邂逅
カルヴァの夜は、腐った果実の匂いがする。
交易で栄えた都市の裏側には、決まってそういう匂いが漂う。リオ・ストールは石畳の路地を歩きながら、この三週間その匂いを嗅ぎ続けていた。
東区画の外れ。倉庫街の入口まで、あと五十メートル。
帽子の鍔を上げ、左目で遠方を確認する。灰色の視界が研ぎ澄まされ、闇の細部が鮮明に浮かび上がった。正面の見張り、二名。一人は欠伸をしている。
もう一人は壁に背を預けて、意識が半分どこかへ行っている。
見立て通り警戒は薄いが、今夜は確認だけだ。
リオは踵を返した。
カルヴァは南方諸侯領の境界線上にある都市だ。複数の領主の管轄が曖昧に重なり合い、そのせいで監査機関の目が届きにくい。非合法な取引を好む者たちが好んで集まる、そういう場所だった。
この三週間で断片的な証拠は揃いつつある。
魔法薬の密造場所。依存患者の証言。おおまかな資金の流れ。
しかし決定的な証拠——製造記録と取引の詳細を記した帳簿——がまだ押さえられていなかった。在処はわかっている。倉庫街、中央棟の地下室だ。
リオは監査機関に武力行使による証拠の奪取を申請した。先日、許可が下りた。
問題は、それを実行する戦力が一人では足りないことだ。対象の組織——通称「灰爪」——の規模は当初の見込みを大きく上回っていた。少なくとも二級以上の高等級魔術師が三名いる。構成員も多い。
証拠を保全しながら同時に制圧するには、別の手が必要だった。
昨日、監査機関を通じて魔術師ギルドに戦力の手配を頼んだ。
明日の朝、到着する予定だ。
右目で周囲を確認する。視界が青く滲み、空気中の魔力が細い糸のように浮かび上がった。異常なし。
リオは黒のロングコートの襟を立て、路地の影へと消えた。
翌朝、指定された宿の一室。
扉をノックすると、言葉の代わりに鍵が外れる音がした。
部屋に入る。
窓際に女が立っていた。
銀髪が朝の光を受けて白く輝いている。紅の外套の下に、背に負った長柄と刃が僅かに覗いていた。おそらくはグレイヴだ。
入ってきても振り返らず、窓の外を眺めたままだ。
荷物は最小限。ベッドと扉の間に障害物がない。窓への動線も確保されている。
——習慣だな、とリオは思った。
右目に意識を向ける。視界が青く滲んだ。女の周囲に、静かに渦を巻く魔力の流れが見えた。莫大な量だ。意識的に、あるいは無意識に、それを内側に収めている。
「あなたがリオ・ストール?」
女が振り返った。
笑顔だった。しかし笑いの重みがない。感情が表面だけを走っているような、そういう顔だ。目の奥に何もない。
明るいのではない。何かが、違う。
「そうだ。リゼル・クライアか」
「よろしくね」
それだけだった。自己紹介はない。
リゼルがリオを見た。数秒、黙って見ていた。
その視線には、何かがあった。観察、というには違う。もっと——リオには言語化できなかった。
「もしかして、その右目って義眼?」
「正確には両方だ」
リゼルの視線が下がり、リオの左腕に向く。
「その左腕も義手?」
「そうだ」
「ふうん、珍しいね」
それだけだった。驚きも、同情も、質問もない。
リオは少し意外だった。この容姿の異質さを一言で済ませる人間は珍しい。
リオはテーブルに書類を広げた。
「対象は魔法薬密造組織、通称『灰爪』。構成員三十二名、うち戦闘要員十八名、高等級魔術師が三名。製造施設は東部の倉庫群、建物三棟。証拠書類は中央棟の地下室に集中していると見ている。突入のタイミングは深夜の当直交代直後、その隙間が約十五分。先に——」
「わかった、行こう」
リゼルが立ち上がった。
「……まだ終わっていない」
「大体わかった」
「僕と君とでは『大体』の定義が違うらしいな」
「じゃあ、行きながら聞く」
リゼルは既に扉に向かっていた。
リオは書類を片付けながら、小さく息を吐いた。追いかけながら説明するのが、今取れる選択肢の中では最善だった。
東区画の入口で、リオはリゼルの腕を掴んだ。
「待て」
「なんで?」
リオは答えず、目を閉じた。
「『響界空識』」
微弱な魔力波を四方へ放つ。波は壁を、扉を、人体を通り抜け、反響して戻ってくる。空間の輪郭が、地図を描くように頭の中に浮かんだ。
「内部、確認できた構成員は二十四名。左の倉庫に十一名が待機中。中央に七名、そのうち三名が高等級魔術師だ。右の倉庫に六名。裏口の見張りは二名」
「便利」
「正面の見張りが倒れた音で中央の七名が動く。その前に僕が地下室に入れるかどうかが分かれ目になる」
「私が騒がしくやればいいってことだよね」
「……そういうことだ。ただし——」
「中央の棟には入らない。証拠は傷つけたくないもんね。」
リオは少し間を置いた。
「その通りだ」
リゼルが肩越しに手を伸ばし、グレイヴの柄を掴んだ。
「あと、もう一つだけ」
リオが言った。
「何?」
「できるだけ殺すな」
リゼルの手が止まった。少し考えるような顔をして、それから頷いた。
「わかった」
「理由は理解しているか」
「捕まえて尋問するため?」
「正確には証言させるためだ」
リゼルが首を傾げた。
「それって同じじゃない?」
「違う」
リオはリゼルを見た。
「尋問は拷問と紙一重だ。そうして得た情報は、違法と捉えられる可能性がある」
「じゃあ証言は?」
「正規の手続きを踏んで、合法的に聞き出す。それなら確実に証拠として使える」
リゼルは少し黙った。
「ああ、そういう『契約』なんだね」
「そういうことだ」
「……面倒くさいね」
「監査官という仕事は、そういうものだ」
リゼルが少し考えて、それから言った。
リゼルはグレイヴの柄から手を離した。
「わかった。じゃあ、手加減する」
「頼む」
リゼルが正面へ向かおうとした時、リオが左手を前に突き出した。
「『幽玄帳界』」
空気が僅かに歪んだ。
不可視の膜が中央倉庫を覆う。右目に青い光が走り、結界の境界線が一瞬浮かび上がってから消えた。
「これは結界?」
リゼルが空を見上げた。それから、リオを見た。
「偽装用の結界だ。外からの視覚、聴覚の情報を偽造する」
「外から見たら、中では何も起きてないように見えるってこと?」
「そういうことだ」
リゼルが少し笑った。
「器用だね」
「ただし、そう長くは持たない。早めに済ませよう」
「わかった」
リゼルは既に歩き始めていた。
深夜。
リゼルが正面へ歩いていく。リオは右の路地を回り、裏口へ向かった。
正面で声がした。
「何者だ」
「通りがかり」
直後、音が響く。
裏口の見張り二名が正面に気を取られた瞬間を狙い、リオは動いた。左腕の義手に刻まれた術式を起動し、首筋に当てる。電撃が走り、男は音もなく崩れた。もう一人が気づいたが、一歩遅かった。
扉の魔導錠に左手を当て、術式の構造を解析し、『破壊』する。扉が開いた。
内部は薬品の匂いが充満していた。棚に並ぶ瓶を右目で確認する。
視界が青く滲み、魔力の流れが浮かび上がった。合法成分の中に、見覚えのない異質な成分が僅かに混ざっている。巧妙に隠されているが、この目には見える。恐らく国家未登録の成分だろう。
地下へ降りる。
地下室は広く、棚に書類が整理されていた。取引記録、資金の流れ、構成員のリスト、製造記録——必要なものを選びながら確認していく。
四分かかった。予定より一分遅れている。
地下室を出る前に、『響界空識』で中央棟の内部を確認する。七名、全員が動き始めているが、正面の騒音に引き寄せられている。
急ぐ必要がある。
中央棟に入ると、製造設備が並ぶ広い空間が広がっていた。奥の事務スペースに向かい、追加の書類を回収する。
その最中、右目が熱を帯びた。
既に、術式の展開が始まっている。視界に青い光が走り、三名の高等級魔術師の魔力回路が浮かび上がった。放出系、物質系、そしてもう一つ——解析が間に合わなかった。
扉が開いた。
三名の魔術師が入ってくる。先頭の男は四十代、目つきが鋭く、すでに両手の周囲に魔力が渦巻いていた。後ろの二名はまだ展開中だ。
「随分と丁寧に調べてくれた」男が言った。
「だが終わりだ」
リオは腰のホルスターに手をかけた。
先頭の術師が術式を完成させようとする。右目に青い光が走り、その構造が読める。放出系の広範囲魔術。展開まで——
一秒。
その時、背後の扉が開いた。
「中央を先にやれ」
言葉が終わる前にリゼルは動いていた。速い。しかし先頭の術師も反応した。魔術の完成を急ぐ。リゼルの拳が届く前に魔術が展開され——
「『晶鱗装』」
リオは咄嗟に魔力を放出した。体表で結晶化し、薄い鱗状の装甲が全身を覆う。展開した魔術の余波が右側面を叩き、壁まで吹き飛ばされた。結晶が砕け散りながら衝撃を逃がしたが、肩に重い痛みが残った。
リゼルが背からグレイヴを引き抜き、石突を前に向けて投げた。
長柄が空を切る。
中央の術師の顎に石突が命中し、糸が切れたように、崩れ落ちた。
それと同時に、リゼルは既に左右の術師へ動いていた。
リオは立ち上がりながら銃口を向けた。
「二番『閃雷』」
二発。帯電した魔力が左の術師の右腕を、右の術師の左足を弾く。筋肉が強張り、魔力の流れが乱れた。
体勢を崩した二名にリゼルが到達した。
左の術師を拳で制圧する。しかし右の術師が、倒れながら魔術を完成させた。
リゼルの外套の袖が裂ける。僅かに血が滲む。
それでも止まらなかった。傷を意に介さず相手の懐に入り、短く打つ。三人目が床に伏した。
リゼルが倒れた中央の術師のそばに歩み寄り、グレイヴを拾い上げる。死んではいない。石突が顎を打っただけだ。
沈黙が落ちた。
リゼルが裂けた袖を一瞥し、それだけで終わりにした。
「終わった」
「……怪我をしている」
リゼルはリオを見た。じっと見ていた。
「これくらいはなんともない」
嘘ではないと、リオには分かった。ただ腑に落ちない何かがあった。痛みを感じていないのか、感じても気にしないのか。どちらかは判断できなかった。
リオが中央棟を出たとき、左の倉庫ではリゼルがまだ残りの構成員を制圧していた。
音が聞こえなくなるまでに、さらに五分ほどかかった。
全員の確保を終え、証拠の保全状況を確認する。書類は無事だ。
確認できた構成員は全員、動けない状態で確保されている。
リゼルが壁に背を預けていた。腕の傷には布が巻かれている。いつの間に処置したのか、分からなかった。
「思ったより手間取った」とリオは言った。
「そう?」
「三人目の魔術の発動が間に合ってしまった。出力を絞りすぎたせいだ」
「油断した私のミスだよ」
あっさりとした言葉だった。自分のミスをこれほど淡々と認める人間はそう多くない。リオはそれを黙って聞いた。
リゼルがリオを見た。数秒、黙って見ていた。
「リオって変わってるね」
「何がだ」
「心配してるみたいに見えて、全然してないでしょ」
リゼルがリオの肩を見た。
「さっき壁に叩きつけられてたよね。痛くないの?」
「多少はな」
「でも言わない。私の怪我は『事実』として指摘するのに、自分の怪我に関しては何も言わない」
「何か言ったほうが良かったか?」
「薄情ってわけじゃない。単純に、痛みとかに『興味』がないのかな」
リオは何も答えなかった。否定もしなかった。
「でも、それが」
そこで言葉が途切れた。リゼルは続きを言わなかった。代わりに、小さく笑った。
「面白い」
その一言の響きが、今までとは違っていた。リオにはそう聞こえた。何が違うのかは、判断できなかったが。
「……書類を確認した。資金の流れに不審な点がある」
「どういうこと」
「この組織の規模にしては、資金が過剰だ。外部から流れ込んでいる。しかし送金元が、書類上は存在しない組織になっている」
リゼルが天井を見上げた。しばらく黙っていた。
「続きがあるってこと?」
リオは少し考えた。
「……報告を上げて、正規の手続きを踏み、上の判断を仰ぐ」
「それでこの仕事は終わり?」
「いや。同時に調査は継続する」
「それって——」
「矛盾している」
リオは書類の束を見た。
「本来なら、報告後は指示を待つべきだ。しかしそうすれば、この資金の流れを辿る時間が失われる。証拠が消される可能性もある」
「じゃあ急いだ方がいい」
「しかし手続きを飛ばして独断で動けば、『契約』に抵触する恐れがある」
リゼルが黙った。
「それはまずいんじゃない?」
「まずい。しかし——」
リオは書類の束を見た。
「この資金の流れを辿らなければ、もっとまずいことになる予感がする」
リゼルがリオを見た。
「予感?」
「そうだ」
「リオってそういうこと言うんだ。意外かも」
「意外か?」
「うん。そういうの信じないタイプだと思ってた」
「普段はそうだな」
リオは書類を見た。
「しかし、こういう予感が今まで外れた覚えがない」
リゼルが黙った。
「じゃあ、面倒なことになりそうだね」
「監査官という仕事は、そういうものだ」
リオは外套の内側に書類を収めた。
「だから両方やる。手続きは守る。その上で、時間を失わないように動く。矛盾しているが、今はそれしかない」
夜明け前。
引き継ぎを終え、リオとリゼルは倉庫街を後にした。
東の空が白み始めていた。カルヴァの路地は、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。
宿への帰路、リゼルがリオの隣を歩いていた。示し合わせたわけではない。同じ方向だっただけだ。
リゼルは黙っていた。いつもの笑顔はない。かといって不機嫌そうでもない。ただ、何かを考えているような——そういう顔だった。
リオは横目でそれを確認した。
今日一日、リゼルの反応は何度か変化していた。倉庫街で『響界空識』を見た時は「便利」と言った。それは単純な評価だった。戦闘後に「面白そう」と言った時は、興味の表明だった。
そして先ほど、怪我の話をした後に言った「面白い」は——それまでとは違う響きだった。
何が違うのか。リオには判断できなかった。
リゼルが足を止めた。
「また一緒にやりたいな」
唐突だった。
「……依頼があればな」
「依頼じゃなくてもいい。専属で契約しない?」
リオは答えに詰まった。理由を聞くべきか。それとも——
「……突然だな」
「今思ったから」
シンプルすぎる答えだった。しかし嘘ではない。リオにはそれがわかった。
今日何度か見た、あの答え方だ。理由を後から探すのではなく、直感を先に口にする。
「理由は?」
「よくわかんない」リゼルが首を傾げた。
「でも、リオに少し興味が湧いた」
リオはリゼルを見た。リゼルも、リオを見ていた。
その目には、笑顔の時には見えなかった何かがあった。好奇心、というには少し違う。もっと純粋な——リオには名前のつけられない何かだった。
「……考えておく」
「考えておく、ってことは断らないんだ」
「今すぐ決める必要はないということだ」
リゼルが小さく笑った。
「やっぱりリオって面白いね。褒め言葉だよ」
「……ありがとうと言っておこう」
宿の前で別れた。
自室に戻り、扉に鍵をかける。外套を脱ぎ、書類の束を取り出してテーブルに広げた。引き継ぎ前にもう一度確認しておく必要があった。
取引記録。構成員リスト。製造記録。
そして最後の一枚。
架空組織の資金経路を辿っていくと、末尾に一つの署名があった。
手が止まった。
見覚えのある字だった。几帳面で、少し右に傾いた筆跡。書き慣れた人間の、迷いのない線だ。
視界が僅かに歪んだ。
——これは。
違う。あり得ない。
この男は既に————
リオは書類を閉じた。
証明できない。確認する手段もない。そもそも今夜、それを確認したいかどうかすら判断できなかった。
だから閉じた。それだけのことだ。
しかし右目に青い光が走った。書類の上に残った微細な魔力の痕跡が、糸のように浮かび上がる。馴染みのある魔力の残滓。「灰爪」のものではない。
リオは目を閉じた。
窓の外でカルヴァの街が、夜明けの光の中で輪郭を取り戻しつつあった。
調査は続く。次の手がかりが見え始めている。しかしこの署名のことだけは、証明できない。
だから——まだ、誰にも言うことはない。
この男は、自分が殺したはずなのだから。




