第4章:ユナ
廃墟の研究施設跡は、崩れた天井と割れた壁、散乱する装置の残骸に覆われていた。灰色の空から差し込む光はわずかで、影の中で何かが微かに揺れている。カイは足を止め、呼吸を整えた。目の前の小さな人影——それが、ヴェイルの言った“運命を変える誰か”だと直感した。
少女は倒れたまま、目を閉じていた。かすかな呼吸だけが生きている証だった。カイは慎重に近づき、膝をついて彼女の肩に触れる。体温は低く、細い腕は弱々しく震えている。神経同期グローブが微かに反応し、脳波に異常な二重化の痕跡を示す。——この少女は、ただの生身の人間ではない。
「……大丈夫か?」カイの声は低く、震えないように意識した。少女の瞳がゆっくりと開く。深い瞳は一瞬、怯えと警戒に満ちていたが、同時に無垢な好奇心が混じっていた。名前を尋ねる前に、カイはその異質な波動を感じ取った。少女の脳波は通常の人間の二倍近くの活動量を示し、微かに電脳世界の残響と同調している。
「……ユナ」小さな声が、砂埃を含む空気に溶けた。覚えている名前のように響き、しかし記憶は断片的で、意味を失った感覚だけが残っている。カイはその名を胸に刻む。——この少女、ユナを、収容される前に助けなければならない。
瓦礫の間を慎重に移動し、ユナを抱き上げる。彼女の体は細く軽いが、意識の揺らぎが伝わる。カイはブレードを腰に固定し、EMPガンの位置を確認した。地上の廃墟は安全とは言えず、崩れた建造物や不安定な床、時折落下する鉄骨が危険を増す。だが、ユナの存在は、全ての恐怖を凌駕する。
背後で、微かな音が響く。カイは振り返ると、仮面の情報屋ヴェイルが廃墟の影から現れていた。無表情な顔の下に、意図を計り知れない瞳が光る。「逃亡した存在を確認した」とヴェイルの声は淡々としているが、その響きには警告が含まれている。カイは小さく頷くと、ヴェイルを意識しつつもユナに集中した。
「地下層まで、連れて行く。安全な場所まで……」
ユナは微かに体を動かし、カイの腕に身を預ける。記憶の多くは失われているが、直感的にこの人物を危険とは感じていないらしい。カイは廃墟帯を抜け、昇降管へと向かう。途中、崩れた歩道橋や倒れた車両を避けながら、慎重に足を運ぶ。ユナの体は時折微かに震えるが、安堵の色が少しずつ表れる。
地下層の昇降管に到達すると、カイはユナを慎重に管内に入れる。管の中は狭く、青白い光が淡く照らす。ユナはまだ弱々しいが、呼吸は安定し、脳波の二重化も微かに鎮まっている。カイは手早く制御パネルを操作し、管を下降させる。地下層の空気に触れ、ナギサとトーレスの存在を思い描く。——彼らの助けを借りれば、ユナを安全に保護できる。
地下層に戻ると、ナギサが待っていた。栗色の髪を一つにまとめ、冷静な表情でカイとユナを迎える。「大丈夫、無理をしないで。彼女の体調をまず確認しよう」ナギサは手際よくユナの状態を診断し、カイに向けて微笑む。ユナは初めて受け入れられた存在として、微かに安堵の表情を浮かべる。
その瞬間、地下層の電脳端末が異常な波形を検知した。ヴェイルが以前に示した、ユナの二重化思考波形が微かに反応している。誰も意識していない深層のネットワークの奥で、ユナの存在に反応する何かが蠢き始めている。カイはブレードに手を触れながら、静かにユナの肩を抱きしめる。
「ここからは、俺が守る」カイの声は揺らがない。ユナはまだ記憶を失っているが、その眼差しはカイを信じるかのように微かに光る。地下層の薄暗い光の中で、二人の存在は小さいながらも確かに温かく、未来への一歩を踏み出した瞬間だった。
瓦礫と残骸に囲まれた地下層に、静かな安堵が広がる。しかしその裏で、電脳網の奥深く——富裕層のシステム、そしてヴェイルも知り得ぬ存在が、微かな蠢きを見せている。ユナの秘密、デュアルマインドの真実、そしてカイの運命——すべてが、静かに、しかし確実に動き始めていた。




