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異質の瞳

 昨日の夜は、地獄だった。

 自衛官の詰め所でさんざん絞られた後、迎えに来た親父には生まれて初めて本気で殴られ、お袋には泣き崩れられた。家に帰ってからも説教は朝まで続いた。

 でも、本当の地獄は、その翌日に待っていた。


 重い足取りでたどり着いた教室のドアを開けた瞬間、俺は全身に無数の針を突き立てられたような感覚に襲われた。

 視線だ。

 クラス全員の視線が、一斉に俺に突き刺さる。

 好奇、恐怖、非難、そして侮蔑。色とりどりの悪意がごちゃ混ぜになった、ねっとりとした視線の集中砲火。

 昨日までの日常が、たった一日で完全に別の世界線に切り替わってしまったのがわかった。


「――浜田、席に着け」


 教壇に立っていた担任教師が、こわばった声で言った。その目は、まるで猛獣使いが檻の中の虎を見るような、警戒心に満ちている。

「くれぐれも、問題は起こすんじゃないぞ」

 釘を刺すような一言に、クラスの数人がクスクスと笑う。

 俺は何も言わず、自分の席に向かった。

 俺の机だけが、まるで孤島のようにぽつんと浮いていた。周りの机が、不自然に距離を取って配置されている。見えない壁が、俺の周りに築かれていた。


 授業が始まっても、地獄は終わらない。

 先生が俺を指すことは一度もなかった。まるで俺がそこに存在しないかのように。

 休み時間になれば、昨日まで「一緒にドッジボールやろうぜ!」と肩を組んできた連中が、俺から目を逸らし、蜘蛛の子を散らすように離れていく。


「なあ、見た? 昨日の動画」

「見た見た。マジやばいよな、あいつ」

「自衛官、吹っ飛ばしてたぜ」

「化け物じゃん……」


 遠巻きに交わされるひそひそ話が、嫌でも耳に入ってくる。

 化け物。

 またその言葉だ。

 俺は慣れているフリをした。俯いて、ノートの隅に意味のない落書きを繰り返す。心を鎧で固めて、何も感じないようにする。

 でも、胸の奥が、錆びたナイフでじくじくと抉られるように痛んだ。

 俺は、カズヤとミツルを助けただけなのに。

 なんで俺が、こんな扱いを受けなきゃならないんだ。


 そんな針の筵のような空気の中で、ふと、一つだけ質の違う視線を感じた。

 それは、恐怖や非難の色を帯びていない。

 顔を上げると、教室の隅の席に座る女子と目が合った。


 真鍋恵(まなべめぐみ)


 クラス委員長で、いつもテストは一番。黒髪のポニーテールがよく似合う、真面目な優等生。

 彼女は、他の奴らとは違う目で俺を見ていた。

 そこにあるのは、恐怖じゃない。かといって、同情でもない。

 もっと純粋な、何か。

 まるで、解けない数式の答えを探すみたいに、じっと俺を観察している。その瞳の奥には、「どうして?」という、混じり気のない疑問の色が浮かんでいた。

 俺は居心地の悪さを感じて、すぐに視線を逸らした。

 なんだよ、あいつ。気味の悪い。


 その日一日は、あっという間に過ぎたようで、永遠のように長かった。

 最後のチャイムが鳴ると同時に、俺はランドセルを掴んで席を立った。一秒でも早く、この息の詰まる場所から逃げ出したかった。


「浜田くん、待って」


 背後から、凛とした声が俺を呼び止めた。

 振り返ると、真鍋恵が立っていた。

 クラスメイトたちは、俺たち二人を遠巻きに見ながら、そそくさと教室から出ていく。まるで、危険地帯から避難するように。


「……なんだよ」

 俺は、低い声で応じた。こいつも説教しに来たのか。それとも、化け物呼ばわりしに来たのか。


「少し、話せる?」

 真鍋は、俺の警戒心を意にも介さず、まっすぐな目で言った。

 俺は舌打ちしたいのをこらえ、無言で頷いた。


 人気のない、放課後の校庭の隅。錆びた鉄棒の前で、俺たちは向かい合っていた。

「昨日、なんであんなことしたの?」

 真鍋は、単刀直入に切り込んできた。

「中学生を、何人も病院送りにしたって聞いたけど」


「……」

 やっぱり、それか。

 腹の底から、どす黒い苛立ちがこみ上げてくる。

「お前も、俺が悪いって言いたいんだろ」


「わからない」真鍋は首を横に振った。「だから、聞いてるの」


「は?」

 予想外の答えに、俺は思わず間抜けな声を出した。


「浜田くんが、理由もなく人を殴るような人じゃないって、私は知ってるから」

 彼女は、淡々と言った。

「体育の時間、ボールが顔に当たった下級生に、一番に駆け寄ってたのは浜田くんだった。給食の時、牛乳を運んでて転んだ女子のことも、手伝ってた。見てないようで、見てるんだよ、ちゃんと」


 俺は言葉を失った。

 そんなこと、自分でも忘れていた。誰も気づいていないと思っていた。


「だから、理由があったんでしょ? カズヤくんとミツルくんが、絡まれてたって聞いたけど」

 真鍋の瞳が、俺の心の鎧をこじ開けようとしてくる。

 やめろ。

 やめてくれ。


 期待なんかしたくない。

 どうせ、こいつも同じだ。

 俺の力のことを知ったら、きっと「やりすぎだ」って言うに決まってる。俺を化け物だって言うに決まってる。

 助けたはずのカズヤとミツルでさえ、俺から逃げたんだ。

 もう、誰にもわかってもらおうなんて思わない。

 誰にも信じてもらえないのなら、最初から一人でいた方がマシだ。


「……関係ないだろ」


 俺は、それだけを吐き捨てると、彼女に背を向けた。

 これ以上、こいつと話していたら、固めたはずの何かが、崩れてしまいそうだった。


「待って、浜田く――」


 呼び止める声を無視して、俺は足早にその場を去った。

 逃げるように、校門へと向かう。

 もう誰も信じない。俺の正義は、俺だけがわかっていればいい。

 そう、自分に何度も言い聞かせた。


 俺が校門を出ていくのを、真鍋恵はずっと見ていた。

 その背中が完全に見えなくなると、彼女はきゅっと唇を結び、踵を返した。


 向かう先は、さっきまで俺がいた教室じゃない。

 隣のクラスだ。


 教室の入り口で、友達と駄弁っていたリュウヤの姿を見つけると、真鍋はためらうことなく声をかけた。


「ねえ、リュウヤくん」


 その声には、もう迷いはなかった。


「昨日の公園でのこと、詳しく教えてくれない?」


 浜田誉が知らないところで、たった一人の少女が、彼の閉ざされた世界に光を差し込もうと動き始めていた。

 それは、まだ本当に小さな、頼りない光だったけれど。

 彼の孤独な戦いに、初めて「理解者」という名の仲間が現れようとしている兆しだった。


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