プロローグ
世界がひっくり返るような熱狂は、たった二日で冷たい灰になった。
Code81区、首都東京。
鉛色の雲が低く垂れ込める空の下、俺は灰色の雑踏の中にいた。
目深に被ったフードの縁から、見慣れた、しかし決定的に変質してしまった東京の景色を覗き見る。
鼻をつくのは、排気ガスの臭いに混じった、焦げたゴムと鉄の臭気。そして、どこか甘ったるい、人工的な芳香剤の匂い。
二日前の未明、この国を揺るがそうとした灼熱の残り香と、それを覆い隠そうとする日常の悪臭だ。
大型ビジョンのニュースキャスターが、無機質な笑顔で告げている。
『――治安維持部隊の迅速な対応により、反乱分子は完全に鎮圧されました。市民の皆様におかれましては、平常通りの生活を――』
平常通り。
その言葉が、俺の三半規管を狂わせる。
肺を焼くような焦燥感も、流れた血の熱さも、ここにはもうない。あるのは、ただ消費されるだけの「事件」としての残骸だけだ。
「うわ、マジ? ここまだ通れないの?」
「あそこの壁、弾痕すごくない? 撮っとこ。映えるじゃん」
若者たちの軽い声が、鼓膜を無遠慮に叩く。
彼らが向けるスマートフォンのレンズの先には、黄色い規制線テープと、その奥で無機質な威圧感を放つ帝国軍の多脚戦車があった。
かつて「敵」と定めた、圧倒的な暴力の象徴。
しかし、今の彼らにとってそれは、非日常を演出する背景でしかないらしい。
息を殺し、猫背になってその脇を通り過ぎる。
心臓が早鐘を打っていた。恐怖ではない。いや、恐怖もある。だがそれ以上に、胸の奥でどす黒い何かが渦巻いているのを感じていた。
嘔吐感にも似た、激しい拒絶反応。
(……お前たちは、何も知らない)
ポケットの中で、拳を握りしめる。爪が掌に食い込む痛みが、辛うじて俺を現実に繋ぎ止めていた。
二日前。ここではない場所で、モニター越しにこの場所を見ていた。
北の薄暗い情報管制室。
暗号化された通信回線の向こう側で、仲間たちが次々と散っていく様を、ただ指をくわえて見ていることしかできなかった。
断末魔すら上げられず、閃光の中に消えていった命の数。
画面を埋め尽くすLOSTの文字……
それは罠だった。最初から仕組まれた、あまりにも残酷な処刑場。
それを知っていた。直前で気づいてしまった。
だが、伝える術を持たなかった。俺の声は、閉ざされた回線の中で虚しく響いただけだった。
『お前は、俺たちが作る新しい時代を生きてくれ』
あの人の最期の言葉が、呪いのように脳裏に焼き付いている。
師であり、親であり、俺の全てだった人。
彼は信じていた。この命を賭した行動が、眠れる獅子である日本人の魂を揺り起こすと。
腐敗した傀儡政権を倒し、誇りを取り戻すための狼煙になると。
その結果が、これか?
その「新しい時代」とやらが、これなのか?
俺は雑踏に紛れ、足早に歩を進める。
目的地は九段下。激戦の中心地であり、あの人が散った場所だ。
道中、すれ違う大人たちは皆、一様に視線を伏せていた。
街角に立つ帝国軍の兵士と目を合わせないように。
余計なトラブルに巻き込まれないように。
彼らの顔に浮かんでいるのは、圧政への怒りでも、革命への期待でもない。
ただ、「平穏な日常」を乱されたことへの、ささやかな不満と、見て見ぬふりをする冷めた諦観だけだ。
クーデターは失敗した。
だが、真に敗北させたのは、帝国の最新鋭兵器でも、緻密な情報操作でもなかったのかもしれない。
その答えを確かめなければならなかった。
自分の目で見て、絶望しなければならなかったのだ。
一時間ほど迂回を繰り返し、路地裏を抜け、ようやく九段下の交差点にたどり着く。
そこは、酷い有様だった。
アスファルトは爆撃によってめくれ上がり、黒い土が口を開けている。
建物の壁面は煤け、ガラスは砕け散り、歩道には乾いた赤黒い染みが点々と残っていた。
ここが、墓標だ。
俺の理想と、仲間たちの命が埋まった場所。
しかし。
その墓標の上を、何事もなかったかのように行き交う人々の姿だった。
サラリーマンが時計を見ながら、砕けた歩道を避けて走る。
主婦がスーパーの袋を提げ、焦げた壁の前で立ち話をしている。
自動清掃ロボットが、路上の瓦礫を淡々と吸い込んでいる。
誰も、地面の染みを見ようとはしない。
誰も、ここで何が起きたのかを、深く考えようとはしない。
まるで、最初から何もなかったかのように。
あるいは、過ぎ去った台風の被害を確認するように。
「終わったこと」として処理され、消費され、日常という巨大な波に飲み込まれていく。
めくれ上がったアスファルトの端に立ち尽くした。
足元から、底冷えするような絶望が這い上がってくる。
飼い慣らされた平和と、そこそこの娯楽があればいい。
それが、この国の答えだった。
蜂起を徹底的に破壊し、その無残な死に様を晒し者にした。
「逆らっても無駄だ」という恐怖を植え付けるためですらない。
「逆らうことなど馬鹿げている」という、冷笑を誘うために。
俺たちの命懸けの叫びは、この分厚い無関心の壁に吸い込まれ、消滅したのだ。
クッションのように柔らかく、底なし沼のように深い、大衆の無関心。
それこそが、最強の防壁だった。
「……はは」
乾いた笑いが、喉の奥から漏れた。
馬鹿みたいだ。本当に、馬鹿みたいじゃないか。
誰のために戦ったんだ?
誰のために、あの人は死んだんだ?
誰も望んでいなかった。
日本の夜明けなんて、誰も待ち望んでいなかったんだ。
視界が滲む。
フードの下で、熱いものが頬を伝った。
それは悲しみだったのか、悔しさだったのか、それとも自分自身の愚かさへの憐れみだったのか。
アスファルトの亀裂に視線を落とす。
そこには、焼け焦げた何かの破片が落ちていた。
おそらく、仲間の装備の一部だろう。
俺はそれを拾い上げることなく、ただじっと見つめた。
『生きてくれ』
その言葉が、今はただの呪詛のように俺を縛り付ける。
理想を失い、目的を失い、それでも生きろと言うのか。
この、腐りきったぬるま湯のような世界で。
涙を拭う。
乱暴に、袖口で擦り落とす。
もう、泣くのはこれで最後だ。
理想に燃えた若者は、今日、ここで死んだ。
仲間たちと共に、この冷たいアスファルトの下に埋葬されたのだ。
顔を上げる。
曇天の空は、どこまでも重く、低く垂れ込めている。
俺はフードを深く被り直し、喧騒の中へと背を向けた。
朝日は、もう昇らない……




