前の信号が点滅を始めたため、立ち止まる。すぐ隣ではカップルと思われる若い男女が幸せそうに笑い合っていた。
恋愛を歌で表現しようと考えた人はなんて素敵なんだろうと私は思う。恋愛の背景や登場人物の心情を歌詞に起こし、それをメロディに乗せて情感豊かに響かせる。作者が大切な人を思って作った歌が、それを聞いたたくさんの人の大切な歌になる。
『愛虜』のラスサビが流れてきた。
修弥はこの歌を聴く時、誰を想っているのかな。
目の前の信号が青色に変わった。隣のカップルは手を繋いで歩き出し、そのまま真っ直ぐ進んで行く。私は二人を横目に右に曲がった。
しばらく歩くと前方に待ち合わせの公園が見えてきた。
公園に向かって一歩踏み出すたびに、心臓の動きがはやくなるのがわかる。全身が自分では抑えられないほど震えてきた。これは寒さのせいだけではないのは明らかだった。おそらくこの震えは何枚着こんだところで収まる類のものではないだろう。
気づけば『愛虜』は終わり、次の曲が流れていた。
紗枝は両耳からイヤホンを外した。風に揺られる木々の音や、道路を走る車の音が耳に届く。紗枝は自身の足音を響かせながら、公園の入り口にある階段を数段上がった。おそらくこの階段を上り切った先に修弥がいる。紗枝は登り切る前にゆっくりと深呼吸をした。
公園は薄暗く、街灯は二つあるだけだった。遊具もブランコと滑り台しかなく、もの寂しい公園だったが、待ち合わせをするには十分な場所だった。
紗枝は辺りを見渡し、修弥の姿を探した。すると、ベンチに体を埋めている人影が目に入った。顔は見えないが修弥に違いなかった。紗枝は駆け足で彼の元に駆けつけた。
「修弥…だよね?」
紗枝の声に男はびくっと体を反応させ、顔を上げると、声を出して笑った。
「思ったよりはやかったね。変なところ見られちゃって恥ずかしいなぁ」
彼はそういうと、ベンチを軽く叩くジェスチャーをし、紗枝に隣に座るよう促した。紗枝は鞄を肩から下ろし、膝の上に乗せた。
「お腹でも痛いの?大丈夫?」
紗枝が顔を覗き込むと、修弥はペットボトルを差し出してきた。
「ちょっと外寒かったからさ。なんか温かい飲み物でもどうかと思って買ったんだけど、すぐ冷えちゃいそうだったから。ぬるくならないように頑張って守ってた」
「なにそれ。変なの」と紗枝は笑った。修弥から温かいお茶を受け取ると、大切そうに両手で包み込んだ。
「今更だけど、本当にこんな遅い時間でよかったのか?来週講義で会うのに」
修弥は鞄の中から本を取り出しながら言った。
「すぐに読みたかったから来週まで待つのはなーっと思って。それにちょうど予定あったから全然大丈夫だよ」
「まあ紗枝がいいならいいんだけど。はい、これ」と修弥が本を差し出した。紗枝は「ありがとう」といって本を受け取り、鞄の中にしまった。
「でもその本、紗枝の好みに合わないかも。本格ミステリだし」
「平気平気。わたしちょうどミステリ読みたいところだったの」
「まじ?あんま周りにミステリの話共有できる人いないから嬉しいわ。また感想聞かせて」
「もちろん。すぐ読むね」と紗枝は微笑んだ。
本当は、特にミステリに興味があるわけではないが、修弥の好きな本を読みたいという気持ちが先行した。本の受け取りを今日にしたのも修弥と二人で話したかったからだ。彼が遅くまで大学で勉強していると聞いて、咄嗟に今日を指定した。他に予定なんかなかったが、修弥に会うためだけにはるばる家から飛び出して、大学近くまでやってきたのだ。
公園の隅にある時計を見上げると、時刻は二十一時を回っていた。そういえば、修弥と夜に二人きりで会うのは初めてだな。そう思った途端、急に心臓が飛び跳ねた。変に意識してしまったため、額から汗が滲むのがわかった。修弥に気づかれないようにこっそりと汗を拭くと、彼が星を見上げながら話し始めた。
「やっぱ冬の夜空って綺麗だよなー。理由はよくわかんねえけど」
オリオン座があるからかな、と修弥は呑気に笑った。
紗枝もつられて空を見上げると、そこにははっきりとオリオン座が冬の夜空に映し出されていた。私はぼーっとそれを見ているうちに、ある話を思い出した。
「星座といえば、かんむり座の逸話知ってる?」
紗枝の問いかけに修弥は眉をひそめ、真剣な顔で返事をした。
「おれにそんな知識があるほど賢く見えるか?」
「まあそうだよね」と紗枝が間髪入れずに返すと、修弥は「バカにすんなよ」と笑った。紗枝もそれにつられて笑うと、再び空を見上げて話し始めた。
「クレタの王女、アリアドネの恋の話なんだけどね。アテナイはクレタとの戦争に敗れ、その代償として怪物ミノタウロスの生贄を差し出すことを要求されたの。そこで、生贄の一人にテセウスという男がいたんだけど、その人はミノタウロスの生贄になるのではなく、倒すことを企てたの。ある日、王女はテセウスのその凛々しい姿を見て、恋に落ちてしまう。敵国の人なのに。そして、なんとかテセウスを救おうとアリアドネは短剣と赤い毛糸を渡してしまうの」
「赤い毛糸?何に使うんだそれ」と修弥は思わず聞いた。
「ミノタウロスを倒した後に、その赤い毛糸を辿って自分の元に来させるためだね」
「へー。まるで運命の赤い糸だな」
「そうなの。それで、ミノタウロスはあっけなく倒されちゃって、赤い糸を辿ってアリアドネの元に戻り、みんなで逃げ出すの。でね、そのまま他の生贄たちも含めてみんなで酒宴を開いて、疲れた彼らは寝てしまうの」
修弥は真剣な顔で時々相槌を打ち、話に聞き入っていた。
「そこで、テセウスに神アテネから天啓が降りるの。『テセウス、アリアドネを置いて、急いで船出しなさい。アリアドネはここでディオニスと暮らすことになる』って。テセウスはそれに従い、アリアドネを置いて船出をしてしまうの」
そこで紗枝は一呼吸おいて、話を続けた。
「目覚めたアリアドネは気が狂ったように泣き叫んだ。やがて悲しみは憎しみに変わり、絶望のあまり身を投げ出そうとまでした。その時、密かに思いを寄せていたディオニスが彼女に寄り添い、七つの宝石で創った冠を贈り、プロポーズをして、そのまま二人は結婚した。アリアドネの死後、その冠は空に上げられ、七つの宝石が星になって輝いているのが、かんむり座。っていう逸話」
おしまい、っと紗枝が手を叩くと、修弥は感心したように拍手をした。
「この話聞いて、どう思った?」
修弥は手を顎に当てて、しばらく考えると、顔を上げた。
「なんか現代の恋愛と似たようなものを感じた。失恋をして落ち込んでいる女の子を男が慰めて、その二人が恋に落ちる感じが」
「たしかに」と紗枝が肯くと、「逆に紗枝はどう思ったの?」と修弥が聞き返した。
「私は好き同士でも離れなきゃいけない時は存在するんだなって思った。かんむり座の話は天啓が降りるって言う神話すぎる状況だからちょっと違うけど、テセウスがアリアドネの元を離れたことで彼女が幸せになれたのは事実だから。自分より相応しい人がいるよっていう振り方あるけど、あながち間違いじゃないのかもね」
紗枝のその言葉を聞いて修弥はわずかに目を見開いた。いつの日か、ある女性に言われた言葉が頭の中で再生された。
「私もあなたが好き。だけど、ごめんね。きっと私たちを幸せにしてくれる運命の人は他にいると思うの。本当にごめんね。修弥」
泣きながらそう言った女性の姿が頭に思い浮かぶ。
もう忘れようと何度も思っていた記憶。なんでこのタイミングで…
「修弥、どうしたの。大丈夫?」
紗枝の声で修弥は我に帰った。彼女が心配そうにこちらを見つめている。
「いや…」修弥は力無く首を振った。
「なんでもないよ」修弥は苦笑すると、紗枝は「そう。ならいいんだけど」と答えた。
二人の間には僅かに沈黙が訪れた。冷たい風が紗枝の長い髪を揺らす。空を見上げると、雲の大群がゆっくりと流れて星に覆い被さっていった。綺麗な星空はすっかり暗い夜空に染まりつつあった。
紗枝は先ほどの修弥の様子が気になった。普段は見せない暗い雰囲気だった。私はなにかまずいことでも言ってしまったのだろうか。
修弥に聞いてみようと口を開きかけたが、やめた。何か聞いてはいけないことのような気がしたのだ。いや、私が聞きたくない話のような気がした。紗枝はすっかりぬるくなってしまったペットボトルを強く握りしめた。
「そういえばさ、」紗枝は新しい話題を提示することにした。
「前に修弥におすすめしてもらった曲聞いたよ。めちゃくちゃよかった。今でもずっと聞いてる」
そういうと修弥は少し困った顔をした。
「えっと、なんの曲だっけ」修弥は申し訳なさそうに笑った。
「愛虜だよ!もう飽きちゃったの?」
「あーあの曲か。おれも前まで聞いてたんだけど今は聞いてないんだよな」
「えーなんでよ。ようやく修弥と私の曲の好み合ったから嬉しかったのに」
紗枝が首を垂れると、修弥は「ごめんごめん」と謝った。
「実はあの曲おれもおすすめされた曲なんだよ。当時はちゃんと聞いてたし本当にハマってたよ。でもまあ、なんかね」
修弥はそこで言葉を切ると、どこか遠くを見つめた。
「いろいろあるんだよ、おれも」
ちょっとお手洗い行ってくる、と修弥は席をたって歩いて行った。紗枝は遠ざかっていく彼の後ろ姿を眺めた。このまま帰ってこないのではないかと不安を覚えてしまうほど、紗枝の心には靄がかかっていた。
修弥が戻ってくると、紗枝は彼とずっとしてみたかったことを提案することにした。
「私と一緒に音楽聞かない?」
突然の提案に修弥は一瞬息を詰めたが、「いいね」とすぐに乗ってきた。
紗枝は鞄の中から新品のイヤホンを取り出すと、片方を修弥に差し出した。
「お互いの好きな曲をプレイリストにいれてさ、それランダムで流そうよ」
紗枝はスマホで音楽アプリを開くと、自分の聴きたい曲をすばやく入れ始めた。
修弥はスマホを横から覗き込むと、「やっぱ知らない曲ばっかだなぁ」と楽しそうに笑った。紗枝はいつもの修弥をみれて安心し、胸を撫で下ろした。
二人は曲を入れ終えると、さっそく聴き始めた。
一曲目は修弥の好きな曲だった。相変わらずアップテンポな曲で、いかにも男の子が好きそうな曲だなぁと思った。横目で修弥を見ると、彼は笑顔でノリノリの様子だった。
二曲目は私の入れた曲だった。ゆったりなテンポの失恋曲だったが、それでも彼は笑顔で目をつぶって聞いていた。時折、「いい曲だなぁ」と声を漏らしていた。私はまたこういう曲にハマってくれないかなと密かに願っていた。
三曲目、四曲目と私たちは一緒に音楽を聴いた。曲を聴きながらも二人で「ここまじかっこよくね」とか「ここの歌詞めっちゃ良くない?」などと好きな部分をアピールし合ったりした。
五曲目、ついに私の聴き慣れたイントロが流れてきた。もし一緒に音楽を聴く機会があったら、必ず愛虜は聴きたいと思っていたのだ。私はプレイリストに真っ先にこの曲を入れた。ついにこの曲を修弥と一緒に聴くことができる。紗枝ははやる気持ちを抑え、目をつぶって曲に集中した。
ふと修弥の様子が気になり、横目で彼の姿をみた。その瞬間、私は思わず動きが止まってしまった。
先ほどまでどんな曲でも笑顔で、ノリノリで聴いていた修弥が、どこか遠くを見つめて、ぼーっとしていた。何かに思いを馳せているかのように。
私はあなたの隣にいるのに、あなたは私の隣にいない。そんな気がした。
不穏な風がイヤホン越しに耳に伝わり、一瞬曲が聴こえづらくなる。その時、私の頭の中にいろいろな考えが巡ってきた。
修弥が好みとは真反対のこの曲にハマったこと、星座の話をした時のあの様子、今はもうこの曲を聴いていないこと。
「いろいろあるんだよ、おれも」そう言った修弥の顔が浮かんだ。あの時の表情と今のあなたの表情が同じことは、きっと私しか気づいていない。
「ねぇ、修弥」気づけば私は口を開いていた。
「ん、どうした?」修弥はワンテンポ遅れて返事をした。
紗枝はそこでためらった。これを聞いてしまえば、きっと後悔する。すべてが終わってしまうかもしれない。でも、もう聞かずにはいられなくなってしまった。
「修弥ってさ、好きな人、いるの?」なんとか声を振り絞って聞いた。
修弥は何も答えなかった。二人の間に長い沈黙が訪れる。イヤホンからは愛虜が確かに流れているのに、紗枝の耳には何も入ってこなかった。
「うん」やがて、修弥はゆっくりと口を開いた。
「そう」
そっか、と紗枝は何度も肯くと、満面の笑みを浮かべた。
「もっと早く言ってよ。私修弥のそういう話聞いたことなかったから恋愛興味ないのかと思ってた。ちなみに誰?どういう人なの?」
紗枝は自分を誤魔化すように言葉をできる限り紡いだ。そうしないと、自分が保てないような気がしたから。
「半年ぐらい前に出会った人なんだ。実は、一度告白してるんだけど振られちゃった」
修弥は下を向くと、「忘れられない人なんだ」と消えそうな声で吐き出した。
「まだ好きなの?」
「うん」
「そうなんだ」
紗枝は下を向く修弥の肩を軽く叩いた。修弥は驚いて彼女の方を見た。
「好きならもう一度アタックしなよ。修弥なら絶対大丈夫だって。あなたの魅力は私が一番わかってるんだから」紗枝は笑顔で言うと、「修弥らしくないぞ」と付け加えた。
修弥はそんな紗枝を見て、久しぶりに笑った。
「ありがとう。もう少し頑張ってみるよ」
紗枝は「うん」と笑顔で肯くと、イヤホンを外した。
「ごめん、そういえばやらなきゃいけないこと思い出してさ。申し訳ないんだけど、そろそろ帰るね」
「いや、こっちこそ遅い時間までごめんな。駅まで送るよ」修弥はイヤホンを外して紗枝に渡した。
紗枝は雑にイヤホンをまとめ、鞄の中に押し込むと立ち上がった。
「一人で帰れるから大丈夫だよ。じゃあ気をつけてね。おやすみ」
そういうと、紗枝は修弥の返事を待たずに足早にその場を去った。
ベンチに置かれたままのペットボトルはすっかり冷え切っていた。
公園の階段を降りると、紗枝は走り出した。何も考えずにとにかく走った。自分の抱えている感情を全て忘れるまで走り続けた。
ついに体力の限界が来て、紗枝は立ち止まり、そのまま崩れ落ちた。手のひらを地面につけ、必死に乱れた呼吸を整えた。走ったことで温まった体の熱がそのまま目頭まで伝わり、紗枝は涙を流した。頭上の街灯が悲劇のヒロインを目立たせるためのスポットライトのように紗枝を照らしていた。
私はきっとどこか期待していたのだ。修弥も私のことを好きになってくれるのではないのかと。私があなたに恋をしたんだから、あなたも私に恋してくれるのではないのかと。でもそれは私の妄想でしかなくて、現実は思っているよりも残酷だった。勝手に好きになって、勝手に期待して、勝手に裏切られて、自分が惨めで情けなくて思わず笑ってしまった。
その時、目の前に白い結晶が落ちてきたのがわかった。ゆっくりと揺れながら下降していくその結晶は黒い地面に落ちて、白く輝く模様を描いた。まるで空の星が地面に落ちてきたかのような、そんな気がした。
私は空を見上げると、大量の雪が降っているのが見えた。その内の一粒が目の前に迫り、そのまま視界を白一色に閉ざした。反射的に目を閉じ、雪を振り払った。
物は近づきすぎると見えなくなってしまう。どんなに目が良くても、適切な距離を保たないと、その形も色も大きさも何もかも見えなくなってしまう。恋愛もそれと似たようなものだと思う。心の距離が近づきすぎてしまえば、見えなければいけない部分も見えなくなってしまう。そうなれば、私と言う存在は路頭に迷い、いつの間にかその人に依存しなければ自分を保てなくなる。
私はきっとあなたに近づきすぎてしまった。だから、また適切な距離を保てるように、一度、目一杯離れることにするね。
紗枝は震える手でイヤホンを取り出し、耳に装着した。先ほど中断されたところから愛虜が流れてきた。私はそれを聞いて、遅すぎる理解が頭を揺らした。
あぁ、そうか。私にとってあなたとの思い出の曲は、あなたにとって別の誰かとの思い出の曲だったんだね。
紗枝は音楽を止めると、深い息を吐き出した。白い煙が形のない想いを乗せて、冬の夜空に消えていった。




